前月の24日に訪れた三郷町の勢野。
薬隆寺八幡神社の下見の際に絵馬殿に貼ってあった講演会の案内があった。
薬隆寺八幡神社創建500年祭を記念する講演会は三郷町の史跡や歴史文化を調査・報告されている「史学さんごう」が主催する。
一回目は大和川を通じて、二回目は近代化というテーマだったそうだ。
3回目の今回はこの年に奈良民俗文化研究所を立ちあげられた鹿谷勲氏が語る「三郷町の伝承文化をたどる」である。
「史学さんごう」は町内の文化財を纏めた冊子『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩~文化財と史蹟のガイドブック』を編集・発行された歴史愛好家団体。
大字勢野・立野・南畑からなる三郷町の文化を紹介している。
講演会場は町立図書館の視聴覚室。
会場には薬隆寺八幡神社に収蔵する絵馬や三日オコナイに掲げられる仏画4幅などが展示されていた。
特に興味を惹かれたのは慶応三歳卯(1867)正月吉日に奉納された「御祭礼の図」である。
当時は9月25日に行われていたお渡りの様子や神事、献饌、御湯などを描いている。
展示物は撮影禁止であったが、前月の25日の行事取材で伺った際に神社役員の承諾を得て撮らせてもらっていた。
全景は今も昔も変わらない様相だが、かつての祭礼の在り方を表現している。
「ここに何代か前に出仕しているのです」と教えてくださる巫女を勤める坂本さん。
度々の行事取材でお世話になっている母・娘さんだ。
本殿前で幣を持つ巫女姿がある。
かつてはナギナタの所作はあったが、幣を持つ姿は初めて拝見したと話す。
御湯の場は今でもされている本殿階段下の鳥居付近だった。
鈴を手にして神楽を舞う姿の横にあるのが、つい最近の2年前まで使われていた御湯釜である。
「和平群郡東勢哩八幡御釜 貞享二年乙丑(1685)九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」の刻印がある。
御湯の作法を見ている村人の姿は大勢で群がるようだ。
そのような絵が描かれている状況をゆっくり見ている時間はない。講演会が始まったのだ。
視聴覚室の客席は180人も収容できる。ざっと数えてみれば100人を大幅に越えていた。
これまで開催された講演会のなかでも過去最高だと主催者は話す。
冒頭に日本六十余州を記した『人国記』の「大和国」を挙げて、「大和国之風俗表郡は人之気大形(おおかた)名刹を好むもの多ふし。奥郡之者は隠る気有之、蓋し此国之人は大体山城之国人に風俗似たる処多し。昔日王城之地と成が故に其風俗漸く似たる処多しといへども、山城之国より人之気少し、尖(するど)成所有。雖然表郡者名刹にかゝわる人多く而常に詞に偽を巧みにして、上分は巧みすくなふ而名を挙んことを願ひ、下劣は於言句之下而偽を述て両舌を吐く風俗也。若是国之人を味方に従はしむるには讒者を以て人之気を可分名刹無き則は速に分つ。亦奥郡之人は隠るゝ気質自然と生れつきたり。是は山深く而常に人倫に交道理を談ふる人も寡ければ、自を如斯に而道理を不知風俗也。」、「自然に実を振舞ふ人は猶以て隠遁之気発し、世を無き物となす。形儀をのみ見聞が故に如斯之風儀多し。されば古より芳野山奥は人の気五畿内之人に勝れて、いさぎよき也。雖然物之形儀を不知が故に智あつて道理に従ひ、謹とはなけれども邪僻之為に驕を禁ずるもの也。故に自を愚成人多し。若是を取をば、其威を仰て気を悦ばしめて、我が国を全ふ而国人を不労而自を愚を行はせよ、さある時は陰却而陽に変じ、驕奢之気出るものなり。都而名刹名聞につながれて気質に勝ちたると可知也。千万人に一人二人は国風を忘れたる人もあり」の口伝全文より一部引用されて紹介されて奈良県民性や県内における変容、民俗文化圏による異相を話される。
奈良大和の国は『人国記』ですべてを物語るわけではなく、地域的に分けた文化圏によって大きく異なる。
平坦はクンナカ(国中)。東山間の東山中に対して西山中に吉野川南の奥吉野などだ。
三郷町がある西山中は生駒山地・矢田山地・西ノ京丘陵地に生駒川・平群川・龍田川・生駒谷・平群谷・富雄谷地域。
ケンカ相手になったヘイタンのことを「ヒロミ」とも呼んでいた人もいるそうだ。
