前夜に降り出した雨はやまない。
雨水がかかってはせっかくの提灯は傷んでしまうと判断されて仕舞われた。
提灯を立てた杭だけが残された。
本来なら4基の村の提灯が並ぶのだが、雨にあたれば修繕する費用がかかる。
マツリに相応しい提灯掲げは止むを得ない処置だと平群町久安寺の総代が話す。
久安寺に鎮座する素盞嗚神社は信貴フラワーロードを少し西に下った集落の南側にある。
久安寺集落は起伏に富んだ3垣内(北、久保、南)。
それぞれの垣内から選ばれた年当番の人たちがマツリを勤める。
本殿の祭神は素盞嗚命。江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた。
境内社左は春日神社で、右が八王子社である。
神社に上がる石段を登れば石の鳥居がある。
その傍にある石燈籠には天保六年(1835)の記銘がある。
かつては宮座の行事であったが、現在は村行事となった秋のマツリ。
6月に行われたケツケの植付け休みと同じように御湯が行われる。
前庭に設えた斎場はケツケと同様に四方の忌竹で囲われている。
御湯の前に神事が行われる。
本殿前で龍田大社の神官が祝詞を奏上されて三郷町在住の巫女さんが神楽舞を舞う。
始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。
次が剣の舞だ。
拝殿には集まった村人で埋まっている。
入りきらずにいた婦人たちは拝殿下に並ぶ。
遠慮して撮らせていただいた神楽舞やお祓いの鈴。

ケツケ同様に参拝する村人たちに鈴でお祓いをされる。

階段下で列を作っていた婦人たちや子どもらにも「祓いたまえー 清めたまえー」とお祓いをされる。
そうこうして玉串奉奠。数多くの氏子たちが奉げる。

マツリのご馳走は当番の人が作った枝付きのエダマメだ。
籠いっぱいに盛られたエダマメは大量である。
三社に供える神饌は献饌もせずに予め置かれていた。

神事を終えて撮らせてもらった御供は稲穂、鯛、牛蒡、大根、椎茸、枝豆、柿、林檎、蜜柑などである。
氏子のU氏の話しによれば、かつて宮座行事であったときには手で一つ一つ手渡す献饌であったと云う。
秋のマツリのメインも巫女さんが作法をする御湯。
雨が降っている日であっても「御湯の作法をする時間帯はいつも雨が降らないんです」と巫女さんが云っていた通りに止んだ。

斎場を遠巻きにして見守る村人たちの視線を感じながらの作法である。
薪のシバで釜湯を煮立てて、笹で掻き混ぜればもうもうと立ちあがる湯気。

湯気が久安寺の里に降りる神さんなのである。
聞くところによればある村では、火を起こさず魔法瓶の湯を注いでいたらしい。
それでは「村に神さんが降りることはない」と苦言を申されたというやに聞いた風の便り。
柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。
最初にキリヌサを撒く。
お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。
御幣と鈴を手にして右や左に舞う。
2本の笹を両手にもって湯に浸ける。
もうもうと立ちあがる湯気。

大きな動作でシャバシャバすれば立ちあがる。
東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。
再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。

何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。
御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の二社である。
シャン、シャンと鈴の音がする。
履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。
「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」。
村人一人ずつ湯笹で祓った。

設えたテント向こうでこの日の支度をしていた婦人たちにもきちっと祓われる。
こういう丁寧なたち振る舞いにいつも感動する。
かつて、巫女さんは村の女性であったとU氏が話す。
女性は三輪で習った作法を久安寺で所作していたと云う。
戦時中のことだと話すUさんは80歳。
隣村の信貴畑も含めた地域の神社の朔日(ついたち)参りにも出仕していた。
参りに行くのは地区小学生の子供たちだった。
そういう地域の参り方の様相は過去のこと。
今では見られなくなったと云う。

