奈良市西大寺芝辻にある真言律宗総本山の西大寺。
中興の祖とされる興正菩薩の生誕地が大和郡山市の白土町だ。
室町時代以前は箕田と呼ばれていた白土荘。
その西大寺と関係を示す石造宝篋印塔が浄福寺境内にある。
覆屋の四方は卒塔婆の札に囲まれた珍しい様式。
当時庄屋だった仲カンベエが寄進したものと伝わる。
宝篋印塔の四面にはそれぞれ刻印が見られる。
正面の「顴譽淨音居士 歡譽淨喜居士 經譽壽誓比丘尼 和光道受居士 本譽故願任誓比丘尼 艶顔妙容大姉」は六故人の名であろう。
右側面は「仲貞幹字子節其先木 曽我義仲亡慶玄者更 姓仲氏匿和州箕田生 三子長為嗣次蚉卒次 為僧中興於西大寺 賜諡興正菩薩矣其衣 盋杖拂迄令蔵仲氏面 家世殷富中衰節之曾」とあり、曽我の義仲(木曽義仲か)を祖とする仲氏が箕田の生まれ。
西大寺の僧、興正菩薩より衣を賜ったとある。
正面裏には「祖貞章勤労業遂複舊 矣節為人謹素克家今 皆其妻病卒節□曾祖 有功干家且喪偈之哀 而造寶塔而置田□資 祖先之耎毎月□□□ 斎談経□成話□之□ 也其壱寶可□矣□□」があった。
見誤りも多数あるが書きとめておく。
正面左には「慶般為兄節来請余誌 余謝不可於是乎書之 吂天明癸卯(1783)之秋也 西大寺衆首第五十八世尊堂謹識」があった。
西大寺中興の祖である第一世興正菩薩から数えること五十八世の尊堂の名があった。
歴代長老の第六十四世が佐伯弘澄氏であることから現代に於いて云い伝えを書識建之されたのであろう。
この日のお勤め法要はお十夜。
「五重相伝」によって生きている間に戒名を授かった男女20数名の五重講の人たちが浄土宗智光山浄複寺に集まってくる。
昼にパック詰め料理の膳をよばれる十夜の昼膳。
かつてはダイコン、ドロイモにアツアゲの煮もの料理であった。
講中は家にある椀などを風呂敷に包んでお寺にやってきた。
漬物もあった十夜の膳はお勤めの前にいただく。
法要を済ませて小豆粥を食べていたと浄福寺の住職は話す。
かつては小豆粥でなくセキハンだったそうだ。
その昔は黒米、赤米のセキハンであった。
いつしか小豆を入れて炊くセキハンになった。
セキハンはオニギリにして食べていた。
その後になって小豆粥に移った。
セキハンの時代はどうやら戦前の頃の様相であるらしい。
15年ほど前は村の子供たちがたくさんいた。
公園で遊ぶ子供の数も多かった。
10年ぐらい前になれば少子化の時代を迎えた白土町。
そのような時代になって数珠繰りはしなくなったと云う。
十夜のお勤め始めは法話から。
それより30分前のことである。
観音堂に登ってご詠歌をされていた集団は、浄土宗本山である京都知恩院で吉水流詠唱を学ばれた吉水講の婦人たちだ。
春・秋の彼岸と十夜にお勤めをされる講中は左手にリンを持って右手で鉦を打つ。
5、6年ほど前からお勤めをするようになったそうだ。
観音堂でされていたのは前練習。
本番は法話に次いでご詠歌を唱える。
次が勤行。
お念仏は常々と同じで、決して特別なことでもないと住職は話す。
「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」の念仏を唱える。
十夜のお勤め法要されている時間帯は6人の年番婦人たちが小豆粥を作る。
五重講や年番の人たちのなかには存知している方々も多いが、法要取材は遠慮して粥作りの一部始終を拝見した。

小豆粥は大鍋に五合の米と二合の小豆で作る。
それを二杯の大鍋で炊きあげるから合計で米一升に小豆は四合。
けっこうな量である。
ある程度の量でなければ「粥が少なすぎる」と講中から云われるのでそうしていると住職は話す。
米と一緒に予め茹でておいた小豆をチャチャチャと炊くのであるかと思えば、そうではなかった。
まずは小豆を入れて、ほどよく茹でて、お湯を捨てる。
茹でた小豆を取り出して、鍋に新水を注入して再び茹でていく。
小豆を取り出した茹で汁はバケツに入れる。

