12月に地区集落を巡るイノコ行事が行われている明日香村下平田の住民。
11月5日には「サンノンサンをしているんです」と話していた。
「サンノンサン」と呼ぶ行事が何であるのか、である。
下平田の住民がお参りをする場は宮内庁管理地の吉備姫王墓。
4体の猿石が並んでいる聖地である。
お参りされるのは猿石のひとつになる「山王権現」だ。
「山王権現」を崇敬する下平田の住民は親しみを込めて「サンノンサン」と呼んでいたのである。
村の行事ではあるが、「山王権現」を祀る場は宮内庁が管理する吉備姫王墓が写り込むと思われた。
王墓などを含めて被写体となる場は撮影許可を要する。
そのことは「明日香村写真等取り扱い要綱」に掲載されている。
明日香村史跡のほとんどが撮影・掲載許可を要するのである。
「サンノンサン」の行事をされているのかどうか、下見を兼ねていたこの日。
万が一と判断して管理事務所の掖上部事務所・宮内庁職員に取材の申し出をした結果は、申請書・許可書の取得である。
突然の申し出に本部の橿原市の書陵部畝傍陵墓監区事務所管理者へ連絡をされた。
結果は、「行事でならば」ということでの了承である。
撮った写真の提出は不要であるが、事後の撮影・掲載許可書を要する取材となったこの日。
管理事務所とのやり取りを経て行事取材に入った頃、王墓前に下平田の婦人たちが集まってきた。
男性もおられるがほとんどが婦人である。
「サンノンサン」の件を話して下さった総代の奥さんも来られた。
村の行事であるが、斎壇の設営は宮内庁職員だ。
いつの頃から始まったのか判らないが、毎年はこうして村の行事に協力をしていると云う。
事務所職員が替られても、引き継ぎ事項にあるお役目に代々が継いでそうしてきたと話す。
4体の猿石は右から「男」、「僧(法師とも)」、「山王権現」、「女」だそうだ。
元禄二年(1689)、梅山古墳付近にあった平田村池田の田んぼから掘り出された猿石は5体であった。
明治時代初めに吉備姫王墓内に移された4体。
もう1体は高取城跡登山道に運び込まれたようだが、何時ごろ誰の手によって何のために分けたのか伝わっていない。
いずれにしても下平田の住民が崇めるのは「山王権現」である。
下平田の婦人たちがやって来た頃、宮内庁職員らは王墓の前に斎壇・酒器の瓶子を置く。

その前にお供えをされる婦人たち。
基壇に上がる際には、職員含め、全員が一礼をされて頭を下げている「サンノンサン」。
一斉に供えることなく、供えれば基壇下で待つ。
すべての人たちのお参りを済ませたとことを確認した職員はお神酒を参拝者に授ける。
参拝者は行列をなしてお神酒配りに並ぶ。

