「牛滝まつり」を「うったきさん」と呼んでいる大淀町馬佐(ばさ)の住民たち。
牛滝まつり行事の場は牛滝社。
親しみを込めた「うしたきさん」が訛って「うったきさん」と呼んでいるようだ。
「うったきさん」の日は飼っていた牛を引き連れて参っていたと云う。
大淀町教育委員会が編集された『おおよどの地域文化財を学ぶ』によれば、高取町山間より壺坂街道を経て田口、馬佐、比曽、上市へ向かう道は旅人や修験者が頻繁に通っていた江戸時代、馬屋を建てたとか、「うまみち」の呼び名もあったそうだ。
『大淀町の伝説』には「うまみち」のことが記されている。
それには「馬をたくさん引き連れてきた太閤秀吉が馬佐峠付近で演習をしていた。いざ帰ろうとした際、一頭の馬が足らなかった。付近を探したが見つからなかった。もっと探せば一つの谷のどんづまりに馬がいた」とある。
探していた馬が見つかった馬佐。
つまりは「馬さがし」が転じて「馬佐」の地名になったというのである。
見つかった谷のどんづまりや周りの山々を「うまみち」と呼んだのである。
なるほどと思わせる伝承である。
昭和28年に発刊された『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域・龍門地区-』によれば、牛滝社は馬佐だけでなく、高取町の壺坂、大淀町の比曽、吉野町の山口・志賀にもあったようだ。
壺坂峠を越える壺坂街道、さらに東進する街道は吉野町へと繋がっていたのだ。
志賀の鷹塚の牛滝祭りでは、赤い首輪をつけて飾った牛を連れて参っていた。
寄り合い角力や御供撒きで賑わったそうだ。
その後において創建された山口、比曽、壺坂の牛滝社であるということから、馬佐も同時代の創建であったと思ったが、そうではなく山口の社を明治45年に合祀して八阪神社と称すようになったようだ。
馬佐の牛滝まつりは9月15日に行われていたが、ハッピマンデー法令によって敬老の日の祝日になった。
この年は台風18号の影響で明日香・高取から芦原トンネル入口手前の国道169号線は泥まみれになっていた。
ほぼ通行止めである。
ほぼというのはわずか数台を通らせていたのである。
芦原を通過した直後に閉鎖されたトンネルを見届けて一路。畑屋、越部を抜けて馬佐に着く。
滝のように山から流れる水量は大量で牛滝社は水浸しの状況であった。
牛の守り神とされる牛滝社は天照皇太神宮の境内社で八阪神社とも称される。
この日はまさに「牛滝さん」が呼び込んだと思えるような滝の様相であった。
牛滝社の社殿に神饌を供える村役やトヤの人たち。
神饌はナンキンカボチャを土台に竹串で挿したニンジン、マンガンジアマトウ、ナガナス、シイタケ、サツマイモ。
村人たちが「御膳料」を払って、トヤが作った神饌御供である。
神饌は八つの盛り。
挿した野菜は特に決まりもなく、馬佐で採れた野菜もの。
年によっては異なると云っていたが、昨年に行われた村の記録写真と同じだった。
「御膳料」を記されたお札は志納した村人の名を添えている。
神饌には名前が無いと云われたが、おそらく「御膳」であろう。
そのころは公民館で敬老の祝いを終えた人たちもやってきた。
急な坂道を歩いてきたと話す。
社殿前は水浸し。
仕方なく、神職が立つ位置に板を置いて神事を執り行われた。
特別なことはなく、祓え、祝詞奏上、玉串奉奠で神事を終えた。
神事を終えればゴクマキであるが、この日の境内は水浸しのぬかるみ状態。
やむを得ずトヤから受け取る村人たち。
ありがたく受け取って家路を急ぐ。
50年ほど前のことだと話す長老は82歳。
土俵を作った境内では、上半身裸で、晒しで巻いたフンドシ姿の小・中学生の子供や成人が競っていたそうだ。
腕っ節を試そうとやってきた下市の成人男子も加わって競っていたと云う。
