先に訪れた天理市の中之庄町。
私にとっては初の村入りである。
村入りと云っても足を入れただけである。
そこで発見した苗代田のイロバナに目が点になった。
近くに村の人がいるだろうと思って探してみれば、作業小屋におられた。
話しを伺えば、明日に苗代作りをするというTさんだった。
Tさんが云う苗代にイロバナを立てる。
その際に供えるイリゴメがある。
イリゴメは粳米をフライパンに入れて煎る。
油は入れない空煎りである。
するとお米は熱さで爆ぜる。
ある地域ではハゼコメ(爆ぜ米)と呼ぶようだ。
Tさんはさらにいう。
その煎った米は皿代わりの蕗の葉に乗せるというのである。
これこそ見ておきたい民俗に取材願いをしたのはいうまでもない。
翌日の愉しみに心が躍った中之庄町。
集落を西に真っすぐ下れば森本町に出る。
たぶんそうであろうと車を走らせる。
左手に流れる川がある。
それが森本川。
奈良市山町の下山では毎年の10月に八坂神社の当家祭が行われている。
祭りの日の朝6時。
当家(トヤ)は森本川に浸かって清めの禊ぎをする。
ずいぶん昔に聞いた禊ぎの件であるが、今でもしているのだろうか。
森本川は禊ぎの川である。
その禊ぎ場がここであるのか、確証を得るには村の人の話しを聞かねばならない。
上流から流れてきた水流は大きな角度で蛇行する。
地図で見た森本川は急カーブ。
角度でいえば60度くらいであろうか。
その辺りに2社の神社がある。
右岸に恵比須神社。
左岸に姫大神社とあるから稲荷社関係になるだろう。
森本町にはもうひとつの神社がある。
氏神さんを祀る森神社である。
これもまたずいぶん前でのことであるが、ノガミ行事調査に足を運んだ際におられた数人の村の人。
神社行事を伺っても、何もしていないような素っ気ない返答だった。
中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。
中でも特筆すべきことが書いてあった第七章の「農耕生活と祭り」。
その項にあった行事ごとは大晦日に行われるフクマル(福丸)迎えである。
恵比須垣内のK家の行事である。
大晦日の夕飯が済み次第に始められる「ホコマルトリ」。
家の男たちがお膳に洗米と蝋燭を置き点火する。
その際に発声する詞章は「フクマルコイコイ」である。
その詞章を言いながら、大川(菩提仙川)に出かけて、入水する。
そこで雌とされる赤い石を。
雄石は黒い石。
川にある石を探して持ち帰って竃の蓋の上に置く。
同町西垣内のM家では一升枡に炊きたての白飯を入れて、提灯と蝋燭を抱えて大川の橋の手前にある大木のヨノミの木(榎)の根元に供えていた。
その場に生えている笹の葉をちぎって立てる。
そして、大川に入水して丸い3個の石を拾い、枡に入れて持ち帰る。
家人は門屋を開けて待ち構えている。
迎え入れるとすぐに扉を閉めて、正月期間中は開けることもない。
帰る際、燈明の火を提灯に移して消えないように持ち帰る。
神聖な火は竃の火点けのマメギ(豆木)に移す。
堅炭を一杯添えて正月の朝までもたせて、朝に元日の雑煮を炊く。
拾ってきた丸い石は米櫃の上に枡ごと供え、正月が済んでから米蔵に移す、とあった貴重な記録である。
その件を調べたくてずいぶん前の大晦日に訪れたが、何ら気配がなかったことを思い出す。
記事にある恵比須垣内すぐ近くの曲がり川。
その地に碑文が建ててあった。
読みは判読できなかったが、その前に端の皮を剥いだ青竹があった。
その竹に輪っかの注連縄があった。
何であろうか。聞きたくとも村人は歩いていない。
しばらくすれば南の方からこちらに向けて歩く婦人の姿が見えた。
その婦人に声をかけたら、私を知っているという。
なんということだ。話しを伺えば、天理市楢町在住の婦人。
平成28年11月8日に行われた興願寺の十夜だった。
その取材に来ていた私を覚えているということだ。
婦人の息子が祭りにトーヤを務めた。
祭りは楢町に鎮座する楢神社の行事である。
そのときのトーヤ務めにこの森本川に来て入水したという。
入水した川にある石を拾って持ち帰る。
入水は禊ぎである。
フクマルといい、まさに禊ぎの川。
ここにあった輪っかの注連縄は禊ぎ場の印しであろうか。
さて、この碑文である。
2面あるが、1面はかろうじて「和州北嶺講建之 森本後援」が判読できた。
刻印はどことなく白墨かなにかで傷つけたのか、白い線があるから判別できた。
もう1面は、どことなく詩を謡っているようにも見える。
年号は「昭和二年卯□春大峯官長覚□」の通り、昭和2年に建之したことがわかる。
偶然であるが、二日後の5日に苗代のイロバナ立てを取材させてくださった別所町の苺農家を営むNさんが、教えてくださった。
碑文は森本町の大峯北嶺講・講元のM氏が、33回の大峰山詣記念に建之したと話してくれた。
碑文の揮毫は当時の大峯官長の書であろうか。
また、隣村の中之庄町で水口まつりを撮らせていただいたTさんも先達が大峯登攀の33回記念に建てたと云っていた。
(H29. 5. 3 EOS40D撮影)