一番だしは捨てるが、二番だしは柄杓で掬って上から落とす。
これを何十回も繰り返すのである。
そうすれば徐々に茹でた汁が赤くなってくる。
この状況を酸化させると云う住職。
予め聞いていた酸化の状態は初見である。
茹でた小豆を取り出して、新水を入れてさらにもう一回茹でる。
二番だしと同じように、三番だしも柄杓で掬って上から落としていく。

茹でたばかりだというのに、もうもうとたち上がる湯気は小豆の匂いが香ってきた。
これが小豆粥の重要な作り方だという年番さん。
上手くできるかどうか心配しながら作っていく茹で汁は緊張ずくめの作業だ。
セキハンもこうして茹で汁を作るのだと話す年番さんは寺世話(てらぜわ)。
垣内から一人ずつ、一年任期で勤めている。

茹で汁の二番だし、三番だしを掬う柄杓は13杯。
大鍋に入れて分量を確かめる。
若干足らないと判断されて新水一杯を補充された。
二つの大鍋、それぞれに米五合と小豆二合を入れて炊きあげる。
炊きあがり具合を確かめてお塩を小さじ4杯ぐらい入れる。

こうして出来あがった小豆粥は美しき小豆色に仕上がった。
作業を始めてから丁度2時間ぐらい。

「手間がかかりまんねん」と話す年番さんはほっとした顔つきになった。
お勤め法要の永代供養・塔婆回向が丁度終わるころに出来あがった小豆粥。
30分ぐらい蒸らした方が出来が良いそうだ。
狐狸に移った五重講の人たちは席につく。
年番さんが椀に盛って席に配る。
十夜の小豆粥は、住職の奥さんが作られたユズダイコンの漬物やダイズとヒジキの煮もの、ニンジン・レンコン・ウスアゲ・シイタケコンブの煮ものとともにいただく。
「あんたも食べてや」と云われて席につく。

手がこんだ小豆粥はむちゃ美味しい。
漬物や煮ものも美味しいので、2杯もおかわりをいただいてしまった。
感謝、感謝の小豆粥に大満足した。
(H25.11.16 EOS40D撮影)
中興の祖とされる興正菩薩の生誕地が大和郡山市の白土町だ。
室町時代以前は箕田と呼ばれていた白土荘。
その西大寺と関係を示す石造宝篋印塔が浄福寺境内にある。
覆屋の四方は卒塔婆の札に囲まれた珍しい様式。
当時庄屋だった仲カンベエが寄進したものと伝わる。
宝篋印塔の四面にはそれぞれ刻印が見られる。
正面の「顴譽淨音居士 歡譽淨喜居士 經譽壽誓比丘尼 和光道受居士 本譽故願任誓比丘尼 艶顔妙容大姉」は六故人の名であろう。
右側面は「仲貞幹字子節其先木 曽我義仲亡慶玄者更 姓仲氏匿和州箕田生 三子長為嗣次蚉卒次 為僧中興於西大寺 賜諡興正菩薩矣其衣 盋杖拂迄令蔵仲氏面 家世殷富中衰節之曾」とあり、曽我の義仲(木曽義仲か)を祖とする仲氏が箕田の生まれ。
西大寺の僧、興正菩薩より衣を賜ったとある。
正面裏には「祖貞章勤労業遂複舊 矣節為人謹素克家今 皆其妻病卒節□曾祖 有功干家且喪偈之哀 而造寶塔而置田□資 祖先之耎毎月□□□ 斎談経□成話□之□ 也其壱寶可□矣□□」があった。
見誤りも多数あるが書きとめておく。
正面左には「慶般為兄節来請余誌 余謝不可於是乎書之 吂天明癸卯(1783)之秋也 西大寺衆首第五十八世尊堂謹識」があった。
西大寺中興の祖である第一世興正菩薩から数えること五十八世の尊堂の名があった。
歴代長老の第六十四世が佐伯弘澄氏であることから現代に於いて云い伝えを書識建之されたのであろう。
この日のお勤め法要はお十夜。
「五重相伝」によって生きている間に戒名を授かった男女20数名の五重講の人たちが浄土宗智光山浄複寺に集まってくる。
昼にパック詰め料理の膳をよばれる十夜の昼膳。
かつてはダイコン、ドロイモにアツアゲの煮もの料理であった。
講中は家にある椀などを風呂敷に包んでお寺にやってきた。
漬物もあった十夜の膳はお勤めの前にいただく。
法要を済ませて小豆粥を食べていたと浄福寺の住職は話す。
かつては小豆粥でなくセキハンだったそうだ。
その昔は黒米、赤米のセキハンであった。
いつしか小豆を入れて炊くセキハンになった。
セキハンはオニギリにして食べていた。
その後になって小豆粥に移った。
セキハンの時代はどうやら戦前の頃の様相であるらしい。
15年ほど前は村の子供たちがたくさんいた。
公園で遊ぶ子供の数も多かった。
10年ぐらい前になれば少子化の時代を迎えた白土町。
そのような時代になって数珠繰りはしなくなったと云う。
十夜のお勤め始めは法話から。
それより30分前のことである。
観音堂に登ってご詠歌をされていた集団は、浄土宗本山である京都知恩院で吉水流詠唱を学ばれた吉水講の婦人たちだ。
春・秋の彼岸と十夜にお勤めをされる講中は左手にリンを持って右手で鉦を打つ。
5、6年ほど前からお勤めをするようになったそうだ。
観音堂でされていたのは前練習。
本番は法話に次いでご詠歌を唱える。
次が勤行。
お念仏は常々と同じで、決して特別なことでもないと住職は話す。
「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」の念仏を唱える。
十夜のお勤め法要されている時間帯は6人の年番婦人たちが小豆粥を作る。
五重講や年番の人たちのなかには存知している方々も多いが、法要取材は遠慮して粥作りの一部始終を拝見した。

