桜井市の山間ではツクツクボウシが鳴き始めた。
夏の盛りの日中の暑さは厳しいが、朝・晩は涼しくなった。
山間では特にそう感じる温度差は4度も低い。
ミーン、ミーンと鳴くミンミンゼミも鳴く。
夏の音を聞きながら、訪れた萱森は春の彼岸の際にも取材した地である。
彼岸の結願日と同様にお盆のときも鉦を打って念仏を唱えるカンカラカンの六斎衆は都合で全員が揃わない。
半数の3人になったが、お盆のお勤め念仏に変わりない。
昨年までは朝から村人のためのトーバツキ(塔婆書き)をしていた。
今年は前もって所縁のある都祁白石の興善寺のご住職に書いてもらったトーバツキ。
そうしたこともあって始める時間は2時間も遅らせた。
念仏を唱えていた導師が亡くなられた前に吹きこんだカセットテープが奏でる念仏に合わして六斎鉦を叩く。
萱森ではカンカラカンと呼んでいる六斎念仏は掛軸・板額などの史料から推定するに始まりは文政三年であった。
始まりも、今でも講員が所有する六斎鉦は六枚。
講員数は隠居、引退をもって鉦を引き継ぐ。
六枚ある中で、一枚だけに刻印された文字は「和式上郡萱森村 長福寺 西村左近宗春作」だった。
念仏を唱える会所は、木造一刀彫の薬師如来座像である。
脇侍に日光菩薩・月光菩薩立像を安置する旧集福寺。
本尊を安置する仏間には、「奉 再建立薬師堂 世話人 文政五年午歳(1822)七月二日 集福寺」と墨書された板額がある。
集福寺は薬師堂(現在は会所)として再建された記録である。
集福寺はかつて真言宗であったが、改宗されて都祁白石の興善寺の傘下になった。
その二年前に六斎念仏講を結成したと伝わる。
そういった史料から推定するに、六斎鉦の刻印は誤印されたものと考えられる。
六斎鉦は六枚で打つ講員も六人。
それをもって六斎衆と呼んでいる。
始めに融通念仏・・・を唱えて、観経文、そして「なむあみだぶー なむあみだぶー」。
カセットテープでは鉦を打つタイミングをとるのは難しい。
なんとか合わせて打つ六斎鉦である。
萱森の六斎念仏の詞章は「しへん」、「らんがい」、「はむあみ」、「なむつ」、「だいだい」、「はむつ」、「はい」、「たか」、「ひとことわり」、「ばんど」が残されている。
節目の間もなく続ける念仏は、拝聴していても判り難い。
「願似此 功徳 平等施 一切同 発菩提心 応生 安楽国」に続いて、「願わくは 此の功徳を以って普く一切に及ぼし 我等を衆生と皆共に仏道を成ぜん事を」と誓願文を唱えておえた。
最後は連打の鉦で締めること、およそ15分間であった。

それからしばらくしてから永代供養の塔婆を捧げて菩提を捧げる。
萱森村中、一軒、一軒の塔婆を取りあげて詠みあげる。
午後ともなれば永代供養をした塔婆を各戸に配る萱森のお盆行事。
『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、かつては盆棚を飾る各戸を回って六斎念仏を唱えていたそうだ。
また、五来重の報告によれば、15日の夜には新仏の家の弔いに棚参りもしていたようだ。
当時の様相を子供の頃に見ていた講員が話すに、六人衆は3人ずつ二組に分かれて参っていたそうだ。
およそ55年前であった講員の記憶の話し。
平成元年ころまでは家で葬儀をしていた。
その際のことである。
葬儀の家で六斎念仏をした後は、ツチバカと呼ばれる墓地の六地蔵の前でも鉦を叩いていたという。
葬儀はお住っさんが法要をしていた。
その合間に六斎念仏を唱えていた。
夏は暑いから家人が団扇で煽いでいてくれた。
法要していた住職は「ややこしいから後にしてくれ」と云われたらしい。
その件知る講員の記憶では17年前が最後だったと思いだされた。
