マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

信貴南畑ハゲッショの神楽

2015年01月11日 09時33分44秒 | 三郷町へ
信貴南畑のハゲッショ神楽を再見したく、今年も訪れた三郷町信貴南畑。

夏至の日から数えて11日目になる日は半夏生(はんげしょう)。

だいたいが7月2日である。

夏越大祓いをされていた龍田大社の神社殿前には白い花をつけた半夏生が置いていた。

半夏生は先端部分の葉が徐々に白く変化するのだ。

花が咲けば梅雨も終わりのころになる。

龍田大社で行われる風鎮祭のことを「ハゲショ」若しくは「ハンゲショ」とも呼んでいるようだ。

県内では半夏生が訛って「ハンゲッショ」。

さらに訛って「ハゲッショ」と呼ぶ地域は割合ある。

信貴南畑も同じようにハゲッショと呼んでいるが、行事ごとをされる地域はどうも少ないようだ。

當麻・香芝辺りでは田植えを終えて梅雨の水の恵みに感謝して小麦と粳米を混ぜた搗いたハゲッショの餅にキナコを塗して食べていたようだ。

各家で作って食べた郷土料理は見ることもないが、當麻の道の駅で売っていた。

吉野町ではさなぶり餅と呼んでいたようだ。

二毛作が衰退した現代では民家におけるハゲッショ餅は作ることなく、橿原市のあるお店で販売しているとか、村起こしイベントで作られているようだ。

信貴南畑の素盞嗚尊神社で行われるハゲッショの神楽。

前年よりも1時間前に着くようにしていた。

神社が鎮座する山に上がる参道を登っていた。

そのときのことだ。

声が聞こえてきた。

村人の声でもなく、声の主は聞き覚えのある三郷町の坂本巫女だ。

遠くまで聞こえる坂本さんの声。

唱えていた詞章は御湯作法の最後のほうだった。

到着していたころには御湯を終えたばかりだった。

この年は坂本さんの都合もあって一時間早めたと云うのである。

二つの湯釜の前で三度行われる御湯が特徴の信貴南畑。

湯気がまだでていた。



御湯を終えたクマザサは狛犬の股下に入れていた。

昔は飼っていた牛に食べさせていたというクマザサである。

忌竹・笹束は終わったから燃やしてしまいたいけどと当番の人が長老に尋ねたが、結果は・・・。

「忌竹は構わないが、笹はそのままにしておけ・・・」である。

かつてあった宮座の一老の言葉に従う始末の仕方。

宮座は平成12年に解散されたが長老の言葉は重みがあるのだ。

御湯を終えた村人たちは参籠所に上がって直会をされる。

前年は6人だったが、この年は倍以上の参拝者になった。

昔は子供もやってきていたので「それ以上の倍ぐらいやった」と口々に話す氏子たち。

その場で坂本さんが神楽を舞う。



昭和6年生まれの長老が打つ太鼓に合わせているのか、逆に舞いに合わして打っているのか判らないが、太鼓打ちは「ワシの役目や」と云ってこの年も打っていた。

リズムは単調でドン、ドン、ドンと叩いていた。

小型の胴長太鼓は「昭和五十九年閏甲子歳八月張替 大阪市芦原駅前太鼓正張替」と書いてあった。

胴長にもうっすらと墨書がある。

その文字は「信貴山畑」だ。

信貴山畑は南畑の旧地名であろうか。

江戸時代は奈良奉行直轄の幕府・旗本領だった「信貴畑村」は明治22年に「西向村・櫟原村・椣原村・上庄村・梨本村・吉新村・三里村・白石畑村・平等寺村・下垣内村・鳴川村・福貴村・福貴畑村・久安寺村・椹原村・越木塚村・若井村・西宮村・椿井村」を集合した平群郡明治村(明治29年に改称されて平群村)になった。

