マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

第8回フォトサークルDAN選抜写真展Inリコーイメージングスクエア大阪

2015年01月21日 13時46分31秒 | しゃしん
軽自動車はETC料金で670円の第二阪奈道路。

生駒山下を通るトンネルを抜けたらそのまま阪神高速道路。

ETCゲートを突入したときに流れたアナウンス。

領収証が発行されないから預金通帳でないと確認できない通行料金。

聞き逃すことのないアナウンスは930円だった。

ETCが高速道路を降りようとすれば指示が出る。

ゲートがどこにあったのか判らないがアナウンスが聞こえた。

「払戻金は370円」である。

差し引けば560円。

そんなシステムであったのだ。

宮崎壽一郎さんが主宰する題8回フォトサークルDAN選抜写真展の会場に向かう。

場所は大阪市内中央区の南船場に建つリコーイメージングスクエア大阪だ。

何度か訪れたことがあるが、装着したカーナビが「外れました」と応える。

案内どおりに走っていないのだ。

大阪の街は知っているようで、知らない街作り。

小刻みに信号・筋がある。

ついつい通り過ぎてしまうのである。

ぐるぐる回ってようやく辿りついたリコーイメージングスクエア大阪付近の駐車場を探す。

付近にはたくさんの駐車場がある。

至近距離にいっぱいあるが時間はない。



一番近い三井のリパーク南船場第12駐車場に停めた。

駐車場はタイムパーキング。

20分で300円だ。

選抜された写真展の作品を拝見するが、この年の1月31日に出展されていた作品よりも全般的に見劣りするのだ。

フォトサークルDAN写真展はもう一つの会場で花火写真展もしていた。

場はすぐ近くの大阪写真会館。徒歩で向かう。



数枚の花火が気にいった。

同じ作者とも思えない出来栄えである。

2カ所の写真展を拝見して支払った駐車料金は900円だった。

なぜか疲れてしまった写真展。

疲れは移動したためであろうか。

ぐったりしたので、地道で戻るつもりだった帰り路はETCの指示に従って走った。

森の宮のゲートを入れば610円のアナウンス。

距離が短いのであろう。

阪神高速道路を走ってそのまま第二阪奈道路で帰った。

(H26. 7.11 SB932SH撮影)

