5年ぐらい前までは「ヤマモリ」と云って家で作った弁当を持ちこんでいた田原本町法貴寺の斎宮神社(さいぐうじんじゃ)。
境内にゴザを敷いて周りに提灯を掲げていた。
以前は家の提灯を掲げていたが、いつしか電灯の提灯になった。
もっと昔は提灯もなく真っ暗な中で食べていたと話す。
「ヤマモリ」は「雨が降らんかったら、雨乞いや」と云って、雨乞いの願掛けの夜食であったようだ。
「ヤマモリ」をすれば不思議と雨が降ってきたと話す。
この日の夕刻、斎宮神社を崇める法貴寺の西口・西南・前田垣内の人たちが集まってくる。
斎宮四社明神を祭る斎宮神社は法貴寺西にあるのゴウシンサンから南方へ数百メートルの地に鎮座する。
その地は「サイクサン」と呼ばれる小字の畑地。
別名に「畑斎宮」の名があると云う。
「畑斎宮」は北の方にも広がる地。
これより南側は馬場と呼ばれる小字。
かつては馬を飼っていたと云う地である。
ここら辺りの畑地には地下水を汲みだす井戸のポンプが多く見られる。
日照りのときは助かる井戸水は、たまに茶色の水も出るようだ。
宮さんは村の神社三役、当番も3軒で、西口・西南・前田垣内のもち回り役が勤める斎宮神社のヨミヤに御湯の神事が行われる。
夕陽が挿しこむ時間帯になれば池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司がやって来た。

祓え、祝詞奏上、玉串奉奠を終える頃には法貴寺在住の女児巫女が到着する。
これより始めるのが御湯の儀式である。
羽根釜に雑木をくべて湯を沸かしていた。
湯釜は7月に行われた川西講大神宮のゴウシンさんの湯釜である。
在地のO家が管理されている湯釜は古い物ではあるが、年代、製作者を示すような刻印はなかった。
始めに幣を振る。
その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。
笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。
次に洗い米を湯釜に投入して、塩、酒を注いで湯釜を清める。
御湯釜の禊祓いである。

本殿に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。
鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。

参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いで終えたヨミヤの御湯。
ヨミヤと呼ばれる行事は一夜限りの祭りである。
おそらく「むかしよみや」であったかも知れない。
(H25. 9.21 EOS40D撮影)
境内にゴザを敷いて周りに提灯を掲げていた。
以前は家の提灯を掲げていたが、いつしか電灯の提灯になった。
もっと昔は提灯もなく真っ暗な中で食べていたと話す。
「ヤマモリ」は「雨が降らんかったら、雨乞いや」と云って、雨乞いの願掛けの夜食であったようだ。
「ヤマモリ」をすれば不思議と雨が降ってきたと話す。
この日の夕刻、斎宮神社を崇める法貴寺の西口・西南・前田垣内の人たちが集まってくる。
斎宮四社明神を祭る斎宮神社は法貴寺西にあるのゴウシンサンから南方へ数百メートルの地に鎮座する。
その地は「サイクサン」と呼ばれる小字の畑地。
別名に「畑斎宮」の名があると云う。
「畑斎宮」は北の方にも広がる地。
これより南側は馬場と呼ばれる小字。
かつては馬を飼っていたと云う地である。
ここら辺りの畑地には地下水を汲みだす井戸のポンプが多く見られる。
日照りのときは助かる井戸水は、たまに茶色の水も出るようだ。
宮さんは村の神社三役、当番も3軒で、西口・西南・前田垣内のもち回り役が勤める斎宮神社のヨミヤに御湯の神事が行われる。
夕陽が挿しこむ時間帯になれば池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司がやって来た。

祓え、祝詞奏上、玉串奉奠を終える頃には法貴寺在住の女児巫女が到着する。
これより始めるのが御湯の儀式である。
羽根釜に雑木をくべて湯を沸かしていた。
湯釜は7月に行われた川西講大神宮のゴウシンさんの湯釜である。
在地のO家が管理されている湯釜は古い物ではあるが、年代、製作者を示すような刻印はなかった。
始めに幣を振る。
その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。
笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。
次に洗い米を湯釜に投入して、塩、酒を注いで湯釜を清める。
御湯釜の禊祓いである。

本殿に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。
鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。

参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いで終えたヨミヤの御湯。
ヨミヤと呼ばれる行事は一夜限りの祭りである。
おそらく「むかしよみや」であったかも知れない。
(H25. 9.21 EOS40D撮影)