旧五ケ谷村の田んぼを見て廻り、下ってきた。
初めて入った村もしていると聞いた。
それは翌日になるが、帰り道は大和郡山市の櫟枝町を通ることにした。
ここ櫟枝町は東西を走る街道の北と南側に田畑が広がる。
これまで拝見してきた苗代田は南側。
一度は見ておきたいと思って今回は北側の田んぼ道を行く。

8カ所の苗代田すべてにあるあるごーさん札。

ヤナギの枝に各家さまざまのイロバナもある。

このごーさん札は2月11日に鎮守社の八幡神社で行われる祈年祭に奉られる。

版木は「寛永七年(1630)正月吉日 和州添上郡 櫟枝村」に願主の升屋が寄進したもの。
祈年祭は拝見していないが、9月に行われる当家祭のおりにごーさん札の版木を現認した。

摺る墨は竃の煤を混ぜていたからお札を触ればすぐにわかる。

今回のお札はどうかと思って触ってみればザラザラ感がない。
最近は墨汁を用いて摺るのが多くなったと聞いていたから、煤はない。
トラクターで荒起こしをしていた男性は氏子総代のAさん。

かつてトーヤを務めたときは風呂釜の煤でそうしていたと話す。
Aさん曰く、2年前の当家祭で一老から四老の4人を決めるコヨリ籤を改め、竹箆籤に切り替えたという。
かつては竃や風呂焚き口とか煙突の煤を墨に混ぜて版木刷りをしていた櫟枝町。
私が知る範囲の県内事例はたったの2例。
ここ櫟枝町と桜井市の箸中だけである。
貴重な煤の摺り込み事例は他にもあるのかどうか。
生活文化は大きく変貌してきた昭和から平成時代。
現役の竃があったとしても、このような煤利用の例はもう考えられない。

水口マツリを拝見して車を停めた場に戻ってこようとしていた。
西の田んぼでは苗代田の代掻きをしていた。
代掻き道具はレーキのような代掻き棒だった。
懐かしい匂いがする代掻き棒の様子を見ていた。
その場に居られた長老がAさん。
昭和5年生まれの87歳。
今では見ることのない八幡神社に架ける注連縄。
その形式は簾型の注連縄。
一本の竹に簾のように縄を結う。
竹の葉は右手にあったという注連縄を「ドウガイ」と呼んでいた。
ドウガイ注連縄にはユズリハにトコロ芋。
ダイダイにカタスミ、吊るし柿をしていたと話してくれた。
今となっては貴重な注連縄の呼び名は櫟枝町にも存在していた。
(H29. 5. 3 EOS40D撮影)
初めて入った村もしていると聞いた。
それは翌日になるが、帰り道は大和郡山市の櫟枝町を通ることにした。
ここ櫟枝町は東西を走る街道の北と南側に田畑が広がる。
これまで拝見してきた苗代田は南側。
一度は見ておきたいと思って今回は北側の田んぼ道を行く。

8カ所の苗代田すべてにあるあるごーさん札。

ヤナギの枝に各家さまざまのイロバナもある。

このごーさん札は2月11日に鎮守社の八幡神社で行われる祈年祭に奉られる。

版木は「寛永七年(1630)正月吉日 和州添上郡 櫟枝村」に願主の升屋が寄進したもの。
祈年祭は拝見していないが、9月に行われる当家祭のおりにごーさん札の版木を現認した。

摺る墨は竃の煤を混ぜていたからお札を触ればすぐにわかる。

今回のお札はどうかと思って触ってみればザラザラ感がない。
最近は墨汁を用いて摺るのが多くなったと聞いていたから、煤はない。
トラクターで荒起こしをしていた男性は氏子総代のAさん。

かつてトーヤを務めたときは風呂釜の煤でそうしていたと話す。
Aさん曰く、2年前の当家祭で一老から四老の4人を決めるコヨリ籤を改め、竹箆籤に切り替えたという。
かつては竃や風呂焚き口とか煙突の煤を墨に混ぜて版木刷りをしていた櫟枝町。
私が知る範囲の県内事例はたったの2例。
ここ櫟枝町と桜井市の箸中だけである。
貴重な煤の摺り込み事例は他にもあるのかどうか。
生活文化は大きく変貌してきた昭和から平成時代。
現役の竃があったとしても、このような煤利用の例はもう考えられない。

水口マツリを拝見して車を停めた場に戻ってこようとしていた。
西の田んぼでは苗代田の代掻きをしていた。
代掻き道具はレーキのような代掻き棒だった。
懐かしい匂いがする代掻き棒の様子を見ていた。
その場に居られた長老がAさん。
昭和5年生まれの87歳。
今では見ることのない八幡神社に架ける注連縄。
その形式は簾型の注連縄。
一本の竹に簾のように縄を結う。
竹の葉は右手にあったという注連縄を「ドウガイ」と呼んでいた。
ドウガイ注連縄にはユズリハにトコロ芋。
ダイダイにカタスミ、吊るし柿をしていたと話してくれた。
今となっては貴重な注連縄の呼び名は櫟枝町にも存在していた。
(H29. 5. 3 EOS40D撮影)