松井良浩『熊野古道・奥駆の祈り』写真展in梅田ダイビルB1Fキャノンギャラリー

2015年01月20日 10時10分39秒 | しゃしん
近鉄郡山から鶴橋経由で環状線に乗り換えて大阪梅田に行く。

電車賃は合計で740円だ。

近鉄郡山までは奈良交通バス。

最寄り停留所の木島から乗って220円。

いずれもICOKAカードでスルーできる。

片道合計の運賃が960円で着いた大阪梅田。

松井良浩さんの『熊野古道・奥駆の祈り』写真展が開催されている梅田ダイビルまでは徒歩。

5分ほどで着く。

台風8号の影響で暗雲たれる日であったが、夕がた5時半には夕陽が現れ青空が広がった。

室戸岬を通過していった台風は西日本にはまったく影響がなかった。

前日まで心配されていた松井さんの顔は晴れやかだった。

展示会場には大勢の人たちが訪れていた『熊野古道・奥駆の祈り』写真展。

これまで何枚かの写真を拝見したことがある。

松井さんがとらえた写真のなかでこれ一番と挙げたいのは吉野川で水垢離される様相である。

水面すれすれで入水される修厳者の形相に圧倒される映像に手を合わしたくなるのだ。



展示場に置いてあった淡交社刊の『山伏入門』ムック。

本屋さんでなく、ご本人から買いたかった。

ようやく手に入れたムック本は優しく書いてあるが、深みがある。

掲載写真のほとんどが本人撮影。

小さな映像でも感動するが、大きく伸ばした写真はもっと多くの情報量がある。

一枚、一枚、目を凝らして拝見する写真展示枚数は31点。

いずれもデジタル画像を最新の品質でプリントされた作品だ。

水垢離(六田)、歩く、登る、崖、覗き、石塔、集団の祈り、個々の祈り、胎内くぐり、山を下る映像。

滝に、木に、岩に手を合わす自然崇拝。

力のあるものに手を合わす。

女性も参加される修験道。思わず映っている人数を数えてしまう。

ムック本によれば、当山派醍醐寺が32%。

本山派聖護院は27%で、金峯山寺は半々だと書いてあった。

修験道は在家信仰。

大昔から男女関係なく開かれている。

この日は初日。祝いのオープニングセレモニーがある。

ご本人の解説があった。

撮影時の苦労話を聞く。

尾根道を歩く。

けもの道とも思えるような山道を歩く。

修厳の道はいつしか人の通る道となった。

ここ3、4年前に撮りためた写真に圧倒されるとともに体験談を話される。

水は1リットル持参したが、修厳者は4リットルだったことを知る。

レンズは交換しない。

こうした撮影時の苦労話を聞いて写真を見る目がかわった。

あらためてもう一度拝見する。

オープニングパーティ参加費は千円だった。



寿司盛りに数々の料理を盛ったオードブル。

箸袋に書いてあった料理の出所は「はないちばん」。

「味の大和路」の印がある。

住所を見れば、なんと、なんとである大和郡山市の馬司町。

「馬司」と書いて「まつかさ」と呼ぶのである。

パーティ会場でお話ししてくださった聖護院本山修厳宗・宗務部長の宮城泰年さん。

「動じない心」を話される。

平成16年に男性新客が滑落した事故である。

一命はとりとめたものの救出譚は体力の限界まで使った。

「行」に度々参加していた男性がいた。

ときおり木陰に隠れて休んでいることもあったし、こっそりと帰るとか、温泉に浸かっていたとかする男性だった。

奥駆けを終えて下山したが、男性は自宅に戻っていなかった。

行方不明になった男性は遭難に捜索願を出して前鬼谷を探しまわった。

八日後に発見された男性は裏行場・垢離取り場で首を吊っていた。

大きな悔いを残したと話す宮城さん。

遭遇した体験に基づく本を貴方に差しあげようと後日送ってくださった講談社刊の『動じない心』が届いた。

ありがたいことである。

お礼に著書『奈良大和路の年中行事』を贈呈させていただいた。

(H26. 7.10 SB932SH撮影)

