マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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リッチな会葬の膳

2016年06月07日 08時36分14秒 | ぽつりと
享年87歳のふーちゃんを送る斎場は大阪市福島区にあるロイヤルシティホール野田。

通夜の晩は我が家で一夜を過ごしたおかんも乗せて車を走らせる。

前日に走った道路は記憶に新しい。

難なく駐車場に着く。

葬儀の斎場、祭壇の逆方向にあった写真群。



若いときの姿はまるで女優さん。

婿入りした旦那と並んだ写真もある。

戦災者が移住した市営住宅はすぐに判る。

我が家の住まいは住之江の大和川住宅。

同じく戦災者が移住した市営住宅だ。

横に並べた板壁が象徴的。

玄関口で判った地上げ前の様相は同じだった。

淀川が氾濫しそうになるということで数年後には数十センチも家屋ごと上げた地上げだった。

当時の写真はモノクロだが、子供が生まれ育った何十年後の姿はカラー写真。

これらの写真はDVD化されて葬儀会場に映し出される。

ふーちゃんは親父といとこにあたる。

おおばあさんの子供は男女二人。

兄貴がふーちゃんの親父さんで娘は私の親父の母親だった。

親父には弟も居た。

家に残された写真に親父が出征する時と思われる写真がある。

その写真は三人の他、おおばあさん、祖母、ふーちゃんの父親も写っていた。

場は柏里でもない。

戦災で焼ける前の瓦町の呉服問屋であったろう。

今となっては誰も生きていない戦中時代の写真にふーちゃんはモンペを履いていた。

僧侶はお通夜に法要してくださった三重県伊賀上野の九品寺住職。

住職が云うには比叡山天台宗の分かれの宗の真盛宗(しんせいしゅう)である。

通夜は一人僧侶であったが、葬儀は三人僧侶で営まれる。

焼香は喪主から始まって止め焼香で終える。

関西特有の止め焼香は指名された私が務めた。

棺桶の中のふーちゃんを見送って霊柩車に納める。

それを先頭に喪主が乗ったタクシーに次いで大阪北斎場に向かう。

カーナビゲーションに場を入力する間もなく出発した。

あみだ池筋、中津駅前、城北公園通、天神橋筋を経て長柄西にある市営北斎場に着く。

一同、焼香をして見送る。

骨あげまでの時間帯は葬儀の会食。

ロイヤルシティホール野田へ戻っていただく料理にお品書きがある。



前菜は季節の六品盛り。

お造りは中トロ鮪、イクラ、あおり烏賊、赤海老、あしらえ一式。



前夜の通夜料理もいただいた「季彩菜」(SHIINA)の料理はとても美味い。

特に中トロ鮪は絶品だった。

造り盛りにある透明な糸コンニャクのように見える添え物が気になった。

食感はプチプチ感だ。

初めて口にするこれはなんであろうか。

配膳していた女性職員に尋ねたら料理長に聞くとのこと。

その答えはビードロの名がある海藻だった。

海藻だというが実態はそうではない。

昆布等のぬるぬる成分を摘出する。

ぬるぬるはフコイダンと呼ばれる成分で、水を配合して麺状に形成したものをビードロというようだ。

サラダにも合うというビードロは近くのスーパーで売っているのだろうか。

一度、探してみようと思った。

焼き物はカジキと茄子のバジルソース掛け。

ヤングコーンに刻み野菜を盛りこんでいる。

小鍋は鱧の山椒鍋。玉ねぎ、牛蒡、キャベツとともに煮立てる。

レンゲで出汁つゆを掬って椀に入れる。

煮あがった具材も入れる。

これがまた美味いのである。

出汁が利いているのは判るが何だろうか。

揚げ物は海老の天ぷら、海老の湯葉巻き、鱧の紅梅揚げ、南京。

揚げたてを梅塩に付けて食べるのだが、塩分調整している身体には毒だ。

梅塩を付けなくとも天ぷらそのものが美味しいのである。

特に美味かったのは海老の湯葉巻きと鱧の紅梅揚げだ。

酢の物は〆鯖、白木耳とヒジキ、土佐酢ジュレになた豆の花だ。

木耳そのものには味はない。

酢に漬けていただく。

シャキシャキ感がたまらない木耳の食感である。



蒸し物は雲丹の茶碗蒸しに銀餡掛けだ。

真黄色に染まった茶碗蒸しは初めて見る。

とろとろの食感に雲丹の香りがどっとやってくる。

特別な味に酔いしれる。

飯物は新潟産こしひかりに玉蜀黍(とうもろこし)を混ぜたご飯だ。

甘い玉蜀黍に何故かバター味を感じる。

椀物は木の子つみれに順才、三つ葉を浮かした清汁仕立て汁椀だ。

すまし汁を食べるころはお腹がいっぱいになっていた。

これほどのボリューム感がある骨あげ待ちの料理に胃袋が驚いている。

これまで列席した葬儀食はパック詰め料理だった。

これがフツーだと思っていた。

まるでデイナーのように配膳される料理は初もの体験。



ラストを締めくくるデザートもある。

アシェットデセル、チョコレートケーキ、マンゴーゼリー、黄桃紅茶ジュレに食べごろのメロンであった。



ご飯につきものの香の物の3種盛りもあったが、これもまた塩分調整している身であるゆえ箸をつけるわけにはいかなかった。

そういえば配膳された料理のなかに麺類があった。

おもてなしの一貫として冷やし煮こごり素麺の一品もあった。

これを仕上げと書いてあったが、配膳途中に出てきた。

食べ終わったころの時間帯は骨あげになる。

再び大阪北斎場に向かう。

サイバシで拾う故人の骨。

病に伏したときは骨が黒くなると信じてきたが見つからない。

葬儀屋さんの話しによれば、それは俗説というのである。

病気であっても骨は綺麗な色。

染まっているのは棺桶に入れた花などが焼けた色だという。

そして再び戻ったロイヤルシティホール野田。

これより始まるのは初七日。

住職が弔う念仏は切り上げ法要の追善法要。

冥途に・・向かって供養された。

こうして喪主は四十九日までの毎日に冥福を祈る。

(H27. 9.29 SB932SH撮影)

