マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

萱森の盆のカンカラカン

2013年12月11日 14時11分39秒 | 桜井市へ
桜井市の山間ではツクツクボウシが鳴き始めた。

夏の盛りの日中の暑さは厳しいが、朝・晩は涼しくなった。

山間では特にそう感じる温度差は4度も低い。

ミーン、ミーンと鳴くミンミンゼミも鳴く。

夏の音を聞きながら、訪れた萱森は春の彼岸の際にも取材した地である。

彼岸の結願日と同様にお盆のときも鉦を打って念仏を唱えるカンカラカンの六斎衆は都合で全員が揃わない。

半数の3人になったが、お盆のお勤め念仏に変わりない。

昨年までは朝から村人のためのトーバツキ(塔婆書き)をしていた。

今年は前もって所縁のある都祁白石の興善寺のご住職に書いてもらったトーバツキ。

そうしたこともあって始める時間は2時間も遅らせた。

念仏を唱えていた導師が亡くなられた前に吹きこんだカセットテープが奏でる念仏に合わして六斎鉦を叩く。

萱森ではカンカラカンと呼んでいる六斎念仏は掛軸・板額などの史料から推定するに始まりは文政三年であった。

始まりも、今でも講員が所有する六斎鉦は六枚。

講員数は隠居、引退をもって鉦を引き継ぐ。

六枚ある中で、一枚だけに刻印された文字は「和式上郡萱森村 長福寺 西村左近宗春作」だった。

念仏を唱える会所は、木造一刀彫の薬師如来座像である。

脇侍に日光菩薩・月光菩薩立像を安置する旧集福寺。

本尊を安置する仏間には、「奉 再建立薬師堂 世話人 文政五年午歳(1822)七月二日 集福寺」と墨書された板額がある。

集福寺は薬師堂(現在は会所)として再建された記録である。

集福寺はかつて真言宗であったが、改宗されて都祁白石の興善寺の傘下になった。

その二年前に六斎念仏講を結成したと伝わる。

そういった史料から推定するに、六斎鉦の刻印は誤印されたものと考えられる。

六斎鉦は六枚で打つ講員も六人。

それをもって六斎衆と呼んでいる。

始めに融通念仏・・・を唱えて、観経文、そして「なむあみだぶー なむあみだぶー」。

カセットテープでは鉦を打つタイミングをとるのは難しい。

なんとか合わせて打つ六斎鉦である。

萱森の六斎念仏の詞章は「しへん」、「らんがい」、「はむあみ」、「なむつ」、「だいだい」、「はむつ」、「はい」、「たか」、「ひとことわり」、「ばんど」が残されている。

節目の間もなく続ける念仏は、拝聴していても判り難い。

「願似此 功徳 平等施 一切同 発菩提心 応生 安楽国」に続いて、「願わくは 此の功徳を以って普く一切に及ぼし 我等を衆生と皆共に仏道を成ぜん事を」と誓願文を唱えておえた。

最後は連打の鉦で締めること、およそ15分間であった。



それからしばらくしてから永代供養の塔婆を捧げて菩提を捧げる。

萱森村中、一軒、一軒の塔婆を取りあげて詠みあげる。

午後ともなれば永代供養をした塔婆を各戸に配る萱森のお盆行事。

『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、かつては盆棚を飾る各戸を回って六斎念仏を唱えていたそうだ。

また、五来重の報告によれば、15日の夜には新仏の家の弔いに棚参りもしていたようだ。

当時の様相を子供の頃に見ていた講員が話すに、六人衆は3人ずつ二組に分かれて参っていたそうだ。

およそ55年前であった講員の記憶の話し。

平成元年ころまでは家で葬儀をしていた。

その際のことである。

葬儀の家で六斎念仏をした後は、ツチバカと呼ばれる墓地の六地蔵の前でも鉦を叩いていたという。

葬儀はお住っさんが法要をしていた。

その合間に六斎念仏を唱えていた。

夏は暑いから家人が団扇で煽いでいてくれた。

法要していた住職は「ややこしいから後にしてくれ」と云われたらしい。

その件知る講員の記憶では17年前が最後だったと思いだされた。

(H25. 8.14 EOS40D撮影)

