2年前までのお旅所は当家の前庭だった。
負担を避けて経費の上限を決めた奈良市丹生町の秋祭り。
お旅所の場はふれあい会館に移すことにしたという丹生神社の祭り。
かつての祭りは10月15日、16日だったが、現在は16日に近い土、日曜。
宵宮の前日までに注連縄を張りかえる。
縄を結うのは高齢者たち。
紅白のモチもこしらえた。
手の掛かる部分は今でもこうしていると話す氏子。
若い人に継いでいきたいと云う。
宵宮は籠りの夜。
ひとときの夜を過ごすのは家から持ちこんだ布団。
何人もの人が泊られるようだ。
籠りと称していても泊りを止めた地域が多い。
東山間ではこのように布団を持ち込んで今尚籠りをしている。
隣村の水間町や山添村の的野で拝見したことがある。
夜も19時になれば子供たちもやってきた。
賑わいが増してくる丹生町の夜更け。
炊き出しに煮込まれたおでんに心が温もる。
おでんは神さんと共によばれる神振りで実行委員会が奉仕する。
村を巡行する子供御輿が置かれた丹生神社の境内。
曳行するのが楽しみだとFさん一家も勢ぞろい。
イッショウモチ背負いのハツタンジョウやイタダキの膳に三日地蔵などの家の行事を取材させていただいたご家族だ。
初誕生の祝いを受けた子供も大きくなった。
家族に今年も一子が誕生した。
子守に忙しいからと両親は家で待機しているという。
それはともかく宵宮の神事が始まった丹生神社。
宵宮に参集した当家と渡行人(とぎょうにん)は19時に入斎する。
侍烏帽子を被って黒色の素襖姿の着替えた渡行人が並ぶ。
9月1日に執行される八朔祭のフリアゲによって神意が下った7人だ。
神事を終えた一行は田楽舞いを演じる舞殿に登る。
8年前は茅葺きだった舞殿は建て替えられて総ヒノキ造り。
四方で支える構造は開放的で、神さんに見てもらう舞台空間である。
登壇すれば時計回りに一行が周回する。
先頭は大御幣を持つ氏子総代長。
宮司、紺色のソウ(素襖)を着用する当家に続いて渡行人。
ジャラジャラとも呼ぶササラ、鼓、二人の太鼓に三人の横笛役は年齢順で役目が決まっている。
そうして始まった田楽舞は丹生の里人たちが見守るなかで行われる。
舞台中央に登場したササラ役。
ジャラジャラをそうっと置いて立てる。
そして扇子で扇ぐ大きな仕草の作法。
その間に奏でる鼓と太鼓の音色。
ピュー、ピュー、ドン、ドン、ドンと囃子たてる。
右回りに一周して拝礼する。
再び煽いで回る所作はもう一回繰り返して三回廻った。
その作法の際には渡行人たちがササラ役のお尻を押しだしたりして所作の邪魔をする。
舞台床をドンドンさせて立てたササラを倒す。
これは遊びでもなくいじりでもない。
舞いの所作のあり方なのである。
笑いが溢れるなかのササラ役の田楽舞は立てたジャラジャラを前にして右、左、右に横へ跳ぶ。
廻りの作法は三度跳んで一周する三角跳び及び横跳びを総称して丹生町では「横跳び」と称する。
扇を両手で挟んで一礼すれば次の演者に移った。
同じように拝礼して所作をするが中央に立てて置くのは鼓。
ササラと同じように三角跳びで一周する。
この際にも邪魔が入る。
鼓を蹴飛ばすのである。
稲に見立てた楽器を蹴飛ばす、或いは演者のお尻を押しだすのも一連の作法。
扇で楽器を煽ぐのは大風の表現。
育った稲が大風に吹かれる様相を表しているという。
風雨に耐えて稲はすくすくと立派に育つありさまは豊作願いの所作。
神さんとともに祭りを楽しんでいるとも云う。
3人目は太鼓役の登場。
同様に田楽舞の所作を演じた一行は登壇した際と同じように一団となって舞殿を右に周回する。
宵宮ではこのあとにスモウが演じられる。
扇を持つ行事役と二人の力士が舞台に立った。
呼出があったかどうか記憶がないが取り組みが始まった。
「のこった のこった」と行司の台詞も覚えていないが大相撲の取り組み。
舞台の土俵で右や左に寄る力士。
技がかかって上手投げ。
見ていた村の観衆も拍手喝さい。
行司が勝ち伝えてスモウを終える。
実はスモウの勝ち負けは予め決められている。
力士は演者。勝負の取り組みを面白おかしく真剣に演じる。
神さんに喜んでもらう所作なのである。
宵宮の田楽舞いを終えた渡行人は社務所で籠って一泊。
翌日の朝は神社に備え付けのお風呂で入浴する。
身を清める禊の入浴は年長者からの年齢順でつかる。
最後のほうになれば汚れも目立ってくると云う。
シラムシの斎食を済ませてから衣装を身につける。
そして本殿で例祭が行われる。
その後にお旅所に向かう渡行人たち。
2年前のお旅所は当家の前庭だった。
当家の接待を受けて会食する直会の場もふれあい会館に移った。
会食の数時間後には渡行人たちが出発する。
旧社のハチマン、モリヤマ、フルシロの3か所跡へ向かって遥拝しながら本社へお渡り。
横跳びの田楽神事を終えてお渡りを納める。