十六夜の通夜

2016年06月07日 08時22分34秒 | ぽつりと
旧暦八月十四日。

彼岸明けのこの日の夕方に電話が鳴った。

架けてきたのは甥っ子の貴ちゃんだ。

一週前に見舞ったふーちゃんが入院していた病院で亡くなったという。

大腸がんを患っていたが、痛がることもなく眠り着くように静かに心音が途絶えたと伝える。

一週間前、声を架けて名前を呼んだら頷いた。

聞こえていたと思われる。

医師の診断によれば五分五分。

どっちに転げるか判らない状況であった。

体力は保たれるか。大腸がんを患ったことが発覚したのはほぼ一年前。

おそらく一年ももたないだろうと通告されていたようだ。

電話があった二日後がお通夜。

満月で光り輝く十六夜の日である。

通夜の会場は大阪市福島区にあるロイヤルシティホール野田。

株式会社ベルコが運営する葬儀会館である。

おふくろを迎える地は大阪市住之江区。

AKGコーポレーションから配車された代車で出かける。

見舞いに出かけたとこも代車だった。

住之江までは特に支障もなく走行する。

さてさて困ったのは葬儀会館がある地点である。

代車に搭載されているカーナビゲーションはやや古い。

会館の電話番号は受け付けない。

古いカーナビゲーションには登録されていない。

住所番地を入力するが、これもまた末端番地がない。

ここら辺りだと見当をつけて阪神高速道路を走る。

予め見ていたパソコンマップでは福島で降りれば良いと思っていた。

なんとなく不安であった。

それが的中して淀川の橋を渡りきって塚本で下りる。

柏里・野里の通りを抜けて淀川大橋を曲がる。

道中にあった柏里は我が家と同様に戦災にあった人たちのための市営住宅。

今では高層建ての住宅地で60年前の面影はひとつもない。

野里へ通じる通りを西南へ走っていた。

ここは大正金属があった処だという。

現地は思いだせないが親父が働いていた勤務先だ。

親父はそこで経理を担当していた。

それはともかくカーナビゲーションに入力した番地を手掛かりに梅田へ向けて走る。

野田駅近くまで行けばロイヤルシティホール野田の建物が見つかった。

警備員に誘導されて駐車場に車を停める。

エレベータに乗って案内される白と黒いドレス姿の職員さん。

エレガントな感じに受けた。

通された室内は親族集合室。

挨拶を済ませて通夜の会場に行く。

亡くなったふーちゃんはエンバーミングされて霊安室に納められた。

この日はお通夜。

葬儀フロアーに移送され、寝棺は真正面。

周りを囲む祭壇の洋風花が咲き誇っていた。

ふと気がついたものがある。

小豆餡餅、赤飯、ジュースにコーヒー豆など。

そこには揚げたて出来たて天ぷらがある。

パックに詰めた天ぷらは惣菜屋さんで買ったものだろう。

これは二人の息子が特別に供えたふーちゃんが好きだった食べ物だ。

こんな仕掛けは初めてだ。

二人の心遣いに感動する。

お通夜に出仕された僧侶は伊賀上野の九品寺の住職だ。

ふーちゃんよりも先に逝ってしまった旦那さんのイチローさんの墓がある。

九品寺には代々の墓もある。

先祖供養に何度か訪れたことがある。

息子は当時の城主の武将家来だった15代目。

分家である私は16代目だと聞いているが、特別なことは何もしてない。

享年87歳で逝ったふーちゃんを弔うお通夜はマクラ念仏に通夜回向だ。

お供えに好きだった熱々のコーヒーを手向ける。

こういうセレモニーも初めてだ。

セレモニーは続きがある。

お供えをした右側に白いバラで飾った花壇がある。

そこは少しだけ空間があった。

そこに喪主、参列者一人、一人が白いバラの花で埋める。

すべて揃えて86本。

満年齢の本数だったバラの花は故人に捧げた。

通夜の儀式が終われば別室に案内された。

お通夜の夜にいただく会食は丸テーブル。

喪主、親族一同が揃って食事をする。

丸テーブル席は椅子席。

これまで何度かお通夜に出かけたことがあるが、いずれも畳席だった。

和室にいただく通夜の会食は酒の肴のおつまみ程度の軽食だった。

これが洋風ともなれば感じ方がまったく違う。



寿司盛りは丸桶ではなく四角い盆皿だ。

料理すべてが洋風の通夜膳料理はおいしくいただいた。

ホウの葉に包んだ味噌和えの鶏肉もあった。

どれもこれも美味しい料理は「季彩菜」(SHIINA)のもてなし料理。

初、初づくしの十六夜通夜だった。

(H27. 9.28 SB932SH撮影)

