マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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長谷の植え初め

2013年09月10日 08時20分27秒 | 奈良市(東部)へ
天理市の山田町から福住町へ通り抜ける。

北へ向かう道中に出合った植え初めは奈良市の長谷町にあったウメゾメの姿。

おそらくTさんが挿したウエゾメの松苗にヤナギと幣だと思われるが、本人は居られず、判らずじまいだった。

そこから数百メートルも走れば畑作業をされていたN家に出合った。

Nさんの話しによれば長谷町ではいち早くされる農家は4月26日、27日辺り。

だいたいがゴールデンウイ-ク初めの5月3日にするそうだ。

(H25. 5.12 EOS40D撮影)

下山田の植え初め

2013年09月09日 07時49分28秒 | 天理市へ
昨年の5月13日、20日に拝見した天理市山田町の下山田地区と中山田地区の植え初め。

下山田では地蔵寺の正月のオコナイで祈祷された牛玉宝印は先を三つに割いたウルシ棒に挿してあった。

クリの木には水引で括ったフキダワラもあった。

カヤの葉をその辺りの田んぼに挿している本数は13本。

昨年は旧暦の閏年であったからその本数である。

同日に訪れた中山田地区でもほぼ同じ様相である。

3枚の幣と三つのフキダワラをぶらさげたクリの木である。

正月初めに行われた蔵輪寺のオコナイ。

祈祷されたウルシ棒もあった。

ゴールデンウイーク明けの日曜辺りだと伺っていた山田町の植え初め。

それを確かめたくて再訪したが、既に終わっていた。



畑で農作業をしていた下山田地区の広出垣内のT夫妻に尋ねた結果は5月3日の朝8時から行っていたと云う。

作付け品種はコシヒカリ。

婦人は昨年のうる十九夜さんでドウゲを務められたこともあり、一年前の取材話しに盛りあがった。

今年の正月に行われた広出地蔵寺の初十九夜さんも取材させてもらった。

このときのドウゲさんはTOさん。

畑からすぐ近くのお家だ。

話を伺えば昔はしていた植え初め。

カヤは12本で旧暦閏年は13本であった。

クリの木にフキダワラと白い幣をぶら下げていた。

そこにはイロバナのミツバツツジを添えていた。

ミツバツツジはコメツツジとも呼んでいた。

稲刈りを終えたときには作業していたカマを箕に置いてご飯をおました。

箕はハンドコ(半床)に置いた。

TOさんは都祁友田が出里。

隣村の相河(そうご)でも十九夜さんをしていたと話す。

初十九夜さんで聞きそびれた婦人手作りの福神漬け。

私が来るであろうと思って作り方レシピを用意してくださっていた。

ありがたいことである。

(H25. 5.12 EOS40D撮影)