瀧倉の先祖さんのタナ

2013年12月10日 08時21分57秒 | 桜井市へ
三谷から隣村の瀧倉に立ち寄った。

二老であるOさんの話によれば、かつて、は8月1日から12日までの毎日を上・下の六人衆が交替に神社へ出かけて太鼓打ちをしていたと云う。

一老は1日に、二老は2日に、三老が3日・・・十二老が12日という具合で、朝、昼、晩の3回。

ボン、ボン、ボンと太鼓を三度打っていた。

しばらく間をおいて、再び太鼓を3度。ボン、ボン、ボンと打って般若心経を唱える。

朝、夕には持っていったサカキを供える。

どことなく奈良市の奈良豆比古神社で行われている花摘祭の作法と似ているような時を告げる太鼓打ちのようである。

二老が云うには、瀧倉では「華まいり」或いは「華の番」と呼ぶそうだ。

下の六人衆はサラリーマンを勤めている関係上、辞退され、今では6日までとなっているが、7日には一老がお礼に太鼓を打っていると云う。

なんでも「昔、昔のことで、長谷寺でしていることを瀧倉でもせよ」と云われて続けてきた行事だそうで、本来は陀羅尼経を唱えるのであるが、簡単にということで明治時代からは般若心経になったと云う。

参り方は異なるが、三谷の「ハナツミ」参りも同じような意味があるのではと思った仏事の作法である。

「華まいり」の話題を教えてくださった二老家では座敷に構えた机に先祖さんの位牌を並べてローソク・線香を灯していた。

縁側にはガキダナを祀って、そこでもローソク・線香を灯す。



奥さんが手を合わしていたガキダナは「ガキンド」と呼んでいた。

お盆に入った13日の朝6時にお供え、昼はオニギリとカンビールを持参して籠りをする。

陽が暮れるころまでそうしていると云うのは二老家だけのようだ。

(H25. 8.14 EOS40D撮影)

三谷の花つみ参拝

2013年12月09日 07時48分00秒 | 桜井市へ
気になっていた桜井市の三谷の「ハナツミ」の様相。

1日から15日まで毎日当番の人がシキビを供えるって聞いていたので立ち寄った。

「一枚、一枚のシキビを並べるんや」と思っていたが、そうではなかった。

葉っぱの毎数を数えてみればおよそ100枚である。

数え間違いであるかも知れないが、氏子総代から聞いていたのは朝、晩ごと縦に9枚、横に9枚を並べて合計81枚のシキビの葉であった。

四方に立てた竹にもシキビが寄せられている「ハナツミ」。

参拝するときには、前に供えていたシキビを取りはらって台下の籠に置いてあった。

籠にはいっぱい詰まっているから、これまでに参拝した数だけあるのだろう。

『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、「花つみまつり」の風習で、氏神さんの菅原神社に朝、昼、晩に参っていたようだ。

四本の竹を立てて簾の台を設えていた。

スダレ台は今では構造物になったが、台部分は簾のような形である。

一日、三回もシキビを仕替える。

『桜井市史 民俗編』では、葛つみ(花つみ)講による行事であったようだ。

8月1日から14日までの毎日。

文化叢書と同様に一日三回もシキビを取り替えていた。

3回目の晩は燈明に火を灯して拝んでいた。

葛つみ講には大字の人の名を記した「花つみ札」があった。

参拝すれば、そのお札を納める箱に入れた。

14日の参拝を終えた人は札箱ごと家に持ち帰って保管する。

翌年に回された隣家が1日に参るということである。

(H25. 8.14 EOS40D撮影)

私がとらえた大和の民俗(3) 玄関ホール写真展

2013年12月08日 19時03分31秒 | しゃしん(県立民俗博物館展示編)
「センギョ」をテーマに3点を出展しました。

展示場所 奈良県大和郡山市矢田町545 奈良県立民俗博物館 玄関ホール (入場200円)
開館時間 9時~17時 (入館は16時半まで)
展示日程 平成25年10月26日(土)~平成25年12月 8日(日) 終了しました