(H24.10.20 EOS40D撮影)
負担を避けて経費の上限を決めた奈良市丹生町の秋祭り。
お旅所の場はふれあい会館に移すことにしたという丹生神社の祭り。
かつての祭りは10月15日、16日だったが、現在は16日に近い土、日曜。
宵宮の前日までに注連縄を張りかえる。
縄を結うのは高齢者たち。
紅白のモチもこしらえた。
手の掛かる部分は今でもこうしていると話す氏子。
若い人に継いでいきたいと云う。
宵宮は籠りの夜。
ひとときの夜を過ごすのは家から持ちこんだ布団。
何人もの人が泊られるようだ。
籠りと称していても泊りを止めた地域が多い。
東山間ではこのように布団を持ち込んで今尚籠りをしている。
隣村の水間町や山添村の的野で拝見したことがある。
夜も19時になれば子供たちもやってきた。
賑わいが増してくる丹生町の夜更け。
炊き出しに煮込まれたおでんに心が温もる。
おでんは神さんと共によばれる神振りで実行委員会が奉仕する。
村を巡行する子供御輿が置かれた丹生神社の境内。
曳行するのが楽しみだとFさん一家も勢ぞろい。
イッショウモチ背負いのハツタンジョウやイタダキの膳に三日地蔵などの家の行事を取材させていただいたご家族だ。
初誕生の祝いを受けた子供も大きくなった。
家族に今年も一子が誕生した。
子守に忙しいからと両親は家で待機しているという。
それはともかく宵宮の神事が始まった丹生神社。
宵宮に参集した当家と渡行人(とぎょうにん)は19時に入斎する。
侍烏帽子を被って黒色の素襖姿の着替えた渡行人が並ぶ。
9月1日に執行される八朔祭のフリアゲによって神意が下った7人だ。
神事を終えた一行は田楽舞いを演じる舞殿に登る。
8年前は茅葺きだった舞殿は建て替えられて総ヒノキ造り。
四方で支える構造は開放的で、神さんに見てもらう舞台空間である。
登壇すれば時計回りに一行が周回する。
先頭は大御幣を持つ氏子総代長。
宮司、紺色のソウ(素襖)を着用する当家に続いて渡行人。
ジャラジャラとも呼ぶササラ、鼓、二人の太鼓に三人の横笛役は年齢順で役目が決まっている。
そうして始まった田楽舞は丹生の里人たちが見守るなかで行われる。
舞台中央に登場したササラ役。
ジャラジャラをそうっと置いて立てる。
そして扇子で扇ぐ大きな仕草の作法。
その間に奏でる鼓と太鼓の音色。
ピュー、ピュー、ドン、ドン、ドンと囃子たてる。
右回りに一周して拝礼する。
再び煽いで回る所作はもう一回繰り返して三回廻った。
その作法の際には渡行人たちがササラ役のお尻を押しだしたりして所作の邪魔をする。
舞台床をドンドンさせて立てたササラを倒す。
これは遊びでもなくいじりでもない。
舞いの所作のあり方なのである。
笑いが溢れるなかのササラ役の田楽舞は立てたジャラジャラを前にして右、左、右に横へ跳ぶ。
廻りの作法は三度跳んで一周する三角跳び及び横跳びを総称して丹生町では「横跳び」と称する。
扇を両手で挟んで一礼すれば次の演者に移った。
同じように拝礼して所作をするが中央に立てて置くのは鼓。
ササラと同じように三角跳びで一周する。
この際にも邪魔が入る。
鼓を蹴飛ばすのである。
稲に見立てた楽器を蹴飛ばす、或いは演者のお尻を押しだすのも一連の作法。
扇で楽器を煽ぐのは大風の表現。
育った稲が大風に吹かれる様相を表しているという。
風雨に耐えて稲はすくすくと立派に育つありさまは豊作願いの所作。
神さんとともに祭りを楽しんでいるとも云う。
3人目は太鼓役の登場。
同様に田楽舞の所作を演じた一行は登壇した際と同じように一団となって舞殿を右に周回する。
宵宮ではこのあとにスモウが演じられる。
扇を持つ行事役と二人の力士が舞台に立った。
呼出があったかどうか記憶がないが取り組みが始まった。
「のこった のこった」と行司の台詞も覚えていないが大相撲の取り組み。
舞台の土俵で右や左に寄る力士。
技がかかって上手投げ。
見ていた村の観衆も拍手喝さい。
行司が勝ち伝えてスモウを終える。
実はスモウの勝ち負けは予め決められている。
力士は演者。勝負の取り組みを面白おかしく真剣に演じる。
神さんに喜んでもらう所作なのである。
宵宮の田楽舞いを終えた渡行人は社務所で籠って一泊。
翌日の朝は神社に備え付けのお風呂で入浴する。
身を清める禊の入浴は年長者からの年齢順でつかる。
最後のほうになれば汚れも目立ってくると云う。
シラムシの斎食を済ませてから衣装を身につける。
そして本殿で例祭が行われる。
その後にお旅所に向かう渡行人たち。
2年前のお旅所は当家の前庭だった。
当家の接待を受けて会食する直会の場もふれあい会館に移った。
会食の数時間後には渡行人たちが出発する。
旧社のハチマン、モリヤマ、フルシロの3か所跡へ向かって遥拝しながら本社へお渡り。
横跳びの田楽神事を終えてお渡りを納める。
(H24.10.20 EOS40D撮影)