竹之内町の苗代マツリ

2013年09月08日 07時59分17秒 | 天理市へ
兵庫町で苗代マツリを調査している際に出合ったご婦人は竹之内町の住民。

兵庫町で借りている畑で作物作り。

苗代に立てるイロバナは在所の竹之内町にもあると云う。

道路沿いに見かけた苗代のイロバナには同じような松苗もあるらしい。

「お札は」と問えば、それはなさそうである。

3か所ぐらい見かけた苗代のイロバナ飾りは米作りの農家の営み。

ほとんどがミカンやカキ農家だそうだ。

その話を聞いて伺った竹之内町は環濠集落で有名な旧村。

20年も前に立ち寄った際に拝見した大きな濠には花ショウブが咲き誇っていたことを思い出す。

集落を通り抜ける道はとても細い。

抜けることもできなくて迷ったことがある。

この日も同じことを繰り返す。

共同出荷場の前にあった公園。

山之辺の道を歩くハイカー向けに整備されたトイレが美しい。

その傍にあった苗代のイロバナには松の葉が添えてあった。

通りがかった男性に尋ねた結果は。

2月初旬に祭事された大字のマツリ。

十二神社の祈年祭に参拝した人だけが持ち帰ることのできる松苗だと云う。

この辺りの旧村は石上神宮の郷社になるのであろう。

祈年祭においては石上神宮の神官が豊作を願う祈年祭において松苗を祓ってくれるのだと話す。

そのありがたい松苗を苗代に立てる。

稲苗がすくすくと育つようにと願う苗代のマツリは農家の願い。

イロバナは家や付近に咲く花を添えるからまちまち。

決まりはないと云う。

かつてはその場に秋に花を咲かせるハギの木を曲げて挿したそうだ。

弓なりに曲げることから弓矢のようだと話す。

もしかとすればだが、祈年祭において弓打ち行事があったかも知れない。

男性は「他にもしている苗代がある」と教えてくださった集落外れの南に向かった。

そこにもあった松苗をイロバナ。

確かに花の種類は違う。

その場を見届けて集落を下ればそこにもあった苗代のイロバナ。

同じように松苗を立てている。

田主を探してみるが居ない。

その道を歩くうら若き女性に尋ねたが判らない。

苗代のマツリについて聞いた結果はおばあさんがしているというが奥の方だと云う。

そこへ行くにはまたもや迷ってしまう。

Ⅰさんが話していた以上に多くあると思われた竹之内の苗代マツリ。

集落東部山麓の明神谷に鎮座する十二神社の行事も併せて再訪したいと思った。

(H25. 5. 8 EOS40D撮影)

兵庫町の苗代マツリ

2013年09月07日 07時44分59秒 | 天理市へ
この年の2月に斎行された天理市兵庫町の行事に将軍祭がある。

村の年初行事の正式名称は初魂祭(しょこんさい)だ。

「初魂祭」が訛って「将軍祭」となったのか、それとも「将軍祭」が変化した「初魂祭」であるのか断定できない名称である。

行事の主役は鬼的を目がけて梅の木の弓を用いてススンボの矢を射る地区の区長。

天、地、東、西、南、北に1本ずつ矢を射る。

最後に鬼の的を目がけて矢を射る。

行事を終えれば素盞嗚神社に供えて祈祷したモチワラ製のチンマキ、「須佐之男命」の版木で刷ったお札を括りつけたネコヤナギ(この年はカワヤナギ)を持ち帰る農家の人たち。

農家の分も作った2本の矢も持ち帰る。

これらは苗代作りの時期まで家で祭っている。

5月のゴールデンウイークの頃に作る苗代に花を添えて立てるといっていた兵庫の住民。

その状況を拝見したくてやってきた。

だいたいがこの辺りだろうと目星をつけていた神社南側の苗代田。

弓打ちの儀式をした場辺りである。

探してみれば2か所にそれがあった。

寝かすように立てているものもあれば垂直にしているものもある。

既に数日が経過している兵庫町の苗代マツリ。

そこには2月10日に行われた大和神社の御田植祭でたばった松苗もある。

イロバナを添えて祭る豊作願いの代物である。

(H25. 5. 8 EOS40D撮影)

