桜井市山田には右座と左座の宮座講がある。
10月1日の朝、氏神さんが鎮座する東大谷日女命(やまとおおたにひめみこと)神社の分霊を祭った両座の当家家では神官を待っていた。
神官は安倍八幡神社宮司の佐藤靖夫さん、息子さんは等彌神社の佐藤高静宮司だ。
佐藤靖夫宮司が兼務する社は高田、生田、高家、出雲、榛原町の笠間に亘る。
昨年が最後になった高田の宮講でお世話になったこともあり、さらには佐藤高静宮司とは倉橋の宮講祭でもお世話になった。
当時の祭礼話などで盛り上がったのは云うまでもない。
この日は宵宮の宮送り。
神送りとも呼ぶ両座の行事である。
始めに右座の家で神事が行われ、その次は左座へと移る。
右座はたったの1軒。
親父さんから引き継いで40年間も勤めてきた右座である。
数週間前に拝見した宿主の記帳。
昭和40年は12軒もあった右座中は、徐々にというよりも一挙に辞退されて残った1軒の右座である。
座敷から見下ろした前庭に建てたオカリヤに向かって神事が行われる。
右座のもてなしで時間が過ぎていくのも気にせずに酒を酌み交わす。
左座が待っている。
そろそろ出発しようと腰をあげた。
雨がそぼろ降るこの日。
神官の傘持ちを手伝って左座の家へ向かう。
「14時半頃には来やはりますねん」と云っていた左座の奥さん。
神官が到着したのはそれより1時間半後の16時であった。
定まった時間でなく、夕刻に行われる東大谷日女命神社の宵宮祭に間に合えば、ということである。
左座のオカリヤは玄関脇の前庭に設えていた。

提灯を掲げて大祓えの神事が行われる。
当家家族も同席されて行われたオカリヤ神事である。
当家の座敷に上がった当家と受け当家。
それより前に行われたオカリヤ倒し。
本来ならば東大谷日女命神社に向かうお渡り前に行われるのだが、この年は先に済ませた。
オカリヤ回りに立てた四方竹の注連縄を倒す当家、受け当家。

神官も揃って「ワァー」と叫びながらゆっさゆっさ振って倒してしまう。
一瞬のうちに倒された。
右座ではこのような儀式は見られなかった。
右座にはおよそ210年前の「享和三年(1803)九月二十四日」に書き記した講帳の『當村宮座講 雑記』がある。
由来・御仮殿造り・一老二老の作法・御供・朝座・昼座献立の在り方を長々と書き記していた。
判読した文字にはシトギ、御湯釜もあった。
文中によれば、宮さんは八幡宮で末社は弁天社・牛頭天王社のようだ。
御仮殿を遷宮していたのは八月で、六尺六寸・六尺の高さ・幅寸法も記されていたが、オカリヤ倒しの件は書かれていなかった。

左座においても古文書があったが、所有するヤカタに納めてあった文書を神官とともに拝見するも、バラバラであったことから断念した。
数年前までは4軒で営んでいた左座。
こちらも辞退されて今では2軒だけとなった。
オカリヤ倒しを済ませて座敷で行われる当家受けの儀式。
バラバラ古文書を納めていたヤカタはカワラケも入っている。
次の当家に受け渡す儀式は当年当家が礼酒を注ぐ。

まずは神官、次に受け当家の当人である。
次にいただくのが当年当人の順。
一献、二献の酒杯の肴は、生ダイコンだ。

柔らかいまん中辺りで包丁を入れた輪切りのダイコンを箸で摘まんでいただく。
塩をダイコンにつけていただく。
何故にこのようなことをするのか伝わっていないと云う三人。
最後に盃一杯に注がれた酒を飲み干す。
こうした作法をして当家受け儀式を終える。
左座は2軒。毎年交替する当家である。
服忌であれば2年連続の勤めになると云う。
かつての左座には柔らかいシオアンモチもあった。
裃を着用した講員が藁でモチを分けるようなこともしていた。
モチを木綿糸で切る風習をテレビ放映で拝見したことがある。
「日本!食紀行」で紹介されていた富山県の餅文化。
「新大正糯」の名がある餅にまつわる風習である。
柔らかいモチを包丁で切るのは縁起が良くないと云って、木綿糸で切断する。
包丁であればモチがくっつく。
切断面を奇麗に分けるには糸でなければ・・・という風習だった。
我が家のおばあちゃんもそうしていたことが記憶にある。
それはともかく、七品料理もあったと話す左座当家の婦人。
跡取りの長男だけの料理であった。
オヒラにカマボコ、コーヤドーフなどがあったと話す。
かつて12軒もあった頃の右座も同じような当家受けの作法があったかも知れないが、40年前から1軒となった当人は記憶もないようだ。
受け渡しの儀式を済ませたヤカタは後日に次の当家に回される。
一年間も祭るヤカタである。
右座もヤカタはあるが、当家受けをすることなく神棚に祭られていた。

