室生小原八幡神社上笠間在住の松本宮司が兼務する地域は染田、無山・多田・小原・毛原・深野・上笠間・下笠間に青葉。
今朝は、はじめに上笠間。
終わりに小原の7地域に出仕していた。
11月3日のこの日の私は忙し、駆けずり回る一日だった。
朝に自宅を出発し、午前11時半まで滞在していた京都府精華町北稲八間・武内神社のコロナ禍の秋の大祭の取材。
奈良入り前に見た京都・山城町上狛のハザカケ。
そして走った奈良県内入り。
奈良市の川上町から須川を経て誓多林町に茗荷町。
峠越えを繰り返す山行きロード。
上杣ノ川町から旧都祁馬場を経て白石町。
東の街道にハンドルをきり、宇陀市の旧室生、多田、染田を経て小原入り。
到着した時間帯は午後2時半。
午後3時から秋の大祭が行われるが、コロナ禍に決断し大祭は、各集落とも行事のすべてが神事のみに・・
小原の大祭は神輿巡行しないため、宮司他総代、当屋たちがともに榊・ヒモロギを手にして集落を巡っていたそうだ。
西日が差し込み、参拝者の影が長くなった午後3時。
はじめに太鼓が打たれる。
社殿下の境内に拡がる参拝者が首を垂れる。
宮司は祓社に移動して祓の詞。
そして氏子たち全員に祓われる。
本殿に移り、祝詞を奏上された神事はおよそ20分。
神事を終え、これよりはじめられる儀式は当屋の座。
この日まで一年間の当屋の任に就いた人たちは、次の一年を受け継ぐあたらしき任に就く受け当屋たち。
本来の儀式を簡略化した当屋の座渡しの儀に移る。
昨年同様、当屋の座渡しの儀は手締め。
「祝ぉうてシャンシャン 打ーちましょ シャン」に手拍子が1回。
「もひとつ シャン シャン」の手拍子が2回。
「祝ぉうて シャン シャン シャン」に手拍子は3回。
一本締めでなく、三々七拍子でもない“大阪手締め”の作法である。
コロナ禍の当屋渡しに、酒盃の儀はできない。
2カ月前の9月に決めた当屋の座渡しの儀であった。
平成19年の11月3日に拝見していた座渡しの儀は、酒を飲み廻す儀式をされていたが、コロナ禍では認めがたい。
詳しくは、当時取材していたブログ記事を参照していただきたい。
こうして秋の大祭は、短時間で終え、氏子たちは解散された。
この日の参集に、当時お世話になった大工棟梁と出会えた。
83歳になられたTさんは、今も現役の棟梁。
小原の八幡神社の宮大工。
60年前は社務所。
40年前は拝殿を。
20年前が、初の仕事の塗りを担ってきた。
ベンガラ塗りは難しい。
塗る部分のすべての汚れを落として綺麗にしないと、せっかくの色調合も台無しになるだけに、相当な気を遣って完成した。
是非とも、正面から見る塗りを見て欲しい、と云われて祭礼中に撮っておいた。
大当屋を務めた最後の日、当屋渡しを終えてほっとされた昭和17年生まれのOさんが、話してくれた。
今週末の亥の子座に、かつては青豆を曳いてくるみを作っていたそうだ。
そのくるみは、棟梁のTさんも、同じ証言。
ともに体験していた亥の子座のくるみ。
現在は、猪が荒らすから、大豆の栽培はしなくなった。
そんなことで、この亥の子のくるみ餅は、今では白餅。
当時の亥の子座。
月に「亥」が2回ある場合は、初めの「亥」の日に。
3回の場合は、中の2番目が亥の子座行事の日だった、と話してくれた。
また、今年の極楽寺の拾夜は、14日に予定されていた。
その日の午後2時からは、八幡神社のゾーク(※造営事業)のリハーサルがある。
そして、21日の午前9時に行う、と聞いていた令和3年度事業のゾーク(※造営式典)」は。私の都合で拝見できなかった。
20年に一度、行われる八幡神社のゾーク(※造営事業)。
次回は、20年後。取材するには、年齢的に間にあわないだろうな。