三郷町に勢野、立野と呼ぶ「野」がある。
今では一般的に呼ぶ「野原」があるが、「野」と「原」は異なる地である。
「原」は広々とした草原地に対して、「野」は低木が繁った里の地。
「山」、「岡」、「谷」、「沢」、「野」、「原」の語を下にもつ地名は大体にして開発以前からあった。
「野」と呼ぶ地は山の裾野や緩斜地を意味していたのである。
現在の三郷町は「野」を開発された都市化の様相である。
大和の伝統民俗行事に「ノガミ(野神或いは農神)」がある。
「ノガミ」は人が暮らし生活する以前からあった。
「ノ」の「カミサン」が居た地に住みついた「ヒト」が「ノガミ」を祭ったと思っていると云う。
三郷町には三カ大字それぞれに神社がある。
勢野には薬隆寺八幡神社の他に秋留八幡神社、春日神社が、立野には龍田大社、神南備神社、琴平神社、瘡神社、坂上天神社がある。
南畑には盞嗚尊神社、大山祇神社がある。勢野の春日神社は姫大神命を祀る。
奈良市の春日大社の本殿は4神を祀る。
2神の藤原氏の守護神に祖神と天児屋根命(あめのこやね)のみことの妻である比売命を祀ったと思われる勢野の春日神社の祭神である。
春日大社に比売命の子神を祀ったとされる若宮神社がある。
12月に行われる「春日おん祭」は若宮さんの祭りは崇める大和武士によって始められたとされる。
伊古麻都比古神・伊古麻都比売神を祀る生駒の往馬大社。
男神・女神を祀る神社は各地にある。
それらは原初的な産土大神。
もしかとすれば、であるが、若宮さんも元々鎮座する産土大神であったかも知れないと話す鹿谷氏が奈良市狭川で聞いた二つの面を紹介する。
拝見することはできなかった男の面と女の面に両面を合わせて藁で括っていたそうだ。
さて、今年の春に創建500年祭が行われた薬隆寺八幡神社には宮座があった。
祭祀を勤めていたのは十人衆で東の宮座と呼んでいた。
北垣内の東南の美松に八幡堂跡がある。
かつて八幡神社がそこにあったと伝わる地である。
そこから見れば西に秋留八幡神社がある。
現在地から見れば北側である。
東の宮座と呼ばれるのは西にある秋留八幡神社に対する座の呼び名であったと思われる。
薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された絵馬図に描かれている。
今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋。
その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。
廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。
寺はなくとも三月三日に絵馬殿で「三日オコナイ」と呼ぶ行事を十人衆によって行われている。
平成10年までは十人衆の家で行われていた行事である。
一老・二老・三老が手分けして保管されている佛画の掛軸を絵馬堂に掲げて法会に般若心経を唱えていると話す。
県内各地で行われている村行事に「オコナイ」がある。
正月初めに村の安全や五穀豊穣を祈念する寺行事である。
野迫川村で行われている弓手原・北今西で取材された映像で解説される。
3月3日に行われる地域に大和郡山市小林町の「オコナイ」も紹介された。
小林町では「神名帳」の詠みあげや「ランジョー」の作法はあるが、勢野には見られない。
十人衆が勤める薬隆寺八幡神社行事は「三日オコナイ」の他に9月12日の「前宵宮」や10月24日の「イトナミ」がある。
「前宵宮」は10月の秋祭りとは別にある行事で、「宵宮」の名がついているが一日限りの行事である。
おそらく田原本町・大和郡山市・天理市などで行われている「ムカシヨミヤ」と推定される。
「イトナミ」は十人衆の行事であるが、翌日の25日は氏子のマツリである。
それより前週には30年前から始まった赤・白・赤の布団太鼓を曳く村行事のダンジリ祭りもある。
ダンジリに紹介された龍田大社の太鼓台、斑鳩の布団太鼓台に県内各地の山車(だんじり)。鹿谷氏は山車を「ダシ」と呼んでいた。
秋留八幡神社の宮座行事に1月16日に行われる「鬼打ち式」がある。