そぼろ降るなか、左座のお渡りが出発した。
集落を巡って右座と落ち合う場所は旧山田寺跡辺りにある観音堂の前辺りだ。
右座と合流して当家が持つ杉の葉を挿し込んだ竹筒幣や神事をされたサカキを高く揚げて「ワァー」と叫ぶ。

まるで万歳三唱のような作法である。
回数は特に決まりもなくこの日は4回もされた。
その作法は「和を以て貴しとなす」ので「ワァー」というのだと佐藤宮司が話すが、「ワァー」は県内各地で拝見してきた数々の「ワーイ」、或いは「トーニン トーニン ワーイ」と云う場合もある。
当家が持つ杉の木の御幣は特殊な形態。
もしかとすればだが、かつてあったとされる御湯の儀で遣われていた杉葉ではないだろうか。
釜湯に漬けて湯飛ばしをする御湯の作法は県内各地で拝見してきた。
明日香村栢森の加夜奈留美命神社で行われた御湯(おみゆ)の儀式は杉の葉であった。
同村上平田の八坂神社の御湯も同じ道具である。
桜井市の山田は明日香村に近い地区。
同じような形態であってもおかしくはないと思える。
山田の両座当家が手にした杉御幣は御湯の名残であると考えられるのである。
その場にたまたま居合わせた観光客。
何事が始まったのだろうと驚いた様子もなく拝見していた。

合流した両座一行はその場から東大谷日女命神社へ向かう下向のお渡り。
鳥居辺りにある大木の杉の辺りでまたもや「ワァー」と掛け声をかけた。
こうした作法をして神社に着けば祭っていた分霊を戻される。

10月1日の朝に神迎えをされて当家の家で祭っていた。
それから3週間後、こうして神送りをされ本殿に遷されたのである。
陽がどっぷり暮れて氏子参拝者がやってくれば、神官がお祓いをする。

受けた証しに神社のお札を受け取って帰っていく。
宮司はこの時間帯より桜井市出雲の宵宮に出仕しなくてはならない。
兼社の神事が待っている。
神官が不在となれば右座の当人が代理でお祓いをする。

交替してほしいと願うが、左座は役目をすることができない。
宵宮祭の参拝は人が途絶えるまで行われる。
参拝する神さんの順は決まっている。
男性であれば右の神さんから左の神さんへ、である。
女性であれば左の神さんから右の神さんに移る。
右の神さんが八阪神社で、左の神さんは厳島神社。
つまり八阪神社は牛頭天王で男の神さん。
厳島神社は弁天さんで女の神さんであるがゆえ、それぞれの性別で、先に参る神社が決まっているということだ。
かつては相撲もあったという宵宮祭。
次々とやってくる参拝者を見届けてその場を去ったこの日は村の行事もされる予定だった。
村を巡行する御輿の安全祈願にお祓いをするはずだった。
雨が降らなければもっと賑やかになった、であろうこの日。
特別に観音堂の扉を開けてご開帳されている。

この日限りのご開帳にありがたく、本尊の十一面観音立像に手を合わした。
その左横にあった大きな顔の仏頭。
レプリカだと思われる仏頭は、文治三年(1187)に興福寺僧兵が山田寺に押し入って薬師三尊を強奪した記録があるようだ。