(R3.11. 3 SB805SH/EOS7D 撮影)
今朝は、はじめに上笠間。
終わりに小原の7地域に出仕していた。
11月3日のこの日の私は忙し、駆けずり回る一日だった。
朝に自宅を出発し、午前11時半まで滞在していた京都府精華町北稲八間・武内神社のコロナ禍の秋の大祭の取材。
奈良入り前に見た京都・山城町上狛のハザカケ。
そして走った奈良県内入り。
奈良市の川上町から須川を経て誓多林町に茗荷町。
峠越えを繰り返す山行きロード。
上杣ノ川町から旧都祁馬場を経て白石町。
東の街道にハンドルをきり、宇陀市の旧室生、多田、染田を経て小原入り。
到着した時間帯は午後2時半。
午後3時から秋の大祭が行われるが、コロナ禍に決断し大祭は、各集落とも行事のすべてが神事のみに・・
小原の大祭は神輿巡行しないため、宮司他総代、当屋たちがともに榊・ヒモロギを手にして集落を巡っていたそうだ。
西日が差し込み、参拝者の影が長くなった午後3時。
はじめに太鼓が打たれる。
社殿下の境内に拡がる参拝者が首を垂れる。
宮司は祓社に移動して祓の詞。
そして氏子たち全員に祓われる。
本殿に移り、祝詞を奏上された神事はおよそ20分。
神事を終え、これよりはじめられる儀式は当屋の座。
この日まで一年間の当屋の任に就いた人たちは、次の一年を受け継ぐあたらしき任に就く受け当屋たち。
本来の儀式を簡略化した当屋の座渡しの儀に移る。
昨年同様、当屋の座渡しの儀は手締め。
「祝ぉうてシャンシャン 打ーちましょ シャン」に手拍子が1回。
「もひとつ シャン シャン」の手拍子が2回。
「祝ぉうて シャン シャン シャン」に手拍子は3回。
一本締めでなく、三々七拍子でもない“大阪手締め”の作法である。
コロナ禍の当屋渡しに、酒盃の儀はできない。
2カ月前の9月に決めた当屋の座渡しの儀であった。
平成19年の11月3日に拝見していた座渡しの儀は、酒を飲み廻す儀式をされていたが、コロナ禍では認めがたい。
詳しくは、当時取材していたブログ記事を参照していただきたい。
こうして秋の大祭は、短時間で終え、氏子たちは解散された。
この日の参集に、当時お世話になった大工棟梁と出会えた。
83歳になられたTさんは、今も現役の棟梁。
小原の八幡神社の宮大工。
60年前は社務所。
40年前は拝殿を。
20年前が、初の仕事の塗りを担ってきた。
ベンガラ塗りは難しい。
塗る部分のすべての汚れを落として綺麗にしないと、せっかくの色調合も台無しになるだけに、相当な気を遣って完成した。
是非とも、正面から見る塗りを見て欲しい、と云われて祭礼中に撮っておいた。
大当屋を務めた最後の日、当屋渡しを終えてほっとされた昭和17年生まれのOさんが、話してくれた。
今週末の亥の子座に、かつては青豆を曳いてくるみを作っていたそうだ。
そのくるみは、棟梁のTさんも、同じ証言。
ともに体験していた亥の子座のくるみ。
現在は、猪が荒らすから、大豆の栽培はしなくなった。
そんなことで、この亥の子のくるみ餅は、今では白餅。
当時の亥の子座。
月に「亥」が2回ある場合は、初めの「亥」の日に。
3回の場合は、中の2番目が亥の子座行事の日だった、と話してくれた。
また、今年の極楽寺の拾夜は、14日に予定されていた。
その日の午後2時からは、八幡神社のゾーク(※造営事業)のリハーサルがある。
そして、21日の午前9時に行う、と聞いていた令和3年度事業のゾーク(※造営式典)」は。私の都合で拝見できなかった。
20年に一度、行われる八幡神社のゾーク(※造営事業)。
次回は、20年後。取材するには、年齢的に間にあわないだろうな。
(R3.11. 3 SB805SH/EOS7D 撮影)