豊井町の苗代マツリ

2013年09月06日 07時55分38秒 | 天理市へ
5月4日に苗代を作ったという天理市豊井町住民のO氏。

すべてができあがれば水口に煎ったコメをフキの葉に乗せて祭った。

米を煎る道具はフライパンだそうだ。

この年の1月19日に行われた豊日神社のケッチン行事で祈祷された2本の松苗を立てて花を添える。

その作法については特に名はないと云う。

以前は自宅で咲いていたコデマリも添えていた。

花はそこらで咲いている春ものの花で構わないと云う。

朝からモミオトシをした苗箱は130枚。

6反の田で育てる稲の品種はヒノヒカリ。

奈良県の特産種である。

O家の苗代作りには寒冷紗を被せる。

風が通りやすく稲の育ちが見えてよく判る。

寒冷紗は荒らすネコやスズメ除けにもなるという。

スズメはモミを食べる。

ネコは田んぼのカエルを食べる。

大型のカラスもそうであると云う。

6月10日にもなれば田植えをする。

かつては6月20日頃であった。

近年は10日も早くなったと云う。

すべての田植えを終えれば自宅でソーメンを食べるが、何の意味があって食べるのかは伝承されていない。

そのような稲作りの風習を話してくれたO氏は小屋で堆肥を作っている。

自家製の堆肥である。

そのほうがJAで購入するよりも安くつく。

牛糞は安堵町の元博労家から1万円で買ってくる。

鶏糞は千円だ。

「なんぼでももって帰ってもらいたいぐらいだ」と云われる購入先。

どことも糞の処分に手を焼く牛糞、鶏糞は軽トラに積んで持ち帰った。

作業小屋で一旦は乾燥しているのかと思えば違った。

積みあげた糞は時間が経過すれば自然発酵する。

発熱温度が高くなれば火事になることもあるらしいから注意していると話す。

そうならないようにショベルカーで混ぜこぜして内部に空気を入れる。

手間がかかる作業である。

自家製の堆肥作りに煙突を埋め込んでいる。

発酵すれば発熱して煙が出るらしい。

(H25. 5. 8 EOS40D撮影)

番条町の苗代イロバナ

2013年09月05日 06時53分38秒 | 大和郡山市へ
昔からヨゴミダンゴを搗いて南のお大師さんに供えていると話す大和郡山市番条町住民のAさん。

嫁入りしたとき頃は石臼でしていた紛挽きは手間がかかる。

近年においては市内中央の城下町の小谷のモチ屋で挽いてもらっていた。

粉挽きはやはり自宅が良かろうと粉挽きの機械を買って挽いている。

最近のことである。

モチゴメ1に対してコメコは2の分量で3臼も搗く。

南の大師講は10数軒。

大師和讃に地蔵和讃、西国三十三番ご詠歌を講中の家で唱えている。

晩には炊いたイロメシご飯を食べていたが、現在はご詠歌だけになって、イロメシはお菓子とお茶になった。

中タイヤとアガリタイヤは亡くなった家でもうしていたが会葬は葬儀屋になったのでしなくなった。

タイヤは三日タイヤとか七日タイヤがあるが施主がそれを選ぶ。

薮大師・愛宕さんのローソクとぼし(灯し)は毎日交替で日が暮れるころにしている。

平成25年のお大師さんには150個のヨゴミダンゴで接待した。

普段は6升3臼だが今年は8升にした。

そのような話題を提供してくれたA家は5月1日に土入れ、2日にモミオトシをして350枚の苗箱を作った。

苗代ができたら水口に花を立てるが名称はない。

「イロバナはちょこんとだけ立てる」と話すAさん。

番条町は佐保川の水利用で吉野分水は利用していない。

数週間後の5月21日には苗代苗を保護していた覆いのホロを取った。

(H25. 5. 8 EOS40D撮影)

トライアルのミックルフライ弁当

2013年09月04日 06時52分17秒 | あれこれテイクアウト
この日も仕事を終えてからの民俗取材の探訪。

まずは昼食である。

先月開店した小泉店のトライアルスーパーへ急行する。

ここの弁当は250円からある。

「250」の数字から「ニコマル」の愛称で呼ばれている弁当類は宝来店でもお馴染みの格安弁当である。

「ニコマル」とはうまく言ったものだ。

「500」円なら「ゴジュウマル」、「870」なら「ハナマル」と呼ぶのだろうか・・。

それはともかく、前回はのり弁。

今回は多様な弁当から選ぶ「ニコマル」弁当にするか。

さんざん迷って選んだ弁当はミックスフライ弁当。

これものり弁同様の250円である。

実にお安い。

白身魚のフライはのり弁と同じであろう。

ミックスというだけに他はと言えばエビフライ。

これは二つもある。

味は濃い目でないタルタルソースはたっぷりある。

フライには十分とも思える下味がついていた。

ごはんも美味しいトライアルの弁当。

他のおかずは要らないぐらいだ。

(H25. 5. 8 SB932SH撮影)