昭和12年に興福寺にあった本尊の台座の嵌(はめ)板で発見された「応永十八年〔辛卯〕閏十月十五日未刻……」の墨書年代によって来歴が判明した。
国宝の仏頭は同寺の国宝館に納められているようだ。
昭和32年に発刊された『桜井町史』に「山田の宮座講」行事が紹介されている。
右座・左座には一老、二老制度があった。
左座は古例に基づいた家並順の当家が営んでいた。
右座は男児が生まれれば一老に届け出をする。
その届け出順によって当家の順が決まっていたが、昭和14年には出生が途切れた。
それを契機に講中の長男の年齢順に替えたようだ。
7月上旬に行われていたおなんじ参り(大汝参り)は吉野町の大名持神社。
神さんとされる小石を返して、吉野川で水垢離をして新たに小石を拾ってきて家の水壺に入れる。
水を清める習わしである。
9月30日には御仮宮建てと御幣作りをしていた。
10月1日は一日座(朔座とも)に宮迎え神事をされていた。
杉枝の御幣に分霊遷しをした。
当家に戻った際には甘酒の振る舞いがあった。
これを朔座と呼んでいた。
講中は一旦帰宅してから再び参集する。
昼座の営みである。
夕刻には当人が神社からおよそ二丁四方の字注連縄と呼ぶ田んぼに2本の青竹を立てて注連縄を張っていた。
10月16日が宵宮座と神送りである。
昼間の宵宮座を済ませて当家渡しをされるまでの時間帯。
講員家に七度半の呼使いがあった。
呼使いは前夜から始まっていた。
その際に行われる口上は「明日、かれいの座を勤めさしてもらいますから、お頼み申します」だった。
宵宮座の朝にも呼使いの口上があった。
「ただいま、どうぞお願いします」である。
それ以降は昼間の宵宮座を済ませてからで、「どうぞ、お早うお頼み申します」と述べる、合計七度半の呼使いであった。
当家渡しは着物姿だった。
一老、二老は紋付き袴、講員は裃であった。
シオアンモチを食べていたときは裃姿だったと左座当家の婦人はそのときの様相を話されたのである。
宵宮座を終えた講員は高張提灯を先頭に神官、御幣持ちの受け当家、湯御幣を持つ渡当家、一老、二老、講員、渡当家家人が担ぐ唐櫃の行列があった。
落ち合う場で両座双方の一老が「揃いましたか」と声をかけて、「ワァー」を三べんしたとある。
宵宮祭では右座が一升の鏡餅を供えていた。
撤饌した鏡餅は一老、二老に手渡していた。
朔座および宵宮座の本膳には油揚げを付けていた。
朔座が二枚で宵宮座は四枚であったようだ。
油揚げをよく使うことから「山田の油揚げ座」とも呼んでいたようだ。
今では座を行うことなく淡々として行われている山田の宮座講行事を拝見できたことに感謝する。
(H25.10.19 EOS40D撮影)
10月1日の朝、氏神さんが鎮座する東大谷日女命(やまとおおたにひめみこと)神社の分霊を祭った両座の当家家では神官を待っていた。
神官は安倍八幡神社宮司の佐藤靖夫さん、息子さんは等彌神社の佐藤高静宮司だ。
佐藤靖夫宮司が兼務する社は高田、生田、高家、出雲、榛原町の笠間に亘る。
昨年が最後になった高田の宮講でお世話になったこともあり、さらには佐藤高静宮司とは倉橋の宮講祭でもお世話になった。
当時の祭礼話などで盛り上がったのは云うまでもない。
この日は宵宮の宮送り。
神送りとも呼ぶ両座の行事である。
始めに右座の家で神事が行われ、その次は左座へと移る。
右座はたったの1軒。
親父さんから引き継いで40年間も勤めてきた右座である。
数週間前に拝見した宿主の記帳。
昭和40年は12軒もあった右座中は、徐々にというよりも一挙に辞退されて残った1軒の右座である。
座敷から見下ろした前庭に建てたオカリヤに向かって神事が行われる。
右座のもてなしで時間が過ぎていくのも気にせずに酒を酌み交わす。
左座が待っている。
そろそろ出発しようと腰をあげた。
雨がそぼろ降るこの日。
神官の傘持ちを手伝って左座の家へ向かう。
「14時半頃には来やはりますねん」と云っていた左座の奥さん。
神官が到着したのはそれより1時間半後の16時であった。
定まった時間でなく、夕刻に行われる東大谷日女命神社の宵宮祭に間に合えば、ということである。
左座のオカリヤは玄関脇の前庭に設えていた。

提灯を掲げて大祓えの神事が行われる。
当家家族も同席されて行われたオカリヤ神事である。
当家の座敷に上がった当家と受け当家。
それより前に行われたオカリヤ倒し。
本来ならば東大谷日女命神社に向かうお渡り前に行われるのだが、この年は先に済ませた。
オカリヤ回りに立てた四方竹の注連縄を倒す当家、受け当家。