平群郡には大和郡山の今国府・八条・馬司・池沢・椎木の額田部村も含んでいたそうだ。

太鼓にあった「信貴山畑」は現在の平群町信貴畑と思われ、三郷町の信貴南畑に対して「北畑」とされていたように思える。

何らかの形で両村が繋がっていたのではと、思ったのである。



鈴舞い、剣の舞を終えて参拝者一人ずつ、もろもろの穢れを鈴と剣で祓ってくださるありがたい神楽舞は男性、女性ともに、である。

祓ったあとも鈴舞い、剣の舞が行われる。

太鼓打ちの長老にはもう一度祓ってくださる。

このころになれば、直会の膳が配られてお神酒やビールでいただく宴に移るが、そのさなかにも続けて鈴舞い、剣の舞が行われる。

当番さんが膳を配る間も舞っていく神楽舞。

村のマツリの在り方に感動を覚える。

舞いを終えてお一人ごとに身体健勝の祓えたまえ清めたまえのお祓い。

参拝者一人ずつにこれを繰り返すのだ。

太鼓打ちの長老は食べる間もなく坂本さんが舞っておれば太鼓を打つ。



下働きされていた婦人らにもお祓いをされてようやく終了した。

その間の神楽舞はおよそ30分間。

坂本さんは汗びっしょりになった。

体力が要るお祓いに、普段は体力作りにフィットネスに通っていると話す。

坂本さんの話しによれば、川西町の下永・八幡神社で行われるお神楽は参拝者が長い行列になると云う。

延々ぶっとおしの2時間を舞うと云うのだから相当な体力が要るのである。

そのような話しをしてくださった坂本さんは急がなければならず退席された。

その後も宴が続く信貴南畑。

ハゲッショはケツケとも呼ぶ日。キナコを塗したナエサン(苗)を竃の蓋の上に供えていたと話す。

かつてケツケヤスミ(毛付け休み)・アメヨロコビ(雨歓び)・ジュンキヨロコビ(順季歓び)もあったようだ。

(H26. 7. 2 EOS40D撮影)

小泉町不動院のアイゼンサン

2015年01月10日 09時12分19秒 | 大和郡山市へ
昭和62年に発刊された大和郡山市文化財審議会編の『ふるさと大和郡山市歴史辞典』によれば、小泉町北之町にある不動院は京都の真言宗醍醐寺派三宝院の末寺。