小豆粥は大鍋に五合の米と二合の小豆で作る。
それを二杯の大鍋で炊きあげるから合計で米一升に小豆は四合。
けっこうな量である。
ある程度の量でなければ「粥が少なすぎる」と講中から云われるのでそうしていると住職は話す。
米と一緒に予め茹でておいた小豆をチャチャチャと炊くのであるかと思えば、そうではなかった。
まずは小豆を入れて、ほどよく茹でて、お湯を捨てる。
茹でた小豆を取り出して、鍋に新水を注入して再び茹でていく。
小豆を取り出した茹で汁はバケツに入れる。

一番だしは捨てるが、二番だしは柄杓で掬って上から落とす。
これを何十回も繰り返すのである。
そうすれば徐々に茹でた汁が赤くなってくる。
この状況を酸化させると云う住職。
予め聞いていた酸化の状態は初見である。
茹でた小豆を取り出して、新水を入れてさらにもう一回茹でる。
二番だしと同じように、三番だしも柄杓で掬って上から落としていく。

茹でたばかりだというのに、もうもうとたち上がる湯気は小豆の匂いが香ってきた。
これが小豆粥の重要な作り方だという年番さん。
上手くできるかどうか心配しながら作っていく茹で汁は緊張ずくめの作業だ。
セキハンもこうして茹で汁を作るのだと話す年番さんは寺世話(てらぜわ)。
垣内から一人ずつ、一年任期で勤めている。

茹で汁の二番だし、三番だしを掬う柄杓は13杯。
大鍋に入れて分量を確かめる。
若干足らないと判断されて新水一杯を補充された。
二つの大鍋、それぞれに米五合と小豆二合を入れて炊きあげる。
炊きあがり具合を確かめてお塩を小さじ4杯ぐらい入れる。

こうして出来あがった小豆粥は美しき小豆色に仕上がった。
作業を始めてから丁度2時間ぐらい。

「手間がかかりまんねん」と話す年番さんはほっとした顔つきになった。
お勤め法要の永代供養・塔婆回向が丁度終わるころに出来あがった小豆粥。
30分ぐらい蒸らした方が出来が良いそうだ。
狐狸に移った五重講の人たちは席につく。
年番さんが椀に盛って席に配る。
十夜の小豆粥は、住職の奥さんが作られたユズダイコンの漬物やダイズとヒジキの煮もの、ニンジン・レンコン・ウスアゲ・シイタケコンブの煮ものとともにいただく。
「あんたも食べてや」と云われて席につく。

手がこんだ小豆粥はむちゃ美味しい。
漬物や煮ものも美味しいので、2杯もおかわりをいただいてしまった。
感謝、感謝の小豆粥に大満足した。
(H25.11.16 EOS40D撮影)