古市のセンゲンサン

2015年01月19日 07時19分09秒 | 奈良市へ
知恵の神さん・ひきつけの神さんと崇敬されている仙軒大菩薩を祀るお堂がある奈良市古市町。

八島町~高畑町を通る山麓線の古市信号すぐに奈良交通バスの古市バス停留所がある処よりすぐ近く。

国道沿いに建っているお堂の普段は扉が閉まっている。

格子窓から覗くとお厨子が拝見できる。

お堂に掲げられた扁額に「知恵の神・ひきつけの神 仙軒大菩薩」と書かれてあった。

「娘が婚入りした奈良市古市の東市小学校前のバス停付近にセンゲンサンがあって、そこでマツリをしているようだ」と話す送迎患者のY婦人。

どのような形態で行事が行われているのだろうか。

それを知りたくて訪れた古市の仙軒大菩薩堂。

下見に訪れたのは平成24年7月22日だった。

お堂の扉が閉まっていた。

どなたが管理されているのか、山麓線付近には建ち並ぶ民家もなく途方に暮れた。

もしかとすればお堂下にある民家ではないだろうかと思って坂道を下った。

ある民家を尋ねたところ、数軒の人たちが7月8日に集まっていると云う。

で、あるが、お堂には電気が通っていないことから、7月8日には尋ねた家から電源を供給していると話すのだ。

7月8日に行われていることを知った「センゲンサン」は地蔵盆でもなく、仙軒大菩薩の営みであったのだ。

昨今の行事は固定日でなく集まりやすい休日に行われる場合が増えている。

もしかとすれば、日曜日に移っていることも考えられる。

そう思って6日に訪れたお堂は周囲の草を奇麗に刈り取っていた。

あらためて拝見するお堂の内部。

格子窓から覗けばお厨子が拝見できる。

左に五三桐の御紋、右は16枚の菊の御紋であった。

こうした下見を経て8日の朝10時ころに訪れた仙軒大菩薩堂には数名の人たちが集まって、お供えをされていた。

「大和郡山市の額田部から嫁入りされた方は・・」と伝えれば、「私です」と答える婦人。

聞き間違いではなかったのだ。



お堂を守っているのは仙軒講と呼ぶ6軒の講中であった。

ほとんどが北垣内の住民のようである。

お堂は昭和47年7月に建てなおしたそうで、講中の他、古市の人たちの名を記した寄付者の名が書かれてあった。

講中の名である。

板書には「浅間堂 浅間講」と書いてあった。

仙軒大菩薩堂は「浅間堂」と呼んでいたようだ。

「浅間」と書いて「センゲン」と呼ぶのであるが、本来は「仙軒」の漢字を充てていると長老は話す。

事例数はごく僅かであるが、奈良県内においても富士山を信仰される富士講がある。

これまで取材した富士講行事に奈良市柳生町柳生下町の土用垢離がある。

富士講ではなく、宮座衆によって水行作法をされる。

旧都祁村の奈良市上深川でも柳生町と同じように水行作法をされる富士講の富士垢離がある。

古市の浅間講は富士山信仰する富士講でもあるのだが、水行の作法は行われない。

「浅間堂」は東向きに建てられている。

おそらく、富士山がある方角に向けて建てられたと思うのである。



浅間堂は一年に一度、お厨子の扉を開けてご本尊を開帳される。

黒ずんだお厨子を開ければ、真新しい桐製の箱があった。

箱には古い巻きものを納めているそうだ。

それは広げられないほどに傷んでいると話す長老は続けて云った。

実はご本尊の仙軒大菩薩は安置していないと云うのだ。

仙軒大菩薩もまた傷んでいて講中の家で保管していると話す。

大菩薩の姿を拝見することは不可であるが、長老が云うには「鎌倉時代の建立で修善した痕があるので国宝にはならんかった」である。

仙軒大菩薩を祀るお堂は「カッパの神さん」とも呼ばれていたそうだ。



奉納された扁額を掲げていたが、落ちそうな状況になったことから下に降ろしたと話す。

拝見した「カッパ」はどう見ても天狗さんの面である。



もしかとすれば、浅間講(富士講)につきものの修験のカラス天狗では、と思ったのである。

お厨子の右横には木造の立像仏があった。



弘法大師でもなく、菩薩さんでない。

調べてみれば木造立像は理源大師であった。

いつの時代に誰がどのような経緯で安置されたのか伝わっていない。

さまざまなことを話してくれた長老は、予めお札を版木で刷っていたと云う。

お札は上に富士山を描き、「仙軒大菩薩」の文字に朱色のスタンプで宝印を押していた。

参られる人に一枚ずつ授与すると云うお札。

キーキーと泣く赤ちゃんの額にお札を当てればピタリと泣きやむというありがたいお札だと話す。

そういうわけで「ひきつけの神さん」とも呼ばれているのだ。



古市仙軒講のお供えはナスビ・キュウリ・トマトでいずれも八つと決まっている。

講中が家で作ったダンゴも供える。



このダンゴは「センゲンダンゴ」と呼んでおり、個数も同じく八つにすると云う。

八数の値数になにが所縁なのか判っていない。

古市の集落のほとんどの家が屋号をもっていると云う。

ウシヤ・ウスヤ(石臼目立て)・トウシヤ(トーシ作り)・カミヤ(鼻紙屋)・カミスキヤ(ちり紙)・ワタヤ・ゲタヤ・カジヤ(農具・八寸釘)・カシヤ(菓子屋)があったと云い、今でもその呼称で云うことがあるそうだ。