御湯が終わって当番の人が作った枝付きのエダマメでお神酒をいただく。
塩をいっぱい振りかけたエダマメの美味しいこと。

テント下では男性たちが、社務所内には子どもたちや婦人たちでぎっしり。
村人といえども有料で販売されるおでん、きつねうどん、ぜんざい、おにぎりにビールで賑わった。

久安寺の村のマツリでいただくほのぼした風情。
よばれたきつねうどんもまた食べたくなったと思った。
(H25.10.19 EOS40D撮影)
雨水がかかってはせっかくの提灯は傷んでしまうと判断されて仕舞われた。
提灯を立てた杭だけが残された。
本来なら4基の村の提灯が並ぶのだが、雨にあたれば修繕する費用がかかる。
マツリに相応しい提灯掲げは止むを得ない処置だと平群町久安寺の総代が話す。
久安寺に鎮座する素盞嗚神社は信貴フラワーロードを少し西に下った集落の南側にある。
久安寺集落は起伏に富んだ3垣内(北、久保、南)。
それぞれの垣内から選ばれた年当番の人たちがマツリを勤める。
本殿の祭神は素盞嗚命。江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた。
境内社左は春日神社で、右が八王子社である。
神社に上がる石段を登れば石の鳥居がある。
その傍にある石燈籠には天保六年(1835)の記銘がある。
かつては宮座の行事であったが、現在は村行事となった秋のマツリ。
6月に行われたケツケの植付け休みと同じように御湯が行われる。
前庭に設えた斎場はケツケと同様に四方の忌竹で囲われている。
御湯の前に神事が行われる。
本殿前で龍田大社の神官が祝詞を奏上されて三郷町在住の巫女さんが神楽舞を舞う。
始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。
次が剣の舞だ。
拝殿には集まった村人で埋まっている。
入りきらずにいた婦人たちは拝殿下に並ぶ。
遠慮して撮らせていただいた神楽舞やお祓いの鈴。

ケツケ同様に参拝する村人たちに鈴でお祓いをされる。

階段下で列を作っていた婦人たちや子どもらにも「祓いたまえー 清めたまえー」とお祓いをされる。
そうこうして玉串奉奠。数多くの氏子たちが奉げる。

マツリのご馳走は当番の人が作った枝付きのエダマメだ。
籠いっぱいに盛られたエダマメは大量である。
三社に供える神饌は献饌もせずに予め置かれていた。

神事を終えて撮らせてもらった御供は稲穂、鯛、牛蒡、大根、椎茸、枝豆、柿、林檎、蜜柑などである。
氏子のU氏の話しによれば、かつて宮座行事であったときには手で一つ一つ手渡す献饌であったと云う。
秋のマツリのメインも巫女さんが作法をする御湯。
雨が降っている日であっても「御湯の作法をする時間帯はいつも雨が降らないんです」と巫女さんが云っていた通りに止んだ。

斎場を遠巻きにして見守る村人たちの視線を感じながらの作法である。
薪のシバで釜湯を煮立てて、笹で掻き混ぜればもうもうと立ちあがる湯気。

湯気が久安寺の里に降りる神さんなのである。
聞くところによればある村では、火を起こさず魔法瓶の湯を注いでいたらしい。
それでは「村に神さんが降りることはない」と苦言を申されたというやに聞いた風の便り。
柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。
最初にキリヌサを撒く。
お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。
御幣と鈴を手にして右や左に舞う。
2本の笹を両手にもって湯に浸ける。
もうもうと立ちあがる湯気。

大きな動作でシャバシャバすれば立ちあがる。
東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。
再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。

何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。
御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の二社である。
シャン、シャンと鈴の音がする。
履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。
「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」。
村人一人ずつ湯笹で祓った。

設えたテント向こうでこの日の支度をしていた婦人たちにもきちっと祓われる。
こういう丁寧なたち振る舞いにいつも感動する。
かつて、巫女さんは村の女性であったとU氏が話す。
女性は三輪で習った作法を久安寺で所作していたと云う。
戦時中のことだと話すUさんは80歳。
隣村の信貴畑も含めた地域の神社の朔日(ついたち)参りにも出仕していた。
参りに行くのは地区小学生の子供たちだった。
そういう地域の参り方の様相は過去のこと。
今では見られなくなったと云う。

御湯が終わって当番の人が作った枝付きのエダマメでお神酒をいただく。
塩をいっぱい振りかけたエダマメの美味しいこと。

テント下では男性たちが、社務所内には子どもたちや婦人たちでぎっしり。
村人といえども有料で販売されるおでん、きつねうどん、ぜんざい、おにぎりにビールで賑わった。

久安寺の村のマツリでいただくほのぼした風情。
よばれたきつねうどんもまた食べたくなったと思った。
(H25.10.19 EOS40D撮影)