ハゲッショの日には御湯神事が行われると知って地域を探す。
始めて訪問する地はどこであるのか、事前に下見をしておかなければならない。
平群町西宮からはそれほど遠くない信貴南畑は信貴山麓下にある。
集落を東西に抜ける街道は旧道。
その上にある道は信貴生駒スカイライン。
近畿日本鉄道所有の有料道路である。
大阪高安山~信貴山門駅間は戦前にあった信貴山急行電鉄の廃線跡地を道路に転用した。
昭和33年に阪奈道路登山口-生駒山山上駐車場が開通し、その後の昭和39年に同駐車場から信貴山駐車場が開通した。
街道を歩いて探す素盞嗚尊神社。
それらしき表示が見当たらないが、「南畑歌舞伎一座」の説明板書が目に入った。
平成11年3月に三郷町教育委員会が立てた板書である。
その板書によれば、「明治20年の頃の信貴南畑には「日出座」と呼ばれる歌舞伎一座があった。地元の人たちは南畑歌舞伎と呼んで親しまれていた一座の座長は慶應生まれの鶴沢三枝。地元青年に歌舞伎を教えて一座を結成した。法隆寺、田原本に生駒山を越えた大阪においても公演していた」とある。
「道頓堀では「日出座」の幟がなびいた」そうだ。
その場には鶴沢三枝が63歳になった祝いに門弟たちが明治34年10月に建之した碑がある。
戦後の昭和23年には南畑青年団が芝居を復活して「修善寺物語」をしたと伝わる。
村歌舞伎があった信貴南畑の民俗を知るのである。
その前の民家にあった石造仏は弘法大師であろう。
垣根辺りに安置された弘法大師は家屋敷の外にある。
昨年3月に訪れた生駒市高山町大北地区のお大師さんを思い起こすソトマツリのお大師さんである。
その辺りから西に向かえば表示があった禅入寺。
もしかとすればその近くにあると思われた盞嗚尊神社を目指して急な道を登っていく。小字でいえば竹ノ坂である。
禅入寺からさらに奥へ登ればあったのだが、付近には村人の姿は見られない。
(H25. 7. 1 SB932SH撮影)
始めて訪問する地はどこであるのか、事前に下見をしておかなければならない。
平群町西宮からはそれほど遠くない信貴南畑は信貴山麓下にある。
集落を東西に抜ける街道は旧道。
その上にある道は信貴生駒スカイライン。
近畿日本鉄道所有の有料道路である。
大阪高安山~信貴山門駅間は戦前にあった信貴山急行電鉄の廃線跡地を道路に転用した。
昭和33年に阪奈道路登山口-生駒山山上駐車場が開通し、その後の昭和39年に同駐車場から信貴山駐車場が開通した。
街道を歩いて探す素盞嗚尊神社。
それらしき表示が見当たらないが、「南畑歌舞伎一座」の説明板書が目に入った。
平成11年3月に三郷町教育委員会が立てた板書である。
その板書によれば、「明治20年の頃の信貴南畑には「日出座」と呼ばれる歌舞伎一座があった。地元の人たちは南畑歌舞伎と呼んで親しまれていた一座の座長は慶應生まれの鶴沢三枝。地元青年に歌舞伎を教えて一座を結成した。法隆寺、田原本に生駒山を越えた大阪においても公演していた」とある。
「道頓堀では「日出座」の幟がなびいた」そうだ。
その場には鶴沢三枝が63歳になった祝いに門弟たちが明治34年10月に建之した碑がある。
戦後の昭和23年には南畑青年団が芝居を復活して「修善寺物語」をしたと伝わる。
村歌舞伎があった信貴南畑の民俗を知るのである。
その前の民家にあった石造仏は弘法大師であろう。
垣根辺りに安置された弘法大師は家屋敷の外にある。
昨年3月に訪れた生駒市高山町大北地区のお大師さんを思い起こすソトマツリのお大師さんである。
その辺りから西に向かえば表示があった禅入寺。
もしかとすればその近くにあると思われた盞嗚尊神社を目指して急な道を登っていく。小字でいえば竹ノ坂である。
禅入寺からさらに奥へ登ればあったのだが、付近には村人の姿は見られない。
(H25. 7. 1 SB932SH撮影)