古市はかつて古市城を中心とする城下町だ。

古市城は浅間堂より国道向こうの高台に二ノ丸屋敷、南の東市小学校が本丸だったと云う。

国道ができるまでは細い里道だった。

竹藪のススンボで遊んでいたと講中は話す。

さらに南に下った高台は字高山(高山城跡)・字城山(藤原城跡)もあると云う。

浅間堂下は勘定場、その向こうは奉行屋敷にカネグラと呼んでいる米蔵があり、南に街道を下れば手代、宮本家の大庄屋があると云う。

2月11日にオンダ祭が行われる御前原石立命神社がある。

かつて祭祀を勤めていたのは宮座の頭であった、現在は氏子の村行事となっている様相は平成17年2月11日に取材させていただいた。



午後ともなれば「センゲンダンゴ」を供える長老。

それ以前にもどなたかの講中が供えた「センゲンダンゴ」がある。

石臼がなくなった現代では米屋さんでウルチ米を挽いてもらうと話していた。

それから数時間後の夕方ともなれば知恵が授かりますようにと願う子供たちが参られる。

長老が仙軒大菩薩云々と唱えて幣を頭に翳す。

「神主役を勤めますんや」と云うのだ。

この時間帯までに何人かの人たちが参られたようだ。

願主のお名前を書かれた「祈祷 無病息災 学業成就 願主」と書いたお札が置いてあった。



ぞろぞろとやってくる親子連れ。

小さな子供さんは浴衣姿で、赤ちゃんはベビーカーに乗っていた。

お堂に上がった親子連れ。

参拝者は一挙に来られたので待ち行列になった。

上がった講中に名を聞いて願主名を書く長老。

子供と親の連名だ。



「あんた、名前何やったっけ」と云う婦人。

「おばあちゃんが孫の名前を忘れたらあかんがな」って母親が伝える。

多くの子どもたちは講中の孫さんだったのだ。

一組ずつお堂にあがって無病息災を祈願する。

取り出した幣を持つ長老。



「南無仙軒大菩薩」を三唱する。

「願くは願主の 無病息災 学業成就のご加護を垂れ賜わりますよう願い上げ奉る 南無仙軒大菩薩」も三唱する。

唱えたあとは幣を頭に翳して学業成就。



菩薩さんから知恵を授かるということだ。

赤ちゃんを抱いてお参りする母親に連れられてあがった幼児は「わぁーん」と何故か泣きだした。

「昨年は泣かんかったのに・・・」ということは、一年経って知恵がついた証拠ではないだろうか。

さらに成長した女児は笑顔で受けていた。



これだけの子どもたちが一斉に揃うことはこの日の「センゲンサン」しかないと云って記念撮影が始まった。

参拝者のすべてが祈祷をしてもらって一段落した。

長老が差し出したホラ貝を手にした子供たち。



「吹いてみるか」と云われて挑戦する子供はいとも簡単に吹いた。

ホラ貝は山上さん(講)の先達が吹いていたもの。

「吹けたら健康になるんやで」と教えていた。

安置していた理源大師木造立像は山上講が寄進したものであったのだ。

「センゲンサン」は仙軒講の行事であるが、村人も参拝ができると云う。

一組の親子連れがその後になって参拝され祈祷を受けていた。

前日の7日は村の行事弁天さんのマツリ。

主催は水利組合で、宮座の当屋が御供をすると云っていた弁天社は平尾池の傍にあるそうだ。

(H26. 7. 6 EOS40D撮影)
(H26. 7. 8 EOS40D撮影)

佐紀二条町御前池の夕照

2015年01月18日 06時59分19秒 | 奈良市へ
佐紀二条町の弁財天の夏越まつりを終えた時間帯は夕陽が落ちていく。

亀畑佐紀神社と門外釣殿神社の間にある御前池は鯉の養殖池。

それより以前は金魚で名高い大和郡山の金魚業者が養殖をしていた。

鯉が跳ねる音は聞かなかったが、池面が美しく輝きだした。

夕陽が池面に映していた。



朽ちた橋げたがシルエットになった情景に思わずシャッターを押した。



陽が落ちる方角が永禄十二年(1569)に松永久秀軍の争いによって陥落したと伝わっている超昇寺城跡地になるようだ。

(H26. 7. 7 EOS40D撮影)