特別講演 平成25年10月27日(日) 終了しました
 <出品写真家が語る写真家トーク 「祭りの写真を撮る」 13時半より
        第一幕 自己紹介を兼ねて「私は民俗のどこを切りとるか」
         第二幕 民俗写真の撮り方を語る



※ 展示会場で写真家による解説があります。いずれも13時半からです。
   10月26日(土)  森川寿美三氏 終了しました
   11月 2日(土)  森川光章氏  終了しました
   11月 3日(日)  野本暉房氏  終了しました
   11月 4日(祝)  松本純一氏  終了しました
   11月 9日(土)  脇坂実希氏  終了しました
   11月10日(日)  野口文男氏  終了しました
   11月13日(水)  松井良浩氏  終了しました
   11月24日(日)  田中眞人氏  終了しました
   11月30日(土)  植田真司氏  終了しました
   12月 8日(日)  志岐利恵子氏 終了しました
ご来館お待ちしております。

(H25.10.23 記)

茶の木人形を知る山城郷土資料館特別展

2013年12月08日 16時32分24秒 | 民俗を観る
『宇治茶の郷のたからもの』を主題に「-茶の木人形と永谷家の製茶機械-」の特別展を拝見した。知り合いの青江智洋が初の特別展を担当されたこともあって、久しぶりの訪館である。
展示された数々の茶の木人形は始めてみる代物である。人形を見るのも始めてだが、素材の茶の木で作られたとは思えないような精巧なつくり。茶摘みをする女性の顔立ち、姿、衣装、色合いなど素晴らしいと思った。茶生産を終えた老木の茶木は掘り返して新しく植える。捨てられる茶木を用いて作った人形はたくさん展示されている。現物を展示するのは初めてのことで、関心を寄せる茶関係者や工芸、民俗など、大勢の人たちが本邦初公開の特別展を拝観していると話す。
茶の木人形がルーツだった木彫り人形の歴史も知った。昭和8年に京都御所内で陳列された茶の木人形は天覧された昭和天皇が50体もの人形を御買上したのも頷ける。茶の木人形の歴史、製作者など興味が尽きない特別展は下記に記す会場で行われている。
訪館した日は特別講演会もあったが、事情で断念した。豪華で立派な図録(400円)は青江さんの力作で、読み応えのある本だ。製茶機械・茶作り工程も含めて必見の価値がある。

展示場所 京都府木津川市山城町上狛千両岩 京都府立山城郷土資料館 (特別展入館料250円)
開館時間 9時~16時半 (入館は16時半まで)
展示日程 平成25年10月26日(土)~平成25年12月 8日(日) 終了しました
講演会  平成25年11月 9日(土) 終了しました
列品解説 平成25年10月27日(日)、11月23日(土・祝) 終了しました


(H25.11. 9 SB932SH撮影)