山添のお月八日

2013年09月03日 08時00分31秒 | 山添村へ
山に出かけて伐りとったイロバナはヤマブキ、フジ、ヤマツツジ(ベニツツジとも)の三種。

黄色に薄紫色と朱色の三色だ。

この年もフジの花は少なかった。

高い場所に多く咲いているフジの花は手が届かない。

数本しか採取できなかった。

高枝を伐採すれば低いほうにも芽吹くらしく、今年から採取地を準備しておきたいと話すOさん。

十字の花を飾りつける竹も採ってきた。

昨年は高すぎたので短くしたという竹の長さは3m20cm。

青竹でなく、軽くなった枯れた1本の竹を伐り取って家に戻った。

早速始めたお月八日の花飾り作り。

汚れないようにシートを敷いた場に伐り取った竹の竿を置く。

今ではシートであるが、かつてはコモだった。

黄色い花をつけたヤマブキの枝を揃えて縦に置く。

その上から横方向にもヤマブキの枝を置く。

黄色いイロバナが三方に広がる。

ヤマツツジの枝も揃えて縦と横方向の三方に置く。

それから収穫されたフジの枝を置いた。

僅かな量であるから目立たないフジの花である。

竿竹から抜けないように紐で縛る。

強く縛らなければ花が落ちてしまうのでしっかりと括る。

横方向の花もしっかりと括ってできあがった。

バランスがとれた三方の花は美しく飾られた。

お月八日の花立てを家のカドに立てる。

蓆を敷いてカド干しをしていた前庭である。

いつもこうしているが立てるカドの場所は一定ではない。



この年は木製の支柱に結わえて括りつけた。

向きはこれでいいやろと云って調製する。



いつもの通りに記念写真を撮るご主人。

家の行事の記録をフイルムに納める。

男性の話によれば同じ大字住民の2軒がその風習をしていた。

一軒は竿竹やツツジ、フジの花が準備できていなかったことからその年はされなかった。

今年もされなかった風習をオツキヨウカと呼んでいた。

もう一軒は10年前までにカドで立てていたというT家。

フジやベニツツジの花を束ねて竹の先に十字に組んだ。

その頂点に括りつけたのは秋の収穫に使った稲刈りのカマだったと話す。

カマは立てるように括りつけた風習がなんのおまじないであるのか判らないという。



翌日の八日はそのままにしておいた竿竹の花飾りは九日に下ろすご主人。

かつては旧暦4月8日に花まつりが行われていた田原本町の伊与戸。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』でそれが紹介されている。

「オツキヨウカ」とも呼ばれていた日であった。

その日に天道花(てんとばな)を庭に立てていた写真が残されている。

数メートルもある長い竹竿の先には山に咲くツツジの枝葉を天頂に括りつけ、1足の草履を入れた竹カゴをぶら下げていた。

そのカゴには「何か良いモノが入る、或いは3本足のカエルが入る」と云われていたようだ。

「オツキヨウカ」は新暦の五月八日だったが、旧暦でいえば四月の卯月(ウヅキ)だ。

「ウヅキ」は「ウツキ」。

さらに訛って「オツキ」となったのであろう。

「ヨウカ」はまさしく「八日」だ。

天理市の二階堂辺りでもその風習があったとある。

川上村の高原では4月8日に行われている釈迦誕生祭を花まつり、或いは「オツキヨウカ」と呼んでいた。

その日のこと。各家では杉の木の先端に葉を付けた杉の木を立てた。

そこにヤマブキ、シャガ、ツツジ、ボタンなどの花を縛り付けるのは「オツキヨウカの習わし」だと云っていた。

平成20年の花まつりの際に聞いた話である。

杉の竿を高く立てると鼻の高い子が生まれるといって高さを競いあったという。

「風が家に当たるとあかん」と云ってその日の夕刻に降ろしていた。

翌日にはコイノボリを揚げなくてはならないことから、早くしまうようにという意味もあったという。

一軒、一軒と止めていって、10年前にはすべてが村から消えたオツキヨウカの風習はどこかコイノボリと似ている。(平成20年4月8日筆者聞き取り)

「5月8日はオツキヨウカだった。そのころは山にツツジが咲いている。太い真竹を切ってくる。10尺の長さの竹の先にツツジを取り付けて今年も豊作になるようと祈っていた。ツツジは3本。中央はすくっと立つツツジ。2本背中合わせのようにして縛った。先代の親父がしていたことは記憶にある」と語る旧都祁村藺生の男性T氏は、戦後の昭和30年代のころまでしていたという。