神官も揃って「ワァー」と叫びながらゆっさゆっさ振って倒してしまう。
一瞬のうちに倒された。
右座ではこのような儀式は見られなかった。
右座にはおよそ210年前の「享和三年(1803)九月二十四日」に書き記した講帳の『當村宮座講 雑記』がある。
由来・御仮殿造り・一老二老の作法・御供・朝座・昼座献立の在り方を長々と書き記していた。
判読した文字にはシトギ、御湯釜もあった。
文中によれば、宮さんは八幡宮で末社は弁天社・牛頭天王社のようだ。
御仮殿を遷宮していたのは八月で、六尺六寸・六尺の高さ・幅寸法も記されていたが、オカリヤ倒しの件は書かれていなかった。

左座においても古文書があったが、所有するヤカタに納めてあった文書を神官とともに拝見するも、バラバラであったことから断念した。
数年前までは4軒で営んでいた左座。
こちらも辞退されて今では2軒だけとなった。
オカリヤ倒しを済ませて座敷で行われる当家受けの儀式。
バラバラ古文書を納めていたヤカタはカワラケも入っている。
次の当家に受け渡す儀式は当年当家が礼酒を注ぐ。

まずは神官、次に受け当家の当人である。
次にいただくのが当年当人の順。
一献、二献の酒杯の肴は、生ダイコンだ。

柔らかいまん中辺りで包丁を入れた輪切りのダイコンを箸で摘まんでいただく。
塩をダイコンにつけていただく。
何故にこのようなことをするのか伝わっていないと云う三人。
最後に盃一杯に注がれた酒を飲み干す。
こうした作法をして当家受け儀式を終える。
左座は2軒。毎年交替する当家である。
服忌であれば2年連続の勤めになると云う。
かつての左座には柔らかいシオアンモチもあった。
裃を着用した講員が藁でモチを分けるようなこともしていた。
モチを木綿糸で切る風習をテレビ放映で拝見したことがある。
「日本!食紀行」で紹介されていた富山県の餅文化。
「新大正糯」の名がある餅にまつわる風習である。
柔らかいモチを包丁で切るのは縁起が良くないと云って、木綿糸で切断する。
包丁であればモチがくっつく。
切断面を奇麗に分けるには糸でなければ・・・という風習だった。
我が家のおばあちゃんもそうしていたことが記憶にある。
それはともかく、七品料理もあったと話す左座当家の婦人。
跡取りの長男だけの料理であった。
オヒラにカマボコ、コーヤドーフなどがあったと話す。
かつて12軒もあった頃の右座も同じような当家受けの作法があったかも知れないが、40年前から1軒となった当人は記憶もないようだ。
受け渡しの儀式を済ませたヤカタは後日に次の当家に回される。
一年間も祭るヤカタである。
右座もヤカタはあるが、当家受けをすることなく神棚に祭られていた。

そぼろ降るなか、左座のお渡りが出発した。
集落を巡って右座と落ち合う場所は旧山田寺跡辺りにある観音堂の前辺りだ。
右座と合流して当家が持つ杉の葉を挿し込んだ竹筒幣や神事をされたサカキを高く揚げて「ワァー」と叫ぶ。

まるで万歳三唱のような作法である。
回数は特に決まりもなくこの日は4回もされた。
その作法は「和を以て貴しとなす」ので「ワァー」というのだと佐藤宮司が話すが、「ワァー」は県内各地で拝見してきた数々の「ワーイ」、或いは「トーニン トーニン ワーイ」と云う場合もある。
当家が持つ杉の木の御幣は特殊な形態。
もしかとすればだが、かつてあったとされる御湯の儀で遣われていた杉葉ではないだろうか。
釜湯に漬けて湯飛ばしをする御湯の作法は県内各地で拝見してきた。
明日香村栢森の加夜奈留美命神社で行われた御湯(おみゆ)の儀式は杉の葉であった。
同村上平田の八坂神社の御湯も同じ道具である。
桜井市の山田は明日香村に近い地区。
同じような形態であってもおかしくはないと思える。
山田の両座当家が手にした杉御幣は御湯の名残であると考えられるのである。
その場にたまたま居合わせた観光客。
何事が始まったのだろうと驚いた様子もなく拝見していた。

合流した両座一行はその場から東大谷日女命神社へ向かう下向のお渡り。
鳥居辺りにある大木の杉の辺りでまたもや「ワァー」と掛け声をかけた。
こうした作法をして神社に着けば祭っていた分霊を戻される。