八島町新仏弔うチャンカラカン

2013年12月07日 07時56分57秒 | 奈良市へ
8月7日は七日盆のお勤めをされていた奈良市八島町の鉦講たち。

彼岸の涅槃講と同じように公民館で行われていた。

八島町でも他所と同じように8月13日は夕方に墓参りを済ませてオショウライサン迎えをする。

かつては藁に火を点けて、六斎鉦を叩く人もいたようだ。

集落それぞれの辻で火を移した線香を家にもって帰る。

いわゆる迎え火である。

新仏の家ではトーシ供えたムエンサンを吊り下げる家もある。

吊るムエンサンは八島町の特徴らしく、ローソクの火も点ける。

そして、日暮れになれば軽快なリズムで叩く太鼓念仏と鉦念仏を唱えるに正装姿で新仏の家に参る。

ドウシンと呼ばれる導師とヒラ(平)が鉦念仏を唱える。

アラタナを飾る家で弔う念仏は亡くなった人が親よりもアトかサキかによって念仏の曲目が替る。

親よりも先に亡くなった逆縁の若死にの場合は「地獄・地獄」で、幼児の場合は「西院の河原」。

順当であれば「念仏行者」となる供養の1曲である。

辛い取材であるが講員のご厚意で取材させていただいた。

30歳の子供を亡くされたM家では始めに太鼓念仏を申す。

逆縁となったためウタヨミは「地獄・地獄」である。

アラタナに飾ってあった遺影写真が目に入るのが辛い。

思わず手を合わせるチャンカラカンの取材である。

病弱だった子供は笑顔が素敵だったと話す母親。

毎日を楽しませてくれた子供に感謝すると話す。

「地獄 地獄は多けれど おまずの地獄と申すのは 井戸は掘れども水わかず 行けども行けども道はなし シヤバにありしきその時に 養子を一人(いちにん)とりたなら かかるうきめは せまいもの ひとくこだけにすがりつく 助け給えや 地獄菩薩 たのめよたのめよ 念仏を はあなんまいだ はあなんまいだ」と念仏を唱えて、しばらく続くウチコミ。

「願似此功徳一切同・・・行者安楽国(のように聞こえたが・・)」の念仏を申してから続けてウチコミ。

しばらくウチコミをされて、もう一回のお念仏を唱えて終えた「地獄・地獄」は「念仏行者」と同じように4分間ぐらいだった。

その後の念仏鉦は「シゼン」で弔われた。

次に弔う新仏の家は2年前に亡くなられた念仏講の元会長家だったY家。

そのときも取材をさせていただいたY家は2年越しで、この年は91歳のおばあさん。

当時生まれたばかりのA子ちゃんは3歳になった。

講員の接待をしたくてうずうずしている。

お菓子は軽いから運べるものの、飲み物はとても無理。



講員に一人ずつ手渡すことができて嬉しそう。

順縁にあたることから太鼓念仏のウタヨミは「念仏行者」でる。

小休止を挟んで申した鉦念仏は「バンド」であった。

3番目の新仏はそこから下ったⅠ家。父親を亡くされた。

当家も順縁で「念仏行者」。

小休止を挟んで弔いの鉦念仏は「ハクマイ」であった。

「シゼン」はおよそ18分間で「ハクマイ」が14分間。

「バンド」もそれぐらいで、いずれも長丁場の弔い鉦念仏である。



他にもアラタナを祀る新仏の家もあるがチャンカラカンの念仏を遠慮された。

かつては34軒もあったチャンカラカンの鉦講は念仏講とも呼ばれている。

いつしか脱貝される戸主もあり、鉦を打つ講員は15軒になった。

この夜のお勤めは講員の都合もあって13人で行われた。

(H25. 8.13 EOS40D撮影)