トラクターが田んぼを耕すようになって消えたそうだ。(平成22年4月29日筆者聞き取り)

都祁の南之庄に住む住民Mさんは「オツキミ」と呼んでいた。

ツツジの花が咲くころだったから春。

そのツツジを長い竹の竿の上に十字に縛って庭に立てた。

子供のころだったというから60年も前のことのようだが、「なんのことかわからん」なりに立てていたと話す。(平成24年5月27日筆者聞き取り)

奈良市別所町でも同じような風習を聞いた。

「春の日やった。先に十字にこしらえて花を付けた長い竿を立てた。そこに籠を取り付けていた」。三本足のアマガエルが入っておればめでたいことだったと話す高齢者のOさん。

実際には見たことがないが、入った家があったということを聞いたことがあるという。

それを「オツキオカ」と呼んでいた風習だが、長い竹竿の名はなかったそうだ。

別所町では一軒、一軒、ほとんどの家が揚げていたそうだ。

花を括って十字に縛るのは、今でもその仕方を覚えているそうだ。

19歳で兵隊いっていたときの頃の話というから、およそ70年も前のことの風習だった。

同村に住むO婦人も覚えており、同じく「オツキオカ」と呼んでいた。

「オツキオカ」はおそらく「オツキヨウカ」であろう。

「ヨウカ」が訛って「オカ」になったと考えられる。

春の日というのは4月の八日。

4月は、十二支を月で数えると、子、丑、寅、卯、辰、巳・・・。

つまり4月は卯月にあたる。

「卯月」は「ウツキ」。

それがなまって「オツキ」になった。

そうして呼ばれた別所の風習名称は「オツキオカ」となったのであろう。(平成24年7月8日筆者聞き取り)

奈良市の長谷町でもあったと伝わる。

竹竿の先に紅ツツジ、藤、山吹などを十文字に、その下にも一束くくりつけ、さらにその下に小籠も吊して、花や三本足の蛙が入っていると吉だという。(平成24年9月2日筆者聞き取り)

各地の伝聞、或いは実体験は、かつて奈良県内各地で見られた「天道花(テンドウバナ)」の風習だと思われる。



大和タイムズ社が昭和34年に発刊した『大和の民俗』の中に「四月八日」の項で記されている「ウヅきヨウカ」。

奈良県高市郡では八日花と呼んでお月さんに届くぐらい高く揚げた。

ワラジを吊るして脚気のまじないにしていた。

吉野郡では「オツキヨウカ」は訛って「ウキョウカ」。

下田村史には「オツキ八日、花よりダンゴ」と云って、7日の夕方にモチツツジとダンゴ花を竹竿に付けて立てた、とある。

高く揚げると次に子供ができたときは鼻が高くなる、或いは虫がつかぬとあるそうだ。

二上村史にも同様の記事があり、新しい竹にモチツツジの花とホソの実を高く括りつけてお月さんに供える。

宇陀郡では上のほうを十字にして三方にさまざまな花を飾ったそうだ。

カゴをぶら下げた一本と花付けの一本の二本を立てる。

長いほうが月で、短いほうは星に供えた。

天から下りてくる三本足のカエルが、このカゴに入ったら幸福がくると信じられていた。

大柳生村史によれば竹や丸太を組んで立てていた。

レンゲツツジなどの八日花や茶の花を飾って一晩立てた。

翌日に三本足のアマガエルが入っておれば福がくるという。

昭和63年に発刊された『楢町史』記載の春の行事に「アマチャのまつり」がある。

四月八日はお釈迦さんの誕生日。

興願寺へ甘茶をもらいに行ったその日のことだ。

「お月八日」と云ってダンゴを搗く。

ツツジの花などを竿の先に十文字に括りつけて庭先に立てる。

「シングリ」を括りつけておいた竿は「おつき八日花たばり九日」と云って九日には立てていた花飾りの竿を倒して屋根に放り揚げた。行方不明の人がでたときは、この花を焼けば煙がなびく方向に居る」とある。

こうした「オツキヨウカ」の「テントバナ」の風習は和歌山有田や兵庫県、大阪和泉もあったというからそうとう広範囲に伝播していたのであろう。

(H25. 5. 7 EOS40D撮影)