旧大阪厚生年金病院の独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院へ行く

2016年06月07日 08時11分25秒 | ぽつりと
叔母が入院している病院を探す。

昨年までは大阪厚生年金病院と呼ばれていた。

場所はといえば大阪市の福島区。

中之島からすぐ近くになるが、道路事情もさることながら市街地区域。

たぶんに彷徨うことになると思っていた。

車は先々日に借用した代車。

故障修理に日数がかかるということであてがってもらった。

慣れない車で大阪市内を走るのは気が重い。

運転走行に神経を集中しなければならないし、病院を探さなければならない。

この日は仕事休みだった。

午後におふくろを迎える。

朝はゆっくりしたい。

いつもの時間どおりにいただく家の朝食。

そこに電話が架かったと携帯電話を持ってきた次男。

送り主は相方の送迎ドライバーだった。

なにかが起った、と思って電話する。

慌てふためく声が聞こえる。

どうやら出勤途中の車道で事故に遭遇したようだ。

怪我はなかったが、警察の事故調査や保険会社手配で仕事先に向かうことはできなくなった。

ドライバーの交替要請である。

緊急なお願いに支度を調える。

慣れない代車を走らせて代行出勤する。

仕事が終わって自宅に戻った時間帯は午後1時。

かーさんが買ってきたのり弁当をがっつりいただく。

落ち着いたところで出発だ。

病院へ向かう道は前夜に調べていた。

ある程度は理解している。

福島辺りで降りる阪神高速道路。

出口を抜けたら市街地。

車道、信号、電車道、街が詰まっているように見えたネットマップ。

プリントしておいたが、だ。

よくよく見れば代車にカーナビゲーションが付いていた。

情報はたぶんに古いと思うが利用する価値はあるだろうと思って病院の電話番号をセットして地点登録する。

まずはおふくろが住む大阪市住之江区に行く。

急ぐときには高速道路。

第二阪奈道路に入って料金所。

支払いはETCでなく普通車の現金払い。

故障してなければETCクレジットの軽自動車運賃。お安くなる。

生駒山下を通るトンネルを抜けたら東大阪。

直進する水走から阪神高速道路へ。

ここでも現金払い。阪神高速道路は軽自動車であっても普通自動車扱い。

ところがだ。ETCなら割引がある。

現金払いはなにごとに置いても特典はない。

住之江でおふくろを乗せたら再び阪神高速道路。

出口はネットで見ていた福島。

ここら辺りだろうと車を走らせていた。

ふと、あそこではと思ったが、ときすでに遅しである。

淀川を越えて柏里に出る。

ここは叔母の住む街。

昔、親父が働いていた大正金属はここらあたりだったとおふくろが云う。

幼少のころに記憶にある大正金属。

事務服姿だった親父の姿を思いだした。

カーナビゲーションが案内する独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院所在地は福島区の福島。

ナビゲーションが案内する通りに走る。

途中でなんとなく違うような気がした。

それもそのはず、ナビゲーションは180度戻れと表示する。

ここら辺りだろうと思って病院を探すが見つからない。

表示するナビゲーション映像には玉川小学校がある。

すぐ近くである。

なにやら工事をしている処にでた。

話しを聞けば駐車場工事。