10月1日の朝に神迎えをされて当家の家で祭っていた。
それから3週間後、こうして神送りをされ本殿に遷されたのである。
陽がどっぷり暮れて氏子参拝者がやってくれば、神官がお祓いをする。

受けた証しに神社のお札を受け取って帰っていく。
宮司はこの時間帯より桜井市出雲の宵宮に出仕しなくてはならない。
兼社の神事が待っている。
神官が不在となれば右座の当人が代理でお祓いをする。

交替してほしいと願うが、左座は役目をすることができない。
宵宮祭の参拝は人が途絶えるまで行われる。
参拝する神さんの順は決まっている。
男性であれば右の神さんから左の神さんへ、である。
女性であれば左の神さんから右の神さんに移る。
右の神さんが八阪神社で、左の神さんは厳島神社。
つまり八阪神社は牛頭天王で男の神さん。
厳島神社は弁天さんで女の神さんであるがゆえ、それぞれの性別で、先に参る神社が決まっているということだ。
かつては相撲もあったという宵宮祭。
次々とやってくる参拝者を見届けてその場を去ったこの日は村の行事もされる予定だった。
村を巡行する御輿の安全祈願にお祓いをするはずだった。
雨が降らなければもっと賑やかになった、であろうこの日。
特別に観音堂の扉を開けてご開帳されている。

この日限りのご開帳にありがたく、本尊の十一面観音立像に手を合わした。
その左横にあった大きな顔の仏頭。
レプリカだと思われる仏頭は、文治三年(1187)に興福寺僧兵が山田寺に押し入って薬師三尊を強奪した記録があるようだ。

昭和12年に興福寺にあった本尊の台座の嵌(はめ)板で発見された「応永十八年〔辛卯〕閏十月十五日未刻……」の墨書年代によって来歴が判明した。
国宝の仏頭は同寺の国宝館に納められているようだ。
昭和32年に発刊された『桜井町史』に「山田の宮座講」行事が紹介されている。
右座・左座には一老、二老制度があった。
左座は古例に基づいた家並順の当家が営んでいた。
右座は男児が生まれれば一老に届け出をする。
その届け出順によって当家の順が決まっていたが、昭和14年には出生が途切れた。
それを契機に講中の長男の年齢順に替えたようだ。
7月上旬に行われていたおなんじ参り(大汝参り)は吉野町の大名持神社。
神さんとされる小石を返して、吉野川で水垢離をして新たに小石を拾ってきて家の水壺に入れる。
水を清める習わしである。
9月30日には御仮宮建てと御幣作りをしていた。
10月1日は一日座(朔座とも)に宮迎え神事をされていた。
杉枝の御幣に分霊遷しをした。
当家に戻った際には甘酒の振る舞いがあった。
これを朔座と呼んでいた。
講中は一旦帰宅してから再び参集する。
昼座の営みである。
夕刻には当人が神社からおよそ二丁四方の字注連縄と呼ぶ田んぼに2本の青竹を立てて注連縄を張っていた。
10月16日が宵宮座と神送りである。
昼間の宵宮座を済ませて当家渡しをされるまでの時間帯。
講員家に七度半の呼使いがあった。
呼使いは前夜から始まっていた。
その際に行われる口上は「明日、かれいの座を勤めさしてもらいますから、お頼み申します」だった。
宵宮座の朝にも呼使いの口上があった。
「ただいま、どうぞお願いします」である。
それ以降は昼間の宵宮座を済ませてからで、「どうぞ、お早うお頼み申します」と述べる、合計七度半の呼使いであった。
当家渡しは着物姿だった。
一老、二老は紋付き袴、講員は裃であった。
シオアンモチを食べていたときは裃姿だったと左座当家の婦人はそのときの様相を話されたのである。
宵宮座を終えた講員は高張提灯を先頭に神官、御幣持ちの受け当家、湯御幣を持つ渡当家、一老、二老、講員、渡当家家人が担ぐ唐櫃の行列があった。
落ち合う場で両座双方の一老が「揃いましたか」と声をかけて、「ワァー」を三べんしたとある。
宵宮祭では右座が一升の鏡餅を供えていた。
撤饌した鏡餅は一老、二老に手渡していた。
朔座および宵宮座の本膳には油揚げを付けていた。
朔座が二枚で宵宮座は四枚であったようだ。
油揚げをよく使うことから「山田の油揚げ座」とも呼んでいたようだ。
今では座を行うことなく淡々として行われている山田の宮座講行事を拝見できたことに感謝する。
(H25.10.19 EOS40D撮影)