辰巳城(たつんじょ)・西・市場・中・南垣内の五垣内からなる大和郡山市の横田町。
これまで八幡神社・治道和爾下神社のトーヤ(当家)のお渡りなどを取材していたが、南垣内に鎮座する素盞嗚神社の行事は失念していた。
南垣内は柳生垣内とも呼ばれる地。
集落外れの小垣内である。
それより隣接する南側は天理市の南六条北方である。
北方も元柳生の地と呼ばれている。
「ここから柳生へ移った人がおって、あそこが柳生の地名になったんや」というのは奈良市の柳生。
剣豪柳生一族で名高い地である。
かつては「楊生(やぎう)」の字を充てていた元柳生の地。
平安時代中期に作られた和名抄には「楊生郷」の名が見られるそうだ。
現在の山村町、楢町、山辺村、横田・南六条町、八島町、櫟本町、春日、山町は、かつて旧添上郡内の山村郷、楢中郷、山辺郷、楊生郷、八島郷、大岡郷、春日郷、大宅郷の呼び名であった八郷。
延久二年(1070)の興福寺雑役免帳に「楊生庄」の記載がある地域はその後の南北朝~室町時代までその呼び名であった荘園だ。
そのような歴史を物語る元柳生の地に鎮座する素盞嗚神社は大和郡山市横田町の南垣内。
今でも柳生垣内と呼ぶ地域には5軒で営んでいた「座」があった。
氏神さんは一年間も祀っていたトーヤ(当家)家。
神饌などを供えるトーヤ(当家)の祭りをされていた。
今でも座帳文書を持ち回りしているが、神社行事は村行事に移った。
集まった氏子たちはおよそ15人。
神饌は略されたが本殿に供えて一同が拝殿に並ぶ。
祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌を経て宮司一拝されて神事を終えた。
かつては拝殿に座って直会をされていたが、今では垣内の公民館に場を移した。
座敷に上がって席につく氏子たち。

パック詰め料理に供えた神饌の内、結び昆布やカマボコ、リンゴを配膳するトーヤ(当家)。
それから数時間に亘って語らいをする直会の場。

かつては夕刻近くまでされていたが、今ではほどなく終えると云う。
それから始まるトーヤ(当家)受けの儀式。
新旧トーヤ(当家)が酒を酌み交わすそうだ。
公民館は日待ちの場でもある。
2月、5月、9月の年三回に集まる日待ちに掲げる掛軸がある。
中央に配した雨宝童子は天照皇太神。
囲むように4神が描かれている。

右上は多賀大社の伊弉諾尊、左上は熊野神社の伊弉册尊。
右下は大巳貴命で、左下は稲蒼魂命である掛軸は「開運壽福地神」の5神を祀るが、時代記銘は見られなかった。
素盞嗚神社に建ててあった数々の燈籠。
これらには建之された年代記銘の刻印が見られる。
鳥居したにある燈籠には「明和五年(1768)戊九月吉日 午頭天皇社」とある。
境内にあったもう一つの燈籠では「宝暦三年(1753) 午頭天皇社」である。
260年前の江戸時代の神社名称は午頭天皇社であったのだ。
(H25.11.10 EOS40D撮影)
これまで八幡神社・治道和爾下神社のトーヤ(当家)のお渡りなどを取材していたが、南垣内に鎮座する素盞嗚神社の行事は失念していた。
南垣内は柳生垣内とも呼ばれる地。
集落外れの小垣内である。
それより隣接する南側は天理市の南六条北方である。
北方も元柳生の地と呼ばれている。
「ここから柳生へ移った人がおって、あそこが柳生の地名になったんや」というのは奈良市の柳生。
剣豪柳生一族で名高い地である。
かつては「楊生(やぎう)」の字を充てていた元柳生の地。
平安時代中期に作られた和名抄には「楊生郷」の名が見られるそうだ。
現在の山村町、楢町、山辺村、横田・南六条町、八島町、櫟本町、春日、山町は、かつて旧添上郡内の山村郷、楢中郷、山辺郷、楊生郷、八島郷、大岡郷、春日郷、大宅郷の呼び名であった八郷。
延久二年(1070)の興福寺雑役免帳に「楊生庄」の記載がある地域はその後の南北朝~室町時代までその呼び名であった荘園だ。
そのような歴史を物語る元柳生の地に鎮座する素盞嗚神社は大和郡山市横田町の南垣内。
今でも柳生垣内と呼ぶ地域には5軒で営んでいた「座」があった。
氏神さんは一年間も祀っていたトーヤ(当家)家。
神饌などを供えるトーヤ(当家)の祭りをされていた。
今でも座帳文書を持ち回りしているが、神社行事は村行事に移った。
集まった氏子たちはおよそ15人。
神饌は略されたが本殿に供えて一同が拝殿に並ぶ。
祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌を経て宮司一拝されて神事を終えた。
かつては拝殿に座って直会をされていたが、今では垣内の公民館に場を移した。
座敷に上がって席につく氏子たち。

パック詰め料理に供えた神饌の内、結び昆布やカマボコ、リンゴを配膳するトーヤ(当家)。
それから数時間に亘って語らいをする直会の場。

かつては夕刻近くまでされていたが、今ではほどなく終えると云う。
それから始まるトーヤ(当家)受けの儀式。
新旧トーヤ(当家)が酒を酌み交わすそうだ。
公民館は日待ちの場でもある。
2月、5月、9月の年三回に集まる日待ちに掲げる掛軸がある。
中央に配した雨宝童子は天照皇太神。
囲むように4神が描かれている。

右上は多賀大社の伊弉諾尊、左上は熊野神社の伊弉册尊。
右下は大巳貴命で、左下は稲蒼魂命である掛軸は「開運壽福地神」の5神を祀るが、時代記銘は見られなかった。
素盞嗚神社に建ててあった数々の燈籠。
これらには建之された年代記銘の刻印が見られる。
鳥居したにある燈籠には「明和五年(1768)戊九月吉日 午頭天皇社」とある。
境内にあったもう一つの燈籠では「宝暦三年(1753) 午頭天皇社」である。
260年前の江戸時代の神社名称は午頭天皇社であったのだ。
(H25.11.10 EOS40D撮影)