かつては藁で作った土俵があった。
土俵の砂は馬佐川から揚げていた奇麗な砂だった。
その土俵の角に三角台が置いてあったと云う。
そこには「牛」そのものの形の版木を押した紙があったと云う。
参拝者はそれを持ち帰り、餌を与えるカイバ口がある牛小屋の柱に貼っていたと云う。
大切な飼い牛が病気にならんようにという願掛けのようなお札だったと云う。
農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。
神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえていた牛参りは記憶に残るだけとなった。
馬佐のマツリは10月第二日曜日。
かつては10月15日だった。
前日の土曜日には盛大にマツリごとをしていた座講(ざぁこう)の行事である。
「昔はマツタケのすき焼きがあってよばれていた」と話す。
マツタケは普通にあった。
お弁当にもマツタケがあった。マツタケを入れて炊いたマツタケメシだった。
小学校での通学路にもマツタケが生えていたくらいに多かった。
多いから棒で叩いて潰して遊んでいたと笑いながら話す。
いつしかマツタケがないすき焼きになったが、それは一老、二老だけがよばれる座であった。
トヤ受けのときにもヨバレがあった。
朝、昼、夜に翌日のマツリの昼も食べて飲む座だったそうだ。
かつては20~23軒で行われていたが、今では村から出ていった家もあって13軒の営みとなった。
マツリにはお渡りがある。
早朝、トヤの家に集まった講中は始めにお茶をいただく。
トヤは衣装に着替えるが、どのような装束であるのか聞きそびれた。
幟を持つトヤを先頭にお渡りが向う先は天照皇太神宮だ。
それにしても台風の影響は各地で被害にあった。
後日に聞いた大和郡山額田部住民の話によれば、吐田の油掛け地蔵さんも水浸しになったと云う。
油でもなく、泥でもなく、田畑も溢れた水だったそうだ。
(H25. 9.16 EOS40D撮影)
牛滝まつり行事の場は牛滝社。
親しみを込めた「うしたきさん」が訛って「うったきさん」と呼んでいるようだ。
「うったきさん」の日は飼っていた牛を引き連れて参っていたと云う。
大淀町教育委員会が編集された『おおよどの地域文化財を学ぶ』によれば、高取町山間より壺坂街道を経て田口、馬佐、比曽、上市へ向かう道は旅人や修験者が頻繁に通っていた江戸時代、馬屋を建てたとか、「うまみち」の呼び名もあったそうだ。
『大淀町の伝説』には「うまみち」のことが記されている。
それには「馬をたくさん引き連れてきた太閤秀吉が馬佐峠付近で演習をしていた。いざ帰ろうとした際、一頭の馬が足らなかった。付近を探したが見つからなかった。もっと探せば一つの谷のどんづまりに馬がいた」とある。
探していた馬が見つかった馬佐。
つまりは「馬さがし」が転じて「馬佐」の地名になったというのである。
見つかった谷のどんづまりや周りの山々を「うまみち」と呼んだのである。
なるほどと思わせる伝承である。
昭和28年に発刊された『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域・龍門地区-』によれば、牛滝社は馬佐だけでなく、高取町の壺坂、大淀町の比曽、吉野町の山口・志賀にもあったようだ。
壺坂峠を越える壺坂街道、さらに東進する街道は吉野町へと繋がっていたのだ。
志賀の鷹塚の牛滝祭りでは、赤い首輪をつけて飾った牛を連れて参っていた。
寄り合い角力や御供撒きで賑わったそうだ。
その後において創建された山口、比曽、壺坂の牛滝社であるということから、馬佐も同時代の創建であったと思ったが、そうではなく山口の社を明治45年に合祀して八阪神社と称すようになったようだ。