寛文十二年(1672)僧光順の創立といわれる。

本尊は木造愛染明王坐像。

境内にある地蔵堂は、明治七年、富雄川に架かる橋の西詰にあったものを移したとある。

不動院で「アイゼンサン」が行われていることを知ったのは送迎患者のYさんが云った言葉である。

「7月1日の10時から祭りがあって、参拝する子供たちにお菓子が配られる」と話していた。

大和郡山から西の斑鳩町へ抜ける国道9号線。

富雄川に架かる橋を渡って信号右側に建つ不動院。

境内にある石造の十三重塔が目に入る。

普段から通る道ではあるが、気にもとめていなかった。

地蔵堂もあるので、地蔵盆も行われていることは知っている。

たしかテントを立てていたかと思うが、在所にはいつも人の姿が見られないために、前もって確認することもできなかった。

聞いていた日付けが間違っていなければ、この日だろうと思って出かけた。

車を付近に停めさしてもらって立ち寄った不動院からはお念仏のような声が聞こえてきた。

お堂には住職がおられるのであろうと思って近寄った。

参拝者はお堂におられるのであろう。

声が聞こえてくるが人の姿が見当たらない。

不動院のご本尊は木造愛染明王坐像。

思わず手を合わせたお姿である。

立って拝見していたらお堂から女性が出てこられた。

訪問した理由を伝えたところ、法要であると云う。

婦人は住職の奥さんであった。

数年前から身体をいわした住職は入院加療中の身であった。

法要はそんな身体であっても病院を一時的に退院させてもらって行っていると云う。

ご真言を唱えて般若心経。

「おんまからぎゃばそう」と聞こえてくる。

一時的退院のお勤めは1時間余りの法要。

数年前にご自身が収録されたカセットテープの音源に合わせるお勤めは痛々しくも感じる。

不動院は檀家をもたない寺院である。

かつては信者さんが参りに来られていた。

護摩木を焚いて護摩供をしていた。

信者さんは子供も連れてやってきた。

そういえば聞こえてきたカセットテープには子供の声や賽銭を投入する音もあった。

法要を終えてお菓子を配っていたと云うのは、Yさんが話したその様相であったのだ。

法要を終えた住職は病める身体であるにも拘わらず不動院に纏わるお話しをしてくださった。

ありがたいことである。

不動院は寛文年間の建立であると判ったのは西南にあった鬼瓦である。

幕末時代に屋根が落ちてお堂を改修する際に見つかった年代記銘の鬼瓦は西南だけであったそうだ。

たしか棟木もあったと指をさされたが、拝見するには至らなかった。

小泉町には諸寺があるが、いずれも寛文年間に建てられたと話されたが調べてみれば、小泉城の城主(小泉四郎)時代にもあった。

戦争が終わって寺を維持するのが精いっぱいだったというご高齢の住職。

不動院の本来は祈祷寺。

行者さんや修験者の寺であった。

不動院には祈祷師が居て、祈祷の鑑札を発行していた元締めであった。

いつしかそれもできなくなって寂れていったと云う。

不動院の北側に池がある。

その西側の高台に建っているのが臨済宗大徳寺派の慈光院である。

石州流茶道の祖である小泉藩主片桐石州が父親の片桐貞隆(賤ヶ岳の七本槍の一人に挙げられる片桐且元の弟)の菩提寺として寛文三年(1663)に創建した。

住職の話しによれば、元和九年(1623)、小泉藩初代藩主に就いた片桐の殿さんの家来たちが待機する地が不動院であったと云う。

小泉町は片桐の殿さんの支配下城下町。

今でも古き佇まいをみせる内堀がある。

さて、不動院のご本尊は厨子に納められた木造愛染明王坐像と前述したが、住職の話しによれば、西大寺の愛染明王坐像と同じ作者が製作したと伝え聞いていると云う。

ご本尊の胎内に製作仏師の名や年代記銘があったそうだ。

西大寺の愛染明王坐像は宝治元年(1247)に仏師善円が造ったとされる重要文化財。

真相はいかにである。

本尊の脇侍には数々の仏像が安置されている。

右に不動明王像、大日如来金銅仏、弘法大師像。

左には赤鬼・青鬼を配置した行者像、馬に乗る馬頭観音だ。

いずれも愛染明王と同様にふっくらと優しいお顔だちである。

一年に一度のご開帳であるアイゼンサンの日。

普段は扉を閉めている。

拝見したいと願われても一切応じることのできない身であることを記しておく。

(H26. 7. 1 EOS40D撮影)

龍田大社夏越大祓式

2015年01月09日 07時22分42秒 | 三郷町へ
茅の輪潜りがあると知って久しぶりにでかけた龍田大社。

夏越大祓いは平成25年から始めたという。

先代宮司の親父さんは引退されて名誉宮司に、継いだ上田禰宜は今年の4月から正式に宮司になった。

昨年が始めての茅の輪作り。

その年の茅は大和川で採ってきたが、大雨の影響で泥まみれだった。

水洗いするなど奇麗にするには三日間もかかったと話す。

初めてのことなので氏子の支援は二人だった。

茅の輪を作るには丸一日がかりやったと云う。

今年の夏越大祓いは氏子総代に案内されて大勢の氏子らがやってきて作ったのだ。

およそ2m以上にも組立てた茅の輪作りは総代ら11人が支援する作業だったので半日でできあがったと云う。

ちなみに今年の茅の採取地は勢野北口。

宅地造成で運ばれた土に混ざっていた「ヨシ」だと話していた。

予め受け取っていた人形に名前・数え歳を書いて祭祀受付に祓い料千円を授けて参列する。

今年は式典を終えて貰って帰る小型の茅の輪も用意したと云う。

斎場は拝殿前の境内だ。

斎壇には一般参列に用意した人形もあれば、中央に奉書で包んだ二品もある。

中身は見えない。

左側にあるのはキリヌサのようだ。

式典は茅の輪後方に並んだ参拝者に人形、キリヌサを配られて始まった。



始めに大祓えの詞を奏上される。

次は、参列者の人形祓えだ。



人形で患部をなでて、ふっと息を吹きかける。

そしてキリヌサを撒く。

参列者が祓った人形を封に入れて神職に返す。



そのときに気がついたご婦人の姿。

普段着姿のご婦人と若い女性は、なんと三郷の坂本さん親子だった。

二人の女児はやがて巫女職の後継ぎになる子供さんだ。

「こうして村の行事に参列することがとても大切なのです」と坂本さんは話す。

ここで、突如として始まった祓えの作法。

奉書に包んだ