私にとっては初の村入りである。
村入りと云っても足を入れただけである。
そこで発見した苗代田のイロバナに目が点になった。
近くに村の人がいるだろうと思って探してみれば、作業小屋におられた。
話しを伺えば、明日に苗代作りをするというTさんだった。
Tさんが云う苗代にイロバナを立てる。
その際に供えるイリゴメがある。
イリゴメは粳米をフライパンに入れて煎る。
油は入れない空煎りである。
するとお米は熱さで爆ぜる。
ある地域ではハゼコメ(爆ぜ米)と呼ぶようだ。
Tさんはさらにいう。
その煎った米は皿代わりの蕗の葉に乗せるというのである。
これこそ見ておきたい民俗に取材願いをしたのはいうまでもない。
翌日の愉しみに心が躍った中之庄町。
集落を西に真っすぐ下れば森本町に出る。
たぶんそうであろうと車を走らせる。
左手に流れる川がある。
それが森本川。
奈良市山町の下山では毎年の10月に八坂神社の当家祭が行われている。
祭りの日の朝6時。
当家(トヤ)は森本川に浸かって清めの禊ぎをする。
ずいぶん昔に聞いた禊ぎの件であるが、今でもしているのだろうか。
森本川は禊ぎの川である。
その禊ぎ場がここであるのか、確証を得るには村の人の話しを聞かねばならない。
上流から流れてきた水流は大きな角度で蛇行する。
地図で見た森本川は急カーブ。
角度でいえば60度くらいであろうか。
その辺りに2社の神社がある。
右岸に恵比須神社。
左岸に姫大神社とあるから稲荷社関係になるだろう。
森本町にはもうひとつの神社がある。
氏神さんを祀る森神社である。
これもまたずいぶん前でのことであるが、ノガミ行事調査に足を運んだ際におられた数人の村の人。
神社行事を伺っても、何もしていないような素っ気ない返答だった。
中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。
中でも特筆すべきことが書いてあった第七章の「農耕生活と祭り」。
その項にあった行事ごとは大晦日に行われるフクマル(福丸)迎えである。
恵比須垣内のK家の行事である。
大晦日の夕飯が済み次第に始められる「ホコマルトリ」。
家の男たちがお膳に洗米と蝋燭を置き点火する。
その際に発声する詞章は「フクマルコイコイ」である。
その詞章を言いながら、大川(菩提仙川)に出かけて、入水する。
そこで雌とされる赤い石を。
雄石は黒い石。
川にある石を探して持ち帰って竃の蓋の上に置く。
同町西垣内のM家では一升枡に炊きたての白飯を入れて、提灯と蝋燭を抱えて大川の橋の手前にある大木のヨノミの木(榎)の根元に供えていた。
その場に生えている笹の葉をちぎって立てる。
そして、大川に入水して丸い3個の石を拾い、枡に入れて持ち帰る。
家人は門屋を開けて待ち構えている。
迎え入れるとすぐに扉を閉めて、正月期間中は開けることもない。
帰る際、燈明の火を提灯に移して消えないように持ち帰る。
神聖な火は竃の火点けのマメギ(豆木)に移す。
堅炭を一杯添えて正月の朝までもたせて、朝に元日の雑煮を炊く。
拾ってきた丸い石は米櫃の上に枡ごと供え、正月が済んでから米蔵に移す、とあった貴重な記録である。
その件を調べたくてずいぶん前の大晦日に訪れたが、何ら気配がなかったことを思い出す。
記事にある恵比須垣内すぐ近くの曲がり川。
その地に碑文が建ててあった。
読みは判読できなかったが、その前に端の皮を剥いだ青竹があった。
その竹に輪っかの注連縄があった。
何であろうか。聞きたくとも村人は歩いていない。
しばらくすれば南の方からこちらに向けて歩く婦人の姿が見えた。
その婦人に声をかけたら、私を知っているという。
なんということだ。話しを伺えば、天理市楢町在住の婦人。
平成28年11月8日に行われた興願寺の十夜だった。
その取材に来ていた私を覚えているということだ。
婦人の息子が祭りにトーヤを務めた。
祭りは楢町に鎮座する楢神社の行事である。
そのときのトーヤ務めにこの森本川に来て入水したという。
入水した川にある石を拾って持ち帰る。
入水は禊ぎである。
フクマルといい、まさに禊ぎの川。
ここにあった輪っかの注連縄は禊ぎ場の印しであろうか。
さて、この碑文である。
2面あるが、1面はかろうじて「和州北嶺講建之 森本後援」が判読できた。
刻印はどことなく白墨かなにかで傷つけたのか、白い線があるから判別できた。
もう1面は、どことなく詩を謡っているようにも見える。
年号は「昭和二年卯□春大峯官長覚□」の通り、昭和2年に建之したことがわかる。
偶然であるが、二日後の5日に苗代のイロバナ立てを取材させてくださった別所町の苺農家を営むNさんが、教えてくださった。
碑文は森本町の大峯北嶺講・講元のM氏が、33回の大峰山詣記念に建之したと話してくれた。
碑文の揮毫は当時の大峯官長の書であろうか。
また、隣村の中之庄町で水口まつりを撮らせていただいたTさんも先達が大峯登攀の33回記念に建てたと云っていた。
(H29. 5. 3 EOS40D撮影)