4日前に斎行された宇陀市室生の小原八幡神社。
当屋の座渡しを滞りなく終え、受け当屋に引き継ぎされた。
当屋渡しを終え、ほっとされた昭和17年生まれのOさんがいった「今週末の亥の子座行事。かつては青豆曳いてくるみを作っていた」と。
そのことは、83歳も今なお現棟梁のTさん、もそうだった、と相槌。
現在は、猪が荒らすから豆は栽培しなくなった。
主役の亥の子のくるみ餅は、つくることもできずに、今は白餅に替えた。
かつては、当月に「亥」が2回ある場合は初めの亥に、3回の場合は中の2番目が亥の子座行事の日だった。
さて、亥の子座に松本隆宮司が兼務する多田は、土曜日の昨日。
6日が宵宮に、本日7日が秋大祭だった。
その多田の祭りを終え、小原の行事は神事のみ。
氏子たちの参集。亥の子座神事のはじまりに太鼓打ち。
祓えの儀、祝詞奏上などの神事を終えて再び太鼓打ちで終えた。
年齢が70歳くらいの人たちの話によれば、子供のころであるが、そのころは青豆を石臼で挽いて、すり潰した”ずんだ“(※ずんだ餅)のような”くるみ“(※餅に挽いた大豆に砂糖をまぶした餡、餅を包むようにくるんだことからくるみの名がついた)を餅に塗して食べていたそうだ。
ここで話してくれた”ずんだ“餅とは、宮城県の郷土料理。
昨今はテレビ番組で紹介されることが多く、東北の郷土料理のカタチ。
”ずんだ“文化が広く知れ渡る時代に、”ずんだ“餅も一般的に浸透したのであろう。
ただ、”ずんだ“のようなカタチの亥の子のくるみ餅は、神社行事に供えた記憶がない、という。
そう、近隣、例えば下笠間でも同じように、神社に献供するのではなく、お家でつくり、亥の日に食べていたものだ。
ところがだ。小原の亥の子座神事に唱えた祝詞に「いのこの餅をあまねく・・氏子にささげ・・心おだやかに・・いや栄に・・まつられ・・かしこみ申す」と聞こえていた。
なるほど、と思える亥の子座神事の祝詞。
松本宮司の話によれば、かつて亥の日の行事は多産系の猪、亥の子は子だくさん、五穀豊穣に祈念する行事であったろう、と・・・
行事を終えた数週間後。
11月22日に発刊された産経新聞に月一連載していた㈱虎屋の執筆による記事があった。
『季節の和菓子に、11月は亥の子餅』
「旧暦十月(※亥の月)の亥の日には、無病息災、子孫繁栄を願って、亥の子餅を食べる行事があり、亥の子の祝、玄猪(※げんちょ)、厳重(※げんじゅう)などと呼ばれた。 『源氏物語』に亥の子餅の名が見られるように、歴史は古く、平安時代には行われていた行事。 江戸時代には、宮中や幕府のほか、民間にも広まった行事。 特に幕府では盛んであり、初亥の日に大かがり火が夜中までたかれ、将軍から亥の子餅を賜るため、諸大名が江戸城に登城した。 農村は、収穫儀礼に結びつき、亥の子餅をつくって収穫を祝った。 子どもたちが地面を藁や石でたたく“亥の子突き”行事もある。 猪は、火伏の神、京都愛宕神社の使いとも知られ、この日から火鉢や炬燵を出す習わしもあったようだ」 (※若干補正・補完した)
(R3.11. 7 SB805SH/EOS7D 撮影)
当屋の座渡しを滞りなく終え、受け当屋に引き継ぎされた。
当屋渡しを終え、ほっとされた昭和17年生まれのOさんがいった「今週末の亥の子座行事。かつては青豆曳いてくるみを作っていた」と。
そのことは、83歳も今なお現棟梁のTさん、もそうだった、と相槌。
現在は、猪が荒らすから豆は栽培しなくなった。
主役の亥の子のくるみ餅は、つくることもできずに、今は白餅に替えた。
かつては、当月に「亥」が2回ある場合は初めの亥に、3回の場合は中の2番目が亥の子座行事の日だった。
さて、亥の子座に松本隆宮司が兼務する多田は、土曜日の昨日。
6日が宵宮に、本日7日が秋大祭だった。
その多田の祭りを終え、小原の行事は神事のみ。
氏子たちの参集。亥の子座神事のはじまりに太鼓打ち。
祓えの儀、祝詞奏上などの神事を終えて再び太鼓打ちで終えた。
年齢が70歳くらいの人たちの話によれば、子供のころであるが、そのころは青豆を石臼で挽いて、すり潰した”ずんだ“(※ずんだ餅)のような”くるみ“(※餅に挽いた大豆に砂糖をまぶした餡、餅を包むようにくるんだことからくるみの名がついた)を餅に塗して食べていたそうだ。
ここで話してくれた”ずんだ“餅とは、宮城県の郷土料理。
昨今はテレビ番組で紹介されることが多く、東北の郷土料理のカタチ。
”ずんだ“文化が広く知れ渡る時代に、”ずんだ“餅も一般的に浸透したのであろう。
ただ、”ずんだ“のようなカタチの亥の子のくるみ餅は、神社行事に供えた記憶がない、という。
そう、近隣、例えば下笠間でも同じように、神社に献供するのではなく、お家でつくり、亥の日に食べていたものだ。
ところがだ。小原の亥の子座神事に唱えた祝詞に「いのこの餅をあまねく・・氏子にささげ・・心おだやかに・・いや栄に・・まつられ・・かしこみ申す」と聞こえていた。
なるほど、と思える亥の子座神事の祝詞。
松本宮司の話によれば、かつて亥の日の行事は多産系の猪、亥の子は子だくさん、五穀豊穣に祈念する行事であったろう、と・・・
行事を終えた数週間後。
11月22日に発刊された産経新聞に月一連載していた㈱虎屋の執筆による記事があった。
『季節の和菓子に、11月は亥の子餅』
「旧暦十月(※亥の月)の亥の日には、無病息災、子孫繁栄を願って、亥の子餅を食べる行事があり、亥の子の祝、玄猪(※げんちょ)、厳重(※げんじゅう)などと呼ばれた。 『源氏物語』に亥の子餅の名が見られるように、歴史は古く、平安時代には行われていた行事。 江戸時代には、宮中や幕府のほか、民間にも広まった行事。 特に幕府では盛んであり、初亥の日に大かがり火が夜中までたかれ、将軍から亥の子餅を賜るため、諸大名が江戸城に登城した。 農村は、収穫儀礼に結びつき、亥の子餅をつくって収穫を祝った。 子どもたちが地面を藁や石でたたく“亥の子突き”行事もある。 猪は、火伏の神、京都愛宕神社の使いとも知られ、この日から火鉢や炬燵を出す習わしもあったようだ」 (※若干補正・補完した)
(R3.11. 7 SB805SH/EOS7D 撮影)