海知町の二日目のシンカン祭(まつり)は宵宮神事。
場は倭恩智神社になる。
祭りに際して氏神さんに供える神饌がある。
安永六年(1777)二月に記された『海知村座中 當村宮座神拝献立並ニ 年中式法書控』によれば、渡家(現在のオトヤ・コトヤ)が勤める観音講の営みもあったようだ。
八月(当時旧暦)七日、八日、九日には『渡家明神請仕座衆云々』なにがしとあることから当時は明神講と呼んでいたのである。
「明神講」の名が今でも残されている。
『文久始酉八月 牛頭天王 神楽太鼓入筥(はこ) 明神講中』の墨書がある「神楽太鼓」の箱である。
古文書によれば、『九日供物に七色御くしはん買物次第』とある。
野菜は『見いかん、かき、なし、くり、なつめ、ミやうか、もも』である。
それが今で云う「七色の御供」で、ミョウガ、ミカン、カキ、ナシ、クリ、ナツメにモモの七品を竹串に挿しておいた。
広げる角度は60度ぐらいが丁度良いと話す。
竹串の先は品によって尖らかし方に工夫が要る。
堅いクリは鋭利だが、柔らかいモモはやや太めで先を丸くする。
そうしておかないとクルリと回って落ちてしまうのである。
神饌の調製は簡単なようで難しいのだ。
モチを四方に竹串で挿した『荷餅』は「荷ない餅」と呼んでいる。
昨日作った70匁(もんめ)と90匁のモチはそれぞれ2個ずつ竹串で挿した。
同じく九日供物には「杉板」とあることから、今で云う「杉皮モチ」若しくは「花御供」は宵宮の御供、九日の祭典にも供えていた。
これらの供物は渡りの出発前に神饌箱へ納める。
神饌箱には「明治四十三年九月 日韓合併祝賀紀念 明神講什物」の墨書がある。
神楽太鼓の箱と同様に、これもまた「明神講」であった現在の海知町のシンカン祭。
今では明神講とは呼ばれていない。
拝見した昭和十年に記された『倭恩智神社年中行事』の写しにもシンカン祭の呼び名がない。
それ以降に何らかの事由で、祭りの呼び名が替ったのであろう。
シンカン祭の宵宮に向かうお渡りがある。
総代を先頭に田原本町の法貴寺・池坐朝霧黄幡比賣神社宮司、御幣を持つ大当屋・小当屋に続いて神饌箱を担いでいるのは手伝いの人足だ。
大当屋・小当屋の呼び名は、安永六年の座中記録によれば大渡・小渡であった。
お渡りをされるオトヤ・コトヤは「渡人」である。

集落の建物の様相をバックに水路を入れて撮った。
突然来られた見学者がお渡りに付いていくので、被写体にかぶってしまう。
祭事関係者でない方にはお声を掛けて、行幸から外れてもらった。

神社に到着すれば、神饌を拝殿に並べて、神官、オトヤ、コトヤが座する。
まずは神饌を幣で祓い清める。
その次が御供上げだ。

手伝いさんが手で受けて、本殿に供えていく。

宵宮に供えられる『七色御くしはん』である。
現在は「七色の御供」と呼ばれている神饌の形態に特徴がある。
白いカワラケに半切りにしたトウノイモ(里芋頭)を藁で括った土台。
そこに竹で挿した七品の果物など。

かつては立てていたのであろうかと思った。
折敷には杉皮モチ、荷ないモチも納めてある。
本殿が7膳で、末社の春日さん、八幡さん、稲荷社へは各1膳ずつである。
なぜに本社が7膳であるのか、史料には書き記されていない。

宵宮神事にオトヤ・コトヤが奉じる御幣がある。
敷物に正座した神官が御幣を受け取る。
立ちあがって御幣を手にして作法されたのは奉幣振りの神事である。

昔はオトヤ・コトヤをオオトーヤ・コトーヤと呼んでいたと話す老婦人。
そういえば、祝詞を奏上した神官の詞はオオトーヤ・コトーヤであった。
宵宮の神事を滞りなく終えれば、拝殿で直会だ。
一枚もののスルメを肴にお神酒をいただく。
直会は短時間で終えてお開きとなった。