神饌や鬼の御供に矢を射る行事である。
宮座行事の紹介に柳生や狭川の在り方を詳しく解説されたが、この当稿では省かせていただく。
その他にも生駒・往馬大社の宮座や生駒・高山の宮座もスライドショーを展開して紹介された。
三郷町の宮座は立野や南畑もあるが、南畑は平成13年までで以降は自治会行事に移ったと聞いている。
なぜにカミを祀ってマツリをするのか。
土地に住む人々が伝承する土地の文化を育んできた。
県内各地のそれぞれの地域ごとにある民俗文化が人間形成を育ててきた。
急いで開発された「野」の地。開発の波は落ちついてきた旧村の町。
旧村住民、新住民交えて共存共栄をはりながら地域の文化を継ぐ、或いは改良される際に少しでも参考にしていただくことを願い講演を終えた。
終わって再び、鹿谷氏や坂本さん、神社役員らと拝見する「御祭礼の図」には「覗きからくり」も描かれてあった。
むかし懐かしい「覗きからくり」。30歳まで住んでいた大阪の住吉さんの祭りを思い出した。
そこには各種の演芸場があった。
怖いもの見たさに小さな窓から覗いた「からくり」はろくろ首だった。
「覗きからくり」の下には三味線を奏でる女性も居る。
その左手で棒のようなものを振る男性もいる。
法螺貝を口にあて「でれえーん、れーえん、れーえん」と唱え、右手に持った錫杖を押し出すように振り鳴らす姿は祭文語りである。
平成20年3月16日に取材した奈良市日笠町の今井堂天満神社で奉納された「田原の祭文語り」を思い出した。
昭和3年の昭和天皇大典慶祝の際、慶応三年に踊りを経験していた古老から習って復活したものの再び中断。
昭和58年に保存会が結成され、記憶をもとに復元されて現在に至っている伝統芸能である。
もしかとすればだが、「御祭礼の図」に描かれた祭文語りは田原の里でも行われていたものと同じではないだろうかと思ったのである。
「御祭礼の図」にあった献饌。
神饌を手渡しで献じているのは裃姿の十人衆だ。
衣装は残されていないと話す神社役員は復活してみたいという声があがった。
(H26.11. 9 SB932SH撮影)
薬隆寺八幡神社の下見の際に絵馬殿に貼ってあった講演会の案内があった。
薬隆寺八幡神社創建500年祭を記念する講演会は三郷町の史跡や歴史文化を調査・報告されている「史学さんごう」が主催する。
一回目は大和川を通じて、二回目は近代化というテーマだったそうだ。
3回目の今回はこの年に奈良民俗文化研究所を立ちあげられた鹿谷勲氏が語る「三郷町の伝承文化をたどる」である。
「史学さんごう」は町内の文化財を纏めた冊子『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩~文化財と史蹟のガイドブック』を編集・発行された歴史愛好家団体。
大字勢野・立野・南畑からなる三郷町の文化を紹介している。
講演会場は町立図書館の視聴覚室。
会場には薬隆寺八幡神社に収蔵する絵馬や三日オコナイに掲げられる仏画4幅などが展示されていた。
特に興味を惹かれたのは慶応三歳卯(1867)正月吉日に奉納された「御祭礼の図」である。
当時は9月25日に行われていたお渡りの様子や神事、献饌、御湯などを描いている。
展示物は撮影禁止であったが、前月の25日の行事取材で伺った際に神社役員の承諾を得て撮らせてもらっていた。
全景は今も昔も変わらない様相だが、かつての祭礼の在り方を表現している。
「ここに何代か前に出仕しているのです」と教えてくださる巫女を勤める坂本さん。
度々の行事取材でお世話になっている母・娘さんだ。
本殿前で幣を持つ巫女姿がある。
かつてはナギナタの所作はあったが、幣を持つ姿は初めて拝見したと話す。
御湯の場は今でもされている本殿階段下の鳥居付近だった。
鈴を手にして神楽を舞う姿の横にあるのが、つい最近の2年前まで使われていた御湯釜である。
「和平群郡東勢哩八幡御釜 貞享二年乙丑(1685)九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」の刻印がある。
御湯の作法を見ている村人の姿は大勢で群がるようだ。