大江町の行事2

2013年12月06日 08時49分17秒 | 大和郡山市へ
13日に再び訪れた大和郡山市大江町。住民のN婦人にお話を伺った。

苗代作りを終えた頃の平成21年5月3日である。

街道傍にあった苗代に立ててあった松苗とイロバナ。

水口辺りにあったのだ。

Nさんの話しによれば、松苗は春日大社で行われた御田植神事で奉られたもの。

お参りをしてお祓いを受けて貰ってきた松苗だそうだ。

大江町は春日大社の旧神領地。

大和郡山市内では大江町の他、近隣の美濃庄、稗田、下三橋、上三橋、井戸野、若槻、番匠田中、横田、発志院、石川、中城町もそうである。

春日大社の松苗に括りつけて5粒ほどの種籾を包んでいる。

貰ってからは神棚に祭って、大切に保管していた。

苗代を作り終えて水口マツリをする。

白紙に包んだ玄米を置いて、松苗を立て、イロバナを添える。

奈良市の高樋町ではホウラクで煎った米を撒いているそうだ。

正月迎えに簾型の注連縄を大将軍神社拝殿に掲げる。

オシメサンと呼ばれる注連縄は3軒で回る宮当番のトーヤが作って大晦日に掲げるそうだ。

神社付近のヤブに生えている竹を伐りとって、モチワラで編むように作る。

オシメサンはかつて締めのうちまで掲げていたが、今では正月五日に外していると云う

Nさんは今でも家のオシメサンを作って掲げている。

大将軍神社は女の神さん。願い事を叶えてくれるありがたい神さんだと云う。

拝殿前、西側にある社はキブネサン(貴船神社)で水の神さんとして崇められている。

婦人の話しでは、おばあさん講とも呼ばれている観音講がある。

木魚を叩いて念仏を申す。

西国三十三番ご詠歌は回りの導師が勤める。

最後に三界万霊をする観音講は毎月17日がお勤め。

夜ともなれば6人の婦人たちが集まってくるが、冬場はそれより30分前にしているそうだ。

お寿司を食べてからのお勤めは長丁場。

七つのお茶をするらしい。

当番家で回っていた頃は観音さんの掛軸を掲げていた。

当時は市販品のキリコを買って供えていたそうだ。

観音講は葬儀を家でしていた当時は、「お別れや」と云って2回もご詠歌を唱えていた。

通夜で2回、本葬の際は朝にお別れのご詠歌である。

三日、五日、七日のタイヤ(退夜)にもしていた。

四十九日は葬儀家の親戚も加わってヨバレに参っていたと云う。

春と秋の彼岸の中日にも唱えている観音講の営みは本尊を安置する会所のようである。

この日はオショウライサン迎え。

手際良くタイマツを作って中庭にでる。

そこで火を点けて線香に移す。

くゆらした線香を仏壇に移すオショウライサン迎えは夕暮れ時にすると云う。

15日の夕刻はオショウライサンの送り。

ムエンサンにも線香を灯すそうだ。

(H25. 8.13 記)
(H25. 8.14 EOS40D撮影)

大江町の行事1

2013年12月05日 07時24分33秒 | 楽しみにしておこうっと
度々訪れる大和郡山市の小林町に住むH婦人が話した辻念仏。

奥さんが生まれ育った出里は同市内の大江町。

実施時期は覚えていないが町内にある四か所の辻で鉦を手で持って叩いていたと云う。

もしかとすれば、であるが、その鉦は六斎鉦ではないだろうか。

そうであればお盆の行事である。

大江町は旧村。碑田村・美濃庄村・大江村・若槻村・井戸野村・上三橋村・下三橋村・番匠田中村からなる添上郡平和村の一町村である。

聞き取りさせていただいた婦人が住まいする住居は集落の北側。

旧道が通っている面にある。

かつて庄屋さんではないだろうか。

家の前には水路がある。

大江村は大和平坦に挙げられる環濠集落の一つであった。

大将軍神社(拝殿前にあるのは貴船神社)の南側にも名残の濠の張りだし部が見られる。

正月迎えの注連縄を調査していた平成22年12月31日平成23年12月30日。拝殿に掲げてあった注連縄は簾型であった。

奈良県庁宮座調査によれが大江町には左座・右座があり、10月1日には朔日座、同月5日には五日座があると記載されている。

同月の14日が宵宮座であったようだ。

11月14日、若しくは16日には大阪平野から如来さんがやってくるというから融通念仏宗派である大江町。

8月10日は南にある墓地で施餓鬼をする。

塔婆ツキはお寺で書いてもらう。

無住であるお寺には奈良市の西九条に住む僧侶が来られるらしい。

各家でオショウライさんを迎えるのは13日の夕刻。

稲刈りを終えれば稲藁束を残しておく。

昨年に刈った稲藁束は納屋に残しておいた。

それを二つに割って稲のシビを取る。

奇麗にした稲藁の内部にオガラを入れる。

それはタイマツ。

家の中庭で火を点けて、線香に移す。

くゆらした線香を仏壇に移すオショウライサン迎えである。

婦人が出里の奈良市高樋町では家の外で迎えて鉦を叩いているそうだ。

南側に建つ民家玄関先に置いてあった木製の木箱。

形からして、おそらく燈明箱であろう。当番の家に置いていったのではと思った。

(H25. 8.12 SB932SH撮影)


大起水産のお寿司

2013年12月04日 07時02分43秒 | あれこれテイクアウト
ありがたい大起水産のサービス券が今年も届いた。

それを持って出かけた大起水産は大賑わい。

レジ打ちに並ぶ買い物客は行列だ。

昨年も同じような光景を見た。

我が家はいつもと同じにぎり寿司のセット。

安価で美味しくいただけるお寿司である。

一人ワンセットでは足らないので海鮮巻き寿司も買った。

(H25. 8.11 SB932SH撮影)

