マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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高樋町春日神社カミキリの日

2016年06月20日 08時29分56秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
中央は天児屋根命を祀る本殿。

両側に二社。

両社とも事代主命を祀る蛭子社殿だ。

さらに瑞垣の外に大日霊命を祀る小社周りも綺麗に清掃する。



左手に建つ四角型灯籠には「今宮大明神 寛文拾弐年(1672)十一月吉日」が刻まれている。

右手にある六角型灯籠にも「今宮大明神」の名があるそうだ。

氏神さんのヨイミヤや翌日のマツリに準備に余念がない奈良市高樋町の氏子たち。

午後一番、集まってきた宮総代・会計やシキジ(式司)・ミナライ(見習)に手伝いさんたちは境内や拝殿を綺麗に清掃される。

奈良市高樋町に鎮座する春日神社の割拝殿。

床も柱も布で水拭きする。

割拝殿の中央は土間作りの急坂だ。

両側は床張りで、右が神饌所。

左側の場は翌日のヨイミヤで、大切なトウヤ決めの神事が行われる。

次の年のトウヤ(當家)を決めるフリアゲの場である。

それだけに、より一層の磨きをかけて拭きあげる。

トウヤ決めの場には木造の仮宮が残されている。

云十年に一度の造営事業。

本殿に奉られていた神さんは一旦、仮宮に遷される。

本殿の建築が終われば元のお社に戻っていただく。

お戻りになられた仮宮は残すことなく撤去されるのが一般的だが、高樋は珍しく残されている。

割拝殿の天井を見上げた。

鴨居に載せていた四角くて長い物体だ。

そこに墨書文字があった。



造営の際に揚げられた棟札であった。

朱の鳥居を入れ替えた際に不要となった「古い方の鳥居の部材を再利用した」と氏子たちが云う。

墨書に「本社 春日神社 天下泰平 五穀成就 氏子安全 大正参年(1914)寅年四月十五日 御造営 當村惣代・・・氏子惣代・・・・評議員・・・・・大工・・・・石工・・・」とある。

百年前の棟札である。

圧倒される巨大な棟札に身震いする。

平成6年7月の発刊の『五ケ谷村史』によれば、社殿の造替は昭和53年(1878)にされたとある。

この日に拝見した鳥居再利用の棟札のことは書かれていなかった。

見上げることはなかったのだろう。

村史が伝える造営は一部補修と思われるのだが、どうだろうか。

前回の御造営から節目になる100年目。

来年は本殿の建替えを検討していると話された。

マツリに掲げる幕は二枚ある。

一つは割拝殿に張る。

もう一つは参籠所だ。

幕を張る前にカミキリした紙垂れを注連縄に取り付ける。

昨年の12月1日に架けた注連縄は今でも美しい姿で現存している。

拝殿に張った幕に染め字があった。



「大正拾三年(1924)七月 奉納 祈雨満願 氏子中」の文字である。

拝殿と鳥居に間に二種の灯籠がある。

その一つに「雨願成就 奉納 春日社 明治(暦のようにも見えるが・・)壱年(1868)八月建之」の刻印が見られる。

明治、大正時期に発生した思われる旱。

雨乞い祈願の結願に雨が降る。

田畑に潤う天からの恵みに感謝して満願祈念に製作した灯籠と幕である。

『五ケ谷村史』によれば、明治十四年(1881)七月十四日・二十六日、隣村の米谷・白山比咩神社に当時の雨乞い祈願の記録が残っているようだ。

二十六日付けの文書に「一、子供相撲 一、花笠踊り 一、タンダ踊り」を五日間、降雨まで奉願していたとある。

願掛けに家ごとの燈明上げ、若しくは砂モチのいずれかをフリアゲで決めていた。

降雨が叶えばお礼にフリアゲ。

前記した子供相撲、花笠踊りタンダ踊りのいずれかを選んでいた。

明治十四年・十五年、隣村の北椿尾では雨乞い行事の執行に所轄の警察に届けていたと伝える。

雨乞い、満願の在り方を示す貴重な史料である。

一方、参籠所に張られた幕は長い。



「大正十三年(1924)十月 踊ニ〇加舞子 若返會中」の文字を染めている。

若返会とは・・・なんであろうか。

踊ニ〇加舞子とは・・・。

村人、誰に聞いても判らないと返答される。

12名ほどの奉納者があった若返会の幕を見る氏子たち。

「もしかとすればあの家の爺さんだったかも・・・」と独白される。

いずれも下がり藤の紋を染められた二つの幕に村の歴史を伝える。

ちなみに米谷で雨乞いに躍っていた踊りは「神楽踊り」。

単に「雨乞い踊り」」とか、囃し言葉より「テッテコ踊り」の名があったようだ。

雨乞い踊りは干時だけでなく、毎年の4月1日(明治5年以降は5月1日)に躍っていたようだが、昭和7、8年ころを最後に中断した。

高樋の幕に「ニ〇加」の文字がある。

「〇」は「輪」とすれば「二輪加」である。

つまり「にわか(俄)」踊りである。

踊りがどのようなものだったのか伝わっていないが「舞子」の文字より、踊り子は若返會。

若返會の呼称から考えるに踊り子は若手ではなく年配の人たちであろう。

即興で寸劇の「ニ〇加踊り」をしていたのだろう。

それは雨乞いか、満願か。

それとも十月寄進の幕からマツリ・豊作祝いに踊っていたのであろうか。

割拝殿下に設えるお祓の斎場。



四方および中央に杭を打つ。

笹竹を括り付ける四方の杭である。

中央は川の砂を盛る砂盛り。

笹竹に注連縄を張る。

紙垂れの取り付けは明日になる。

こうした作業は総代・会計など役員やシキジ(式司)・ミナライ(見習)の役目。

一方、明日のヨイミヤ、明後日のマツリに登場するのはアニドウヤ・オトウトドウヤと呼ばれる二人の當家だ。



當家はこの日作られた大御幣を持って神社までお渡りをする。

何年か前まではヨイミヤのお渡りがあったが簡略化されてマツリの日だけになったそうだ。

大御幣を作っていたのは丹生町の新谷宮司。

平成4年に作られた木材にカミキリした御幣を取り付ける。

半紙に洗い米を包んだ御供も取り付ける。

御幣は紙を切断することで出来上がる。

そういう様相から氏子たちは「カミキリ」と呼んでいた御幣作りである。

アニ・オトウトドウヤとも同じ大きさ、形の大御幣。

準備が調えば家に持ち帰る。



かつてはヨイミヤに大御幣を抱えて神社までお渡りをしていた。

道中で「ヨイヨイ ワアイ」・「ワアイ」の唱和をしていたようだ。

現在のお渡りはマツリの日だけとなった。

かつてはアニ・オトウトドウヤが二組もあった。

村人が少なくなり一組になった。

そのときにお渡りはマツリの日だけになったようだ。

お渡り装束は烏帽子に白装束。

おそらく素襖であろう。

シキジも同じように烏帽子を被った白装束。

この日は予行に仮着用された。

(H27.10. 9 EOS40D撮影)