学校帰りの子供たちを誘導する男性に問うた病院。

ここではなくあっちに回った反対側だという。

充てにできないナビゲーションは諦めて、プリントしておいた印刷物で付近を探すが、その反対側が判らない。

方角が判らなくなった。

あっちへと云われた通りに車を走らせるが、電車が通る高架に出る。

そこは先ほど通ってきた道。

ぐるりと一周した。

信号付近にガソリンスタンドがある。

車を降りて周囲に建つビル群を見上げる。

そこにあった「大阪病院」。

あそこだ、と思うが道が判らない。

スタンドに居られた人に尋ねるが正確な情報は得られなかった。

ビルが近くに見える場所まで走らせたら、またもや駐車場工事中。

ここは迷路か。

警備していた人に道を尋ねる。

そこを右に曲がって二つある信号の二つ目を右折れ。

そこからしばらく走ってあみだ池筋の道にでる。

信号を右折れしたらすぐ判るという。

それに従った走行をすれば右に見つかった。

が、である。

病院の駐車場は工事中で停める場所はない。

近くの民間業者が運営するタイムパーキングの地図を大きく貼りだしていた。

すぐ傍だ。

ぐるりと回って停める。

ようやく着いた病院は平成27年5月に開業した独立行政法人地域医療機能推進機構大阪病院。

新築である。

これまでは新築されるまでは大阪厚生年金病院。

入口道路にある標識は「大阪厚生年金病院前」とあった。

病院は新しくなって名は替わったが、道路標識は馴染みのある名が残されていた。

住之江を出発してから1時間半後。

ようやく着いた。総合案内の受付嬢に伝えた面会。

それなら入院センターで問い合わせてくださいという。

そこにいた事務員に入院患者の名を告げたらエレベータまで案内してくれた。

病棟階は外科。

セキュリテイゲートを抜けてまたもや病棟の受付。

名前を書けば面会番号が付与された首吊りプレートが手渡される。

介護士だと思う女性が病室まで誘導する。

さっさと歩く介護士の速度についていけないおふくろを私。

案内する速度は面会者に合わせるのが当然だろと思っていたら、後ろを振り向いた。

おふくろの足音で気がついたのだ。

病棟の造りは狭苦しくない。

むしろ広々としたゆったり開放感だ。

こういう間取りの病院は初めてだ。

大部屋ベッドもゆったり感。

締め切られたような感じはまったくない。

四角いベースでなく斜め。

この配置が室内を明るくしているのだと思った。

叔母が寝ていたベッド。

付き添いに息子の甥っ子がいた。

母親想いの息子は毎日付き添い。

介護センターでお世話になっていたときはそこまでついていない。

昨年末に発症した大腸がん。

再発する恐れもあるといわれたが手術に耐えた。

季節は流れて春には介護センターのお世話になっていたが、私が入院する直前に再発した。

探し見つけた病院がJCHO大阪病院だった。

抗生剤、点滴処方をしてきたが、86歳の叔母の身体に挿す針位置が見つからない。

医師の話しによれば首から点滴をする予定にあるという。

横たえていた叔母の姿は数年前に見たときよりもさらに老婆になっていた。

美人だった叔母の姿をとらえた写真からは想定できない姿だ。



病室から遠くを眺める。

中之島のビル群の向こう側。

つんと突き出たビルはあべのハルカスになるという。

それから一週間経った。

9月25日の夕刻に静かに眠るように逝ったと息子の貴久から電話があった。

(H27. 9.18 SB932SH撮影)