佐紀二条町弁財天の夏越まつり

2015年01月17日 09時03分44秒 | 奈良市へ
節分行事を取材していたときに聞いていた佐紀二条町弁財天の夏越まつり。

7月7日は蛙飛行事もあるし、七夕さんもあるのですが、気になっていたのは弁天さんの行事である。

調べてみればわりあい数多く見られるようだ。

水の神さんとも呼ばれる弁天さんは、農家にとって不可欠の「水」を恵んでくれる。

なぜに7日なのか、どの村に行っても答える人はいないが、祭典の様相だけでも、と思って訪ねた奈良市佐紀町の亀畑佐紀神社。

鳥居下に弁財天社を祀っている。

弁財天社はかつて佐紀池の西側にあったと伝わる。

今では行政区割りの二条町の呼び名であるが、かつては超昇寺村であった。

神社が鎮座する地は現在の佐紀町。

今では鯉の養殖池になっている御前池の西側に超昇寺城があったそうだ。

超昇寺城は永禄十二年(1569)に松永久秀軍の争いによって陥落したと伝わっている。

その後の元亀二年(1571)には筒井軍の反攻によって復帰・修復されたものの、天正八年(1580)の破却令まで存続していたそうだ。

そのころか、それ以前か判らないが超昇寺村には右座・左座の宮座が存続していた。



略歴によれば超昇寺村の社家は吉田家・福井家・中西家・河村家が右座、左座は松田家・河合家・吉村家・河邉家であった。

話しによれば、河邉家一族は遡ること藤原不比等四男の家系になるそうだ。

上の八人衆と下の六人衆からなる宮座の名残もあるかと思って出かけた佐紀二条町。

宮座は50年ほど前に解散したが、今でもマツリを継承している。

集まった氏子たちは節分のときとほぼ同じ人たちであった。

弁財天社に幕を掲げて提灯を灯していた。

お供えはすでに置いてあった。

洗い米・塩にヒモロギで結んだニンジン・ゴボウ・ダイコンと一尾の生サバであるが、神主に許しを得て今年の当番さんは塩サバを供えた。

節分の際には「ヒトギ(シトギ)」もあるようなことを聞いていたが、それはなかった。



弁天池から当地に遷したのは御前池の間にある道路が敷かれた時代。

うっすらと覚えておられた長老らの話しによれば昭和38年のようだ。

当時のお供えはカボチャ、ナスビなどの農作物も盛っていたそうだ。

農業を営んでいた農家は転業されて作物栽培はこの辺では見ることもないと話す。

Nさんの話しによれば、カボチャとかナスビを栽培していた農家が供えていたそうだ。

サラリーマン時代に移り替ってからはお供えはご祝儀金になったと云う。

昭和38年は今より51年前。

宮座を解散した年にあたるようだ。

当時は、露店の夜店が数珠を繋ぐように多くの露天が並び、そうとう賑わっていたと話す。

神事は修跋、祝詞奏上、玉串奉奠など一般的で、特別なこともなく神事を終えた。



昔は大勢の子供たちもやってきたそうだ。

神事中に大慌てでやってきた親子連れ。

自転車を降りるなり神事を終えた弁財天に手を合わせた。

(H26. 7. 7 EOS40D撮影)

鍋屋町弁財天の宵宮

2015年01月16日 07時23分04秒 | 奈良市へ
昨年、たまたま通りがかって知った奈良市鍋屋町の弁財天祭。

神事は15時と聞いていたが、それより1時間前から降りだした雨。



提灯は気を配ってビニールを被せていたが、お供えはどうすることもできなかった。

御供はびしょ濡れである。

鍋屋町の弁財天社は若宮おん祭に出仕される田楽座が所作をされる初宮神社の奥にある。

この日の弁財天祭は鍋屋町の初宮講の人たちが主催する。

田楽座を迎える講中でもある初宮講だ。

軒数は27、28軒ぐらいになると云う。

雨天でなければ田楽座が作法される同じ場所の境内で祭典をされるのだが、この日はやむを得ず社務所内となった。

初宮講の幕もずぶ濡れになるこの日は、神官・御巫の履物にも気を配ってシートを被せた。

春日大社の神官が伝える取材の注意事項。

「さし障りのないような撮りかたで」と、お願いされての取材である。

神事が執り行われる社務所。

遠慮して外から撮ったものだから私はびしょ濡れだ。



神社のお供えは社務所内。

雨にあたることもないと思っていたが、雨垂れでやはり濡れてしまう。

梅雨入りになってからはそれほど降らなかった今年の梅雨。

弁財天のマツリに雨が降るのは珍しく、10年ぶりだと講中は話す。

弁財天は水の神さん。

「天から水の恵みをもたらしてくれた」と春日大社の神官も話す。

雨は本降り、窓を開放した社務所に風が吹き抜けていく。



天からの恵みに感謝して、講中は揃って春日大社独特の「神拝詞」を唱える。

次に、春日大社の御巫二人が社伝神楽(※陪従神楽は本社神前および舞殿のみで非公開)を舞う。



神楽の舞は「珍(めず)らしな神楽」と「皇神(すめがみ)神楽」の2座。

神官は「笏拍子」を打ち、神楽笛を奏する。

宵宮神事は講中の玉串奉奠で終える。

そして、春日大社謹製のカワラケでお神酒をいただく。

ありがたいことに私も授けてくださったお神酒いただき。

法令順守に従って飲むことは断念し、カタチだけのいただきとさせてもらった。

参拝者には飲んだカワラケと供えた御供菓子が授けられる。

これもまたありがたいことである。

社務所は昭和42年に建てられた。

古くなった社務所は朽ちていたことから建て替えた。

山本さんが子供のころに神社で撮った写真があると云う。

半袖姿だったから夏場のようだと云うから弁財天さんの祭りであったと思われる。

そのころも社殿神楽は境内で行われていたようだと話す。

雨天でなければ、神事を拝見する人も居るらしいが、この日は皆無。



奈良女子大の学生さんは通り過ぎるだけであった。

(H26. 7. 6 EOS40D撮影)