そのような絵が描かれている状況をゆっくり見ている時間はない。講演会が始まったのだ。
視聴覚室の客席は180人も収容できる。ざっと数えてみれば100人を大幅に越えていた。
これまで開催された講演会のなかでも過去最高だと主催者は話す。
冒頭に日本六十余州を記した『人国記』の「大和国」を挙げて、「大和国之風俗表郡は人之気大形(おおかた)名刹を好むもの多ふし。奥郡之者は隠る気有之、蓋し此国之人は大体山城之国人に風俗似たる処多し。昔日王城之地と成が故に其風俗漸く似たる処多しといへども、山城之国より人之気少し、尖(するど)成所有。雖然表郡者名刹にかゝわる人多く而常に詞に偽を巧みにして、上分は巧みすくなふ而名を挙んことを願ひ、下劣は於言句之下而偽を述て両舌を吐く風俗也。若是国之人を味方に従はしむるには讒者を以て人之気を可分名刹無き則は速に分つ。亦奥郡之人は隠るゝ気質自然と生れつきたり。是は山深く而常に人倫に交道理を談ふる人も寡ければ、自を如斯に而道理を不知風俗也。」、「自然に実を振舞ふ人は猶以て隠遁之気発し、世を無き物となす。形儀をのみ見聞が故に如斯之風儀多し。されば古より芳野山奥は人の気五畿内之人に勝れて、いさぎよき也。雖然物之形儀を不知が故に智あつて道理に従ひ、謹とはなけれども邪僻之為に驕を禁ずるもの也。故に自を愚成人多し。若是を取をば、其威を仰て気を悦ばしめて、我が国を全ふ而国人を不労而自を愚を行はせよ、さある時は陰却而陽に変じ、驕奢之気出るものなり。都而名刹名聞につながれて気質に勝ちたると可知也。千万人に一人二人は国風を忘れたる人もあり」の口伝全文より一部引用されて紹介されて奈良県民性や県内における変容、民俗文化圏による異相を話される。
奈良大和の国は『人国記』ですべてを物語るわけではなく、地域的に分けた文化圏によって大きく異なる。
平坦はクンナカ(国中)。東山間の東山中に対して西山中に吉野川南の奥吉野などだ。
三郷町がある西山中は生駒山地・矢田山地・西ノ京丘陵地に生駒川・平群川・龍田川・生駒谷・平群谷・富雄谷地域。
ケンカ相手になったヘイタンのことを「ヒロミ」とも呼んでいた人もいるそうだ。
三郷町に勢野、立野と呼ぶ「野」がある。
今では一般的に呼ぶ「野原」があるが、「野」と「原」は異なる地である。
「原」は広々とした草原地に対して、「野」は低木が繁った里の地。
「山」、「岡」、「谷」、「沢」、「野」、「原」の語を下にもつ地名は大体にして開発以前からあった。
「野」と呼ぶ地は山の裾野や緩斜地を意味していたのである。
現在の三郷町は「野」を開発された都市化の様相である。
大和の伝統民俗行事に「ノガミ(野神或いは農神)」がある。
「ノガミ」は人が暮らし生活する以前からあった。
「ノ」の「カミサン」が居た地に住みついた「ヒト」が「ノガミ」を祭ったと思っていると云う。
三郷町には三カ大字それぞれに神社がある。
勢野には薬隆寺八幡神社の他に秋留八幡神社、春日神社が、立野には龍田大社、神南備神社、琴平神社、瘡神社、坂上天神社がある。
南畑には盞嗚尊神社、大山祇神社がある。勢野の春日神社は姫大神命を祀る。
奈良市の春日大社の本殿は4神を祀る。
2神の藤原氏の守護神に祖神と天児屋根命(あめのこやね)のみことの妻である比売命を祀ったと思われる勢野の春日神社の祭神である。
春日大社に比売命の子神を祀ったとされる若宮神社がある。
12月に行われる「春日おん祭」は若宮さんの祭りは崇める大和武士によって始められたとされる。
伊古麻都比古神・伊古麻都比売神を祀る生駒の往馬大社。
男神・女神を祀る神社は各地にある。
それらは原初的な産土大神。
もしかとすれば、であるが、若宮さんも元々鎮座する産土大神であったかも知れないと話す鹿谷氏が奈良市狭川で聞いた二つの面を紹介する。
拝見することはできなかった男の面と女の面に両面を合わせて藁で括っていたそうだ。
さて、今年の春に創建500年祭が行われた薬隆寺八幡神社には宮座があった。
祭祀を勤めていたのは十人衆で東の宮座と呼んでいた。
北垣内の東南の美松に八幡堂跡がある。
かつて八幡神社がそこにあったと伝わる地である。
そこから見れば西に秋留八幡神社がある。
現在地から見れば北側である。