山添切幡のウエゾメ

2013年09月01日 19時40分10秒 | 山添村へ
大安などの良い日を選んで田植えを始めると話していた山添切幡の住民。

T家ではウメゾメ(植え初め)にはススキのカヤを12本。

田んぼに挿すと云う。

旧暦の閏年は13本にするウエゾメの儀式には股になったクリの枝木を3本、フキダワラも三つ供える。

フキダワラの中にはマメとコメを入れると話すご主人。

かつてはウエゾメをするとともにナリバナのモチを煎って食べたそうだ。

この年のウエゾメは朝6時に始めたと云う。

その年、その年によって田植え初めの日にちや時間帯は都合で変化する。

旧暦の閏年には13本挿すというカヤススキは月の数。



例年なら12本となるカヤススキの本数は一年の月数である。

旧暦の閏年の月数は大の月と小の月を組み合わせた旧暦法である。

それは明治時代に移るまでの考え方。

新暦になった現在でも13という数値がみられる旧暦の習わしは江戸時代からも続く考え方である。

フキダワラは作付け一石につき1本。

二十石であれば20本も作るが、ウエゾメに供える数は3本だ。

一石で一反の面積であるから二十石であれば二十反だ。

ウエゾメをする場所も変化する。

豊作を願うアキの方角に祭るウエゾメは今年が南南東にしたと話す。

数粒のコメとマメを入れて作ったフキダワラを多く作るT家では家の竃やエビスさん、三宝さんなどに供える。

送迎の仕事を終えてやってきた切幡のウエゾメはこうしてしていたと再現してくれたTさん。





上のほうの田んぼでしていたと話す。

作付けした稲の品種はコシヒカリ。

半日かけてようやく終えた孫は田植え機に乗って下ってきた。

ひ孫も手伝うT家の田植え作業。

奈良で名高い三輪素麺を委託製造しているT家は四世帯で同居する。

近年、珍しくなった大世帯家族である。

そういう家族であるゆえ作業を手伝うことには苦にならない孫、ひ孫は逞しく育った。

次の田植えはココノエモチの呼ばれる品種のモチゴメである。

コメの品種が替るので田植え機は放水ホースで流して美しく洗浄する。

苗代で育てた苗箱を運ぶ鉄製の道具がある。

二枚の苗箱を両方からがっちりと支える道具の名は「キョウリツ」。

共立なのか、それとも橋立なのであろうかと思えば違った。

奈良市の大原農機が製作した「キョウリツ」は片手で二枚の苗箱をたやすく運ぶ道具である。



軽トラに積みこんで運び、田植え機に一枚、一枚載せる。

田植え機はあまり見られない形である。

大型車輪で移動する姿はユニークで、メカニカルな動きのように見えた。

苗箱の大きさは田植え機にぴったりはまる。

サイズが一致している寸法の規格品であるから、他のメーカーの田植え機では使えないと話す孫さん。

その四条植えの田植え機には「共立」のプレートがある。

どうやら苗運び道具の名が「共立」であったのだ。

積む位置も異なる大原農機の田植え機。

他のメーカーであれば前が乗車席で後方が苗箱である。

ところが大原農機の田植え機は前方に肥料入れと苗箱を納める形式になっている。

他のメーカーであれば後方から田植えをする様子が判るが、大原農機製は乗車席の前の機械内部の中央辺りである。



そのような機械であれば田植えの様子は見えないのである。

T家の田んぼは一町田。

十反で一町の面積であるから十石の石高である。

山間であるが、それほど広い田植え作業は2、3日もかかると云う。

すべてを終えればウエジマイ(植え終い)をする。

三輪素麺組合に加入して製造している昭和52年に創業した素麺作りが本業。

せっつかれるが余裕をもって進めたいと話していた。

取材のお礼に訪れた7月末。

取材時に失念していた辰巳製麺所のソーメンをわけてもらった。



20束で1000円というお買い得のソーメンには「三輪神社の鳥居」マークに「手延」べを示す束止めがある。

(H25. 5. 6 EOS40D撮影)
(H25. 7.28 SB932SH撮影)