馬佐の牛滝まつりは9月15日に行われていたが、ハッピマンデー法令によって敬老の日の祝日になった。
この年は台風18号の影響で明日香・高取から芦原トンネル入口手前の国道169号線は泥まみれになっていた。
ほぼ通行止めである。
ほぼというのはわずか数台を通らせていたのである。
芦原を通過した直後に閉鎖されたトンネルを見届けて一路。畑屋、越部を抜けて馬佐に着く。
滝のように山から流れる水量は大量で牛滝社は水浸しの状況であった。
牛の守り神とされる牛滝社は天照皇太神宮の境内社で八阪神社とも称される。
この日はまさに「牛滝さん」が呼び込んだと思えるような滝の様相であった。
牛滝社の社殿に神饌を供える村役やトヤの人たち。
神饌はナンキンカボチャを土台に竹串で挿したニンジン、マンガンジアマトウ、ナガナス、シイタケ、サツマイモ。
村人たちが「御膳料」を払って、トヤが作った神饌御供である。
神饌は八つの盛り。
挿した野菜は特に決まりもなく、馬佐で採れた野菜もの。
年によっては異なると云っていたが、昨年に行われた村の記録写真と同じだった。
「御膳料」を記されたお札は志納した村人の名を添えている。
神饌には名前が無いと云われたが、おそらく「御膳」であろう。
そのころは公民館で敬老の祝いを終えた人たちもやってきた。
急な坂道を歩いてきたと話す。
社殿前は水浸し。
仕方なく、神職が立つ位置に板を置いて神事を執り行われた。
特別なことはなく、祓え、祝詞奏上、玉串奉奠で神事を終えた。
神事を終えればゴクマキであるが、この日の境内は水浸しのぬかるみ状態。
やむを得ずトヤから受け取る村人たち。
ありがたく受け取って家路を急ぐ。
50年ほど前のことだと話す長老は82歳。
土俵を作った境内では、上半身裸で、晒しで巻いたフンドシ姿の小・中学生の子供や成人が競っていたそうだ。
腕っ節を試そうとやってきた下市の成人男子も加わって競っていたと云う。
かつては藁で作った土俵があった。
土俵の砂は馬佐川から揚げていた奇麗な砂だった。
その土俵の角に三角台が置いてあったと云う。
そこには「牛」そのものの形の版木を押した紙があったと云う。
参拝者はそれを持ち帰り、餌を与えるカイバ口がある牛小屋の柱に貼っていたと云う。
大切な飼い牛が病気にならんようにという願掛けのようなお札だったと云う。
農業一本だったころの牛を引き連れて「うったきさん」に出かけた。
神社前にある樹木や電信柱に牛綱を結わえていた牛参りは記憶に残るだけとなった。
馬佐のマツリは10月第二日曜日。
かつては10月15日だった。
前日の土曜日には盛大にマツリごとをしていた座講(ざぁこう)の行事である。
「昔はマツタケのすき焼きがあってよばれていた」と話す。
マツタケは普通にあった。
お弁当にもマツタケがあった。マツタケを入れて炊いたマツタケメシだった。
小学校での通学路にもマツタケが生えていたくらいに多かった。
多いから棒で叩いて潰して遊んでいたと笑いながら話す。
いつしかマツタケがないすき焼きになったが、それは一老、二老だけがよばれる座であった。
トヤ受けのときにもヨバレがあった。
朝、昼、夜に翌日のマツリの昼も食べて飲む座だったそうだ。
かつては20~23軒で行われていたが、今では村から出ていった家もあって13軒の営みとなった。
マツリにはお渡りがある。
早朝、トヤの家に集まった講中は始めにお茶をいただく。
トヤは衣装に着替えるが、どのような装束であるのか聞きそびれた。
幟を持つトヤを先頭にお渡りが向う先は天照皇太神宮だ。
それにしても台風の影響は各地で被害にあった。
後日に聞いた大和郡山額田部住民の話によれば、吐田の油掛け地蔵さんも水浸しになったと云う。
油でもなく、泥でもなく、田畑も溢れた水だったそうだ。
(H25. 9.16 EOS40D撮影)