手貝町弁財天の宵宮

2015年01月15日 05時59分46秒 | 奈良市へ
この日は奈良市内の各地域で宵宮の弁財天行事が行われている。

鍋屋町、餅飯殿町、坊屋敷町、手貝町などだ。

鍋屋町へ向かう道すがら。

鳥居前に沿って立てた笹竹が反り返っていた。

テント内で神事が行われると聞いていたが、その場を離れた手貝町。

夜ともなればさらにどしゃ降りとなった宵宮の日。

弁財天のマツリに雨が降るのは珍しく、鍋屋町の初宮講の講中は10年ぶりだと話していた。

夜7時ともなれば雨はさらに本降りどころかどしゃぶりになったこの日。

手貝町の弁財天の宵宮祭は無事に終えたのだろうか。

(H26. 7. 6 EOS40D撮影)

イオンモールの神座おいしいラーメン

2015年01月14日 07時13分10秒 | 食事が主な周辺をお散歩
注文した品を待つ行列は長くなった。

できあがったラーメンを受け取って行列は流れていくが、途絶えることはない。

トッピングはニラ漬け。

おいしいラーメンにつきものの白菜はどっさり・ザクザク盛っている。

透き通るようなスープは出汁が利いている。

あっさりであるのだが、コクがある出汁に麺が絡んで持ちあがる。

ところが箸が気に喰わない。

プラスチック製と思われる白い箸は麺が滑るのだ。

清潔感はあるが、食べる道具に相応しくないと思っている。

おししいラーメンの麺はシコシコでコシがある。



久しぶりに食べたが麺は満足する。

バラの豚肉・白菜とともにスープに絡めて食べる。

何口か食べてスープの味が気になった。

なんとなく感じたのは魚の味だ。

ニボシが入っているのか・・・。

豚バラ肉は小さめだが、枚数は14枚もあった。

何度食べてもラーメンの美味しさは「ある」と思って箸が進む。

ところが、何度か食べているうちに口が嫌味を感じ始めた。

おかしい。

何の味なのであろうか。

臭いと感じる舌。

食感は豚バラ肉なのだが、どうも違う味。

それからもずっと感じ続けた臭味。

これはいただけない。

そういえば神座は調理する人たちの様相が判るようにガラス張りになっている。

予め煮ていたたっぷりのスープを鍋に入れる。

二種類の調味料を加えていた。

小さじに何杯か掬って鍋に入れていた。

そこに白菜をどっさり入れる。

問題は豚バラ肉だ。

見た目は大手スーパーでも売っているようなブタバラスライス肉。

冷凍物を自然解凍したと思えるような長方形に近い形の生ブタバラ肉である。

国産の豚バラ肉は甘くて味がある。

食感も良い。

そういうような肉ではないのだ。

豚バラ肉には味はない。

スープに絡んでいるだけだ。

もしかとすれば外国産かも知れないと思った。

臭い豚バラ肉はどうしようもなかったが、スープは完食した。

素材の旨みを引き出すとあるが・・たぶん二度と食べないだろう。

(H26. 7. 6 SB932SH撮影)

小倉八柱神社の夏越し

2015年01月13日 10時34分24秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
標高600m。涼しい風が神社を通り抜ける奈良市小倉町の八柱神社。