一同はありがたいお神酒をいただくのである。
こうしてお参りを済ませば、御供を下げて参拝者に配られる。
宮内庁が供えた御供も配られて解散した。
「サンノンサン」はお産の神さんだと話す下平田の総代。
呼び名は山王権現さんが訛ったようだと話す。
子供が欲しい人、無地に生まれてほしいと願う人が参る猿石の「山王権現」。
お宮参りでは氏神さんになる上平田の春日神社に参ってから「サンノンサン」にも参ると云う。
「サンノンサン」は「産ノンサン」のご語呂合わせによって生まれた地域の信心風習。
願う婦人たちが参られるのも納得するのである。
参拝された婦人たちはこの夜に講中のヤド家に集まる。
北垣内(10戸)、南垣内(10戸)それぞれにある庚申講のヤドでの営みはヤドヨバレの会食である。
普段は60日サイクルで営まれる庚申講は男性の寄り合い。
この日の夜は講中婦人の寄り合いである。
かつてはご馳走でもてなしていたが、今はパック詰め料理。
年に一度の寄り合いに婦人だけの時間を過ごす。
(H25.11. 5 EOS40D撮影)
11月5日には「サンノンサンをしているんです」と話していた。
「サンノンサン」と呼ぶ行事が何であるのか、である。
下平田の住民がお参りをする場は宮内庁管理地の吉備姫王墓。
4体の猿石が並んでいる聖地である。
お参りされるのは猿石のひとつになる「山王権現」だ。
「山王権現」を崇敬する下平田の住民は親しみを込めて「サンノンサン」と呼んでいたのである。
村の行事ではあるが、「山王権現」を祀る場は宮内庁が管理する吉備姫王墓が写り込むと思われた。
王墓などを含めて被写体となる場は撮影許可を要する。
そのことは「明日香村写真等取り扱い要綱」に掲載されている。
明日香村史跡のほとんどが撮影・掲載許可を要するのである。
「サンノンサン」の行事をされているのかどうか、下見を兼ねていたこの日。
万が一と判断して管理事務所の掖上部事務所・宮内庁職員に取材の申し出をした結果は、申請書・許可書の取得である。
突然の申し出に本部の橿原市の書陵部畝傍陵墓監区事務所管理者へ連絡をされた。
結果は、「行事でならば」ということでの了承である。
撮った写真の提出は不要であるが、事後の撮影・掲載許可書を要する取材となったこの日。
管理事務所とのやり取りを経て行事取材に入った頃、王墓前に下平田の婦人たちが集まってきた。
男性もおられるがほとんどが婦人である。
「サンノンサン」の件を話して下さった総代の奥さんも来られた。
村の行事であるが、斎壇の設営は宮内庁職員だ。
いつの頃から始まったのか判らないが、毎年はこうして村の行事に協力をしていると云う。
事務所職員が替られても、引き継ぎ事項にあるお役目に代々が継いでそうしてきたと話す。
4体の猿石は右から「男」、「僧(法師とも)」、「山王権現」、「女」だそうだ。
元禄二年(1689)、梅山古墳付近にあった平田村池田の田んぼから掘り出された猿石は5体であった。
明治時代初めに吉備姫王墓内に移された4体。
もう1体は高取城跡登山道に運び込まれたようだが、何時ごろ誰の手によって何のために分けたのか伝わっていない。
いずれにしても下平田の住民が崇めるのは「山王権現」である。
下平田の婦人たちがやって来た頃、宮内庁職員らは王墓の前に斎壇・酒器の瓶子を置く。

その前にお供えをされる婦人たち。
基壇に上がる際には、職員含め、全員が一礼をされて頭を下げている「サンノンサン」。
一斉に供えることなく、供えれば基壇下で待つ。
すべての人たちのお参りを済ませたとことを確認した職員はお神酒を参拝者に授ける。
参拝者は行列をなしてお神酒配りに並ぶ。

一同はありがたいお神酒をいただくのである。
こうしてお参りを済ませば、御供を下げて参拝者に配られる。
宮内庁が供えた御供も配られて解散した。
「サンノンサン」はお産の神さんだと話す下平田の総代。
呼び名は山王権現さんが訛ったようだと話す。
子供が欲しい人、無地に生まれてほしいと願う人が参る猿石の「山王権現」。
お宮参りでは氏神さんになる上平田の春日神社に参ってから「サンノンサン」にも参ると云う。
「サンノンサン」は「産ノンサン」のご語呂合わせによって生まれた地域の信心風習。
願う婦人たちが参られるのも納得するのである。
参拝された婦人たちはこの夜に講中のヤド家に集まる。
北垣内(10戸)、南垣内(10戸)それぞれにある庚申講のヤドでの営みはヤドヨバレの会食である。
普段は60日サイクルで営まれる庚申講は男性の寄り合い。
この日の夜は講中婦人の寄り合いである。
かつてはご馳走でもてなしていたが、今はパック詰め料理。
年に一度の寄り合いに婦人だけの時間を過ごす。
(H25.11. 5 EOS40D撮影)