東の宮座と呼ばれるのは西にある秋留八幡神社に対する座の呼び名であったと思われる。
薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された絵馬図に描かれている。
今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋。
その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。
廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。
寺はなくとも三月三日に絵馬殿で「三日オコナイ」と呼ぶ行事を十人衆によって行われている。
平成10年までは十人衆の家で行われていた行事である。
一老・二老・三老が手分けして保管されている佛画の掛軸を絵馬堂に掲げて法会に般若心経を唱えていると話す。
県内各地で行われている村行事に「オコナイ」がある。
正月初めに村の安全や五穀豊穣を祈念する寺行事である。
野迫川村で行われている弓手原・北今西で取材された映像で解説される。
3月3日に行われる地域に大和郡山市小林町の「オコナイ」も紹介された。
小林町では「神名帳」の詠みあげや「ランジョー」の作法はあるが、勢野には見られない。
十人衆が勤める薬隆寺八幡神社行事は「三日オコナイ」の他に9月12日の「前宵宮」や10月24日の「イトナミ」がある。
「前宵宮」は10月の秋祭りとは別にある行事で、「宵宮」の名がついているが一日限りの行事である。
おそらく田原本町・大和郡山市・天理市などで行われている「ムカシヨミヤ」と推定される。
「イトナミ」は十人衆の行事であるが、翌日の25日は氏子のマツリである。
それより前週には30年前から始まった赤・白・赤の布団太鼓を曳く村行事のダンジリ祭りもある。
ダンジリに紹介された龍田大社の太鼓台、斑鳩の布団太鼓台に県内各地の山車(だんじり)。鹿谷氏は山車を「ダシ」と呼んでいた。
秋留八幡神社の宮座行事に1月16日に行われる「鬼打ち式」がある。
神饌や鬼の御供に矢を射る行事である。
宮座行事の紹介に柳生や狭川の在り方を詳しく解説されたが、この当稿では省かせていただく。
その他にも生駒・往馬大社の宮座や生駒・高山の宮座もスライドショーを展開して紹介された。
三郷町の宮座は立野や南畑もあるが、南畑は平成13年までで以降は自治会行事に移ったと聞いている。
なぜにカミを祀ってマツリをするのか。
土地に住む人々が伝承する土地の文化を育んできた。
県内各地のそれぞれの地域ごとにある民俗文化が人間形成を育ててきた。
急いで開発された「野」の地。開発の波は落ちついてきた旧村の町。
旧村住民、新住民交えて共存共栄をはりながら地域の文化を継ぐ、或いは改良される際に少しでも参考にしていただくことを願い講演を終えた。
終わって再び、鹿谷氏や坂本さん、神社役員らと拝見する「御祭礼の図」には「覗きからくり」も描かれてあった。
むかし懐かしい「覗きからくり」。30歳まで住んでいた大阪の住吉さんの祭りを思い出した。
そこには各種の演芸場があった。
怖いもの見たさに小さな窓から覗いた「からくり」はろくろ首だった。
「覗きからくり」の下には三味線を奏でる女性も居る。
その左手で棒のようなものを振る男性もいる。
法螺貝を口にあて「でれえーん、れーえん、れーえん」と唱え、右手に持った錫杖を押し出すように振り鳴らす姿は祭文語りである。
平成20年3月16日に取材した奈良市日笠町の今井堂天満神社で奉納された「田原の祭文語り」を思い出した。
昭和3年の昭和天皇大典慶祝の際、慶応三年に踊りを経験していた古老から習って復活したものの再び中断。
昭和58年に保存会が結成され、記憶をもとに復元されて現在に至っている伝統芸能である。
もしかとすればだが、「御祭礼の図」に描かれた祭文語りは田原の里でも行われていたものと同じではないだろうかと思ったのである。
「御祭礼の図」にあった献饌。
神饌を手渡しで献じているのは裃姿の十人衆だ。
衣装は残されていないと話す神社役員は復活してみたいという声があがった。
(H26.11. 9 SB932SH撮影)