かつては下げた七色御供を近くの川に流していた。
昭和62年に書かれた史料によれば、法貴寺の大川に流すとあった。
それは一時的なことであった。
現在は七色御供の生御膳は竹串から外して神社前の池に捨てる。
竹串は正月明けのとんどで燃やすそうだ。
宵宮神事を終えたオトヤ・コトヤは再び田原本町法貴寺地区在住の女児巫女とともにやってくる。
夕闇近い時間帯である。
前日にオトヤ家で行われた御湯之儀を執り行う。
それからは氏子が参る宵宮は女児巫女が舞う神楽があるが、都合で拝見できなかった。
(H25. 9. 7 EOS40D撮影)
場は倭恩智神社になる。
祭りに際して氏神さんに供える神饌がある。
安永六年(1777)二月に記された『海知村座中 當村宮座神拝献立並ニ 年中式法書控』によれば、渡家(現在のオトヤ・コトヤ)が勤める観音講の営みもあったようだ。
八月(当時旧暦)七日、八日、九日には『渡家明神請仕座衆云々』なにがしとあることから当時は明神講と呼んでいたのである。
「明神講」の名が今でも残されている。
『文久始酉八月 牛頭天王 神楽太鼓入筥(はこ) 明神講中』の墨書がある「神楽太鼓」の箱である。
古文書によれば、『九日供物に七色御くしはん買物次第』とある。
野菜は『見いかん、かき、なし、くり、なつめ、ミやうか、もも』である。
それが今で云う「七色の御供」で、ミョウガ、ミカン、カキ、ナシ、クリ、ナツメにモモの七品を竹串に挿しておいた。
広げる角度は60度ぐらいが丁度良いと話す。
竹串の先は品によって尖らかし方に工夫が要る。
堅いクリは鋭利だが、柔らかいモモはやや太めで先を丸くする。
そうしておかないとクルリと回って落ちてしまうのである。
神饌の調製は簡単なようで難しいのだ。
モチを四方に竹串で挿した『荷餅』は「荷ない餅」と呼んでいる。
昨日作った70匁(もんめ)と90匁のモチはそれぞれ2個ずつ竹串で挿した。
同じく九日供物には「杉板」とあることから、今で云う「杉皮モチ」若しくは「花御供」は宵宮の御供、九日の祭典にも供えていた。
これらの供物は渡りの出発前に神饌箱へ納める。
神饌箱には「明治四十三年九月 日韓合併祝賀紀念 明神講什物」の墨書がある。
神楽太鼓の箱と同様に、これもまた「明神講」であった現在の海知町のシンカン祭。
今では明神講とは呼ばれていない。
拝見した昭和十年に記された『倭恩智神社年中行事』の写しにもシンカン祭の呼び名がない。
それ以降に何らかの事由で、祭りの呼び名が替ったのであろう。
シンカン祭の宵宮に向かうお渡りがある。
総代を先頭に田原本町の法貴寺・池坐朝霧黄幡比賣神社宮司、御幣を持つ大当屋・小当屋に続いて神饌箱を担いでいるのは手伝いの人足だ。
大当屋・小当屋の呼び名は、安永六年の座中記録によれば大渡・小渡であった。
お渡りをされるオトヤ・コトヤは「渡人」である。

集落の建物の様相をバックに水路を入れて撮った。
突然来られた見学者がお渡りに付いていくので、被写体にかぶってしまう。
祭事関係者でない方にはお声を掛けて、行幸から外れてもらった。

神社に到着すれば、神饌を拝殿に並べて、神官、オトヤ、コトヤが座する。
まずは神饌を幣で祓い清める。
その次が御供上げだ。

手伝いさんが手で受けて、本殿に供えていく。

宵宮に供えられる『七色御くしはん』である。
現在は「七色の御供」と呼ばれている神饌の形態に特徴がある。
白いカワラケに半切りにしたトウノイモ(里芋頭)を藁で括った土台。
そこに竹で挿した七品の果物など。

かつては立てていたのであろうかと思った。
折敷には杉皮モチ、荷ないモチも納めてある。
本殿が7膳で、末社の春日さん、八幡さん、稲荷社へは各1膳ずつである。
なぜに本社が7膳であるのか、史料には書き記されていない。

宵宮神事にオトヤ・コトヤが奉じる御幣がある。
敷物に正座した神官が御幣を受け取る。
立ちあがって御幣を手にして作法されたのは奉幣振りの神事である。

昔はオトヤ・コトヤをオオトーヤ・コトーヤと呼んでいたと話す老婦人。
そういえば、祝詞を奏上した神官の詞はオオトーヤ・コトーヤであった。
宵宮の神事を滞りなく終えれば、拝殿で直会だ。
一枚もののスルメを肴にお神酒をいただく。
直会は短時間で終えてお開きとなった。

かつては下げた七色御供を近くの川に流していた。
昭和62年に書かれた史料によれば、法貴寺の大川に流すとあった。
それは一時的なことであった。
現在は七色御供の生御膳は竹串から外して神社前の池に捨てる。
竹串は正月明けのとんどで燃やすそうだ。
宵宮神事を終えたオトヤ・コトヤは再び田原本町法貴寺地区在住の女児巫女とともにやってくる。
夕闇近い時間帯である。
前日にオトヤ家で行われた御湯之儀を執り行う。
それからは氏子が参る宵宮は女児巫女が舞う神楽があるが、都合で拝見できなかった。
(H25. 9. 7 EOS40D撮影)