茅の輪潜りをしていると聞いてから6年も経ってしまった。

なかなか立ち寄れなかった神社行事である。

神社下に到着したときに丁度来られた山添村室津の奥中宮司。

奈良県の伝統芸能緊急調査の際にずいぶんと引用させていただいた宮司翻刻の大正四年調『東山村各神社由緒調』が多いに役だった。

宮司になられたときからコツコツと現代表記に書き写した調書は平成18年に拝見した。

百年前に記録された調書が原本であるが、翻刻がなければ「田楽」関係の調査はスムーズに進展しなかったかも知れない。

ありがたくお礼を述べたのはいうまでもない。

それはともかく神社には付近で刈りとったチガヤで茅の輪を組んでいた。

直径はおよそ1.5mぐらいである。

かつては拝殿真下の柱寄りだったので「潜るのもたいへんやった」と話すのは村神主。

杭止め・束括り・注連などもチガヤで作ったと云う。

市販のロープでは不自然になると云った茅の輪組み。

昔からそうしていると話す茅の輪は半日をかけて作ったそうだ。

チガヤは生長が早い。

一日でずいぶんと伸びる。

雑草刈りをするときには細心の注意をはらって刈り取っていたと云う。

話しによれば東山中地域で茅の輪潜りをしているのは小倉だけのようである。

この日、取材に来ていた針テラス情報館の人は「針村史」にもそう書いていたと云うが、山添村の切幡では黒住教の人たちが神明神社の鳥居に設えていることは存じないようだ。

小倉の人たちは夏祭りやと云っていたが、実際は夏越しの大祓いである。

かつては6月30日であった神社行事は、ずいぶん前に7月第一日曜日に移したそうだ。

随分前と云うだけに村人には夏越しの意味も判らなくなってきていると村神主は話す。

氏神さんを村に呼び起こすヒモロギは茅の輪の左横に設えた。

専用のヒモロギ棒を立ててサカキを括りつける。

神事は祓え詞、幣祓い、降神の儀、氏子揃って大祓詞奏上だ。



その次に宮司を先頭に神主、氏子が一列となって茅の輪潜りが行われる。

その際には一人ずつ配られた「水無月の 夏越の 祓ひする人は 千歳の命延ぶと云ふなり」の古歌を唱和しながら潜っていく。

まずは、本殿に向かって右回り、次は左回り、最後に右回り。

なんとなく逆回りのように感じたが、小倉ではそのような作法なのであろう。

そして、撤饌、昇神の儀で終えた夏越しは記念写真撮影に移る。

それから配られた人形(ひとがた)祓え。

患部をさすって祓いを終える。

人形は大晦日の大祓えを終えてとんどで燃やすと話していた。

一般参賀の村人の祓いそれからだ。

神主らの指示を受けて同じように茅の輪潜り、人形祓えをされる。

田の虫送りのときには多くの村人が来られるのだが、夏越しは2組の親子連れだけだった。

お父さんは小さかった子供のときから参賀していたと話す。

「そうしやなあかんもんや」と思っていると云うのである。



たまたま来られていたハイカー観客もありがたいことだと一緒に潜っていった。

(H26. 7. 6 EOS40D撮影)

アップロード不可

2015年01月12日 07時17分48秒 | つうしん
FC2WEB利用でアップロードしていた「ならグルグル散歩」。

容量なのか、リンクの多さなのか判らないが、アップロードに相当な時間がかかるようになって放置していた。

直前はいつだったのか忘れるぐらいの前である。

アップロードしてなければ宣伝に覆われて見えなくなる。

半年間も放置しておいたらそうなる。

画面にもそう書いていた。

仕方なく昨年の7月情報見出しだけをアップロードした。

そうすれば覆われた宣伝は消えた。

6月14日のことである。

8月情報もアップしようと思ってビルダーで更新しアップロード。

ところが返ってきたのはエラーである。

原因は掴めない。

一方、ジオシティーズの「ならグルグル散歩」はこれもまた大きくなった宣伝画像で見えなくなっていた。

知人からも指摘されて宣伝で見えなくなった辺りまで下げることにした。

枚数は多い。

下がった状態を確認しながら一枚、一枚訂正した。

時間はそうとうかかった。

昨年の真夏過ぎのころからそれが発生し、手を加えたのは11月も末になる時期だった。

アップデートするにはアンチウイルスソフトは一時的に無効にしなければならない。

そうしてアップロードする。

この日もそうしたのであるが、更新はされていない。

ファイルはアップロードされているのだが、ブロバイダ側では変化がないのだ。

ジオシティーズはヤフージオシティーズとなって6月9日にリニューアルされた。

それまで使っていたカウンターは提供されなくなったが、溜まっていた作品展ページをアップしたくなった。

すべてのファイルができあがってアップロード。

何度トライしても更新はされない。

原因が判らず、力尽きてやめた。

(H26. 7. 5 記)