ならまち界隈を散策

2013年12月03日 08時28分57秒 | 奈良市へ
奈良の地域研究誌『俚志(さとびごころ)』の編集長と拝見した白土町の子供のチャチャンコ。

この夜はつつましく「ならまち」で宴をもつことになった。

時間はまだ早い。

編集長が借りている駐車場。

そこから見える史跡頭塔(ずとう)は石組方形七段の土塔(どとう)。

戦乱時代に亡くなった人たちを弔ったと話す管理人。

ここからでも充分に見えますと指差した頭塔は、北側一段面に四つの石仏、三段面には三つ、五段面に二つで七段面が一つ。

それぞれの石仏保護のために瓦葺の屋根で覆っているそうだ。

そこから下って「ならまち」に入る。

見慣れた街道は先月に訪れた公納堂町だった。

さらに下って庚申堂がある「ならまち」界隈。

その一角にあるオリエント館。

ずいぶんと前のことだ。

「ならまち」を広めようとスタンプラリーがあったことを思い出した。

「奈良町ウォーキング’98」ラリーのチラシにはそれぞれの名所旧跡や施設を訪れるキカッケになるようにと始まった奈良市制施行100周年記念の事業。

それには名所の映像が載っていた。

たしか自転車でやってきたように思う。

カメラは一眼レフではなく、OLYMPUS TRIP PANORAMA 2のコンパクトカメラだった。

チラシに出ている状態を撮ってみようと思ってシャッターを押した。

何か所も巡ってスタンプを台紙に押してもらったらプレゼントが貰える。

それが目当てだったスタンプラリー。

主催は財団法人世界建築博覧会協会・ならまち振興財団であった。

その頃はまったく人が居なかった。

出合う人にも遭遇することはなかった。

観光客も知られてなかったならまち。

訪れたのは翌年の11年のころだったと思う。

その後の数年間を経たある年。

おそろしいほどの観光客で溢れるようになっていた。

それはともかくスタンプラリーで訪れた奈良町物語館、奈良町資料館、時の資料館、寧屋工房、御霊神社、ならまち格子の家などなど。

寧屋工房で感動した燈火器。

陶芸家の武田高明が製作された数々の燈火器を義兄にプレゼントをしたことがある。

平成13年辺りだったと思う。

かーさんと連れ添って買いにいった寧屋工房。

武田氏はその場で陶芸製作をされていた。

奮発して買ったことも覚えている。

付近にはたしか小塔院があったことも思い出す。

そこでは水仙が美しく咲いていた。

その小塔院の佇まいが忘れられない。

平成15年3月のことだ。

その年の8月には「ならまち」界隈で「ならまち燈花会」が行われていた。

平成11年に始まったなら燈花会は、この年には場を広げて「ならまち」にも現れたのである。

あれからずいぶんと歳がいったものだ。

新しいお店もできてどことなく風情も変化がみられる「ならまち」。

今宵の宴の場である「蔵武D」の開店時間はまだ早い。

時間待ちについでに確かめたいと足を伸ばした「やすらぎの道」。

7月15日のことだ。

「ならまち」界隈でされている夏祭りを探していたときのことである。

公納堂町、脇戸町、元興寺町をぶらぶらしていた。

「ならまちきた」ではポスター、行燈などの目印で見つかったが、「ならまち」にはそれがない。

さっぱり掴めずであった。

徳融寺の前の通りにあった祠の格子窓を覗いてみた。

内部に石仏があった。



目を凝らして見れば浮き彫りの千手観音菩薩である。

美しい姿に若干紅色の唇に手を合わせた。

その場所を明確にしたくて歩いた。

音声館より少し南の処にあった。

そのときは民家の門屋横であったと思っていたがそうではなかった。



鳴川町の安養寺の門横であった。

(H25. 7.15 SB932SH撮影)
(H25. 8. 8 SB932SH撮影)