(H25. 8.14 EOS40D撮影)
夏の盛りの日中の暑さは厳しいが、朝・晩は涼しくなった。
山間では特にそう感じる温度差は4度も低い。
ミーン、ミーンと鳴くミンミンゼミも鳴く。
夏の音を聞きながら、訪れた萱森は春の彼岸の際にも取材した地である。
彼岸の結願日と同様にお盆のときも鉦を打って念仏を唱えるカンカラカンの六斎衆は都合で全員が揃わない。
半数の3人になったが、お盆のお勤め念仏に変わりない。
昨年までは朝から村人のためのトーバツキ(塔婆書き)をしていた。
今年は前もって所縁のある都祁白石の興善寺のご住職に書いてもらったトーバツキ。
そうしたこともあって始める時間は2時間も遅らせた。
念仏を唱えていた導師が亡くなられた前に吹きこんだカセットテープが奏でる念仏に合わして六斎鉦を叩く。
萱森ではカンカラカンと呼んでいる六斎念仏は掛軸・板額などの史料から推定するに始まりは文政三年であった。
始まりも、今でも講員が所有する六斎鉦は六枚。
講員数は隠居、引退をもって鉦を引き継ぐ。
六枚ある中で、一枚だけに刻印された文字は「和式上郡萱森村 長福寺 西村左近宗春作」だった。
念仏を唱える会所は、木造一刀彫の薬師如来座像である。
脇侍に日光菩薩・月光菩薩立像を安置する旧集福寺。
本尊を安置する仏間には、「奉 再建立薬師堂 世話人 文政五年午歳(1822)七月二日 集福寺」と墨書された板額がある。
集福寺は薬師堂(現在は会所)として再建された記録である。
集福寺はかつて真言宗であったが、改宗されて都祁白石の興善寺の傘下になった。
その二年前に六斎念仏講を結成したと伝わる。
そういった史料から推定するに、六斎鉦の刻印は誤印されたものと考えられる。
六斎鉦は六枚で打つ講員も六人。
それをもって六斎衆と呼んでいる。
始めに融通念仏・・・を唱えて、観経文、そして「なむあみだぶー なむあみだぶー」。
カセットテープでは鉦を打つタイミングをとるのは難しい。
なんとか合わせて打つ六斎鉦である。
萱森の六斎念仏の詞章は「しへん」、「らんがい」、「はむあみ」、「なむつ」、「だいだい」、「はむつ」、「はい」、「たか」、「ひとことわり」、「ばんど」が残されている。
節目の間もなく続ける念仏は、拝聴していても判り難い。
「願似此 功徳 平等施 一切同 発菩提心 応生 安楽国」に続いて、「願わくは 此の功徳を以って普く一切に及ぼし 我等を衆生と皆共に仏道を成ぜん事を」と誓願文を唱えておえた。
最後は連打の鉦で締めること、およそ15分間であった。

それからしばらくしてから永代供養の塔婆を捧げて菩提を捧げる。
萱森村中、一軒、一軒の塔婆を取りあげて詠みあげる。
午後ともなれば永代供養をした塔婆を各戸に配る萱森のお盆行事。
『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、かつては盆棚を飾る各戸を回って六斎念仏を唱えていたそうだ。
また、五来重の報告によれば、15日の夜には新仏の家の弔いに棚参りもしていたようだ。
当時の様相を子供の頃に見ていた講員が話すに、六人衆は3人ずつ二組に分かれて参っていたそうだ。
およそ55年前であった講員の記憶の話し。
平成元年ころまでは家で葬儀をしていた。
その際のことである。
葬儀の家で六斎念仏をした後は、ツチバカと呼ばれる墓地の六地蔵の前でも鉦を叩いていたという。
葬儀はお住っさんが法要をしていた。
その合間に六斎念仏を唱えていた。
夏は暑いから家人が団扇で煽いでいてくれた。
法要していた住職は「ややこしいから後にしてくれ」と云われたらしい。
その件知る講員の記憶では17年前が最後だったと思いだされた。
(H25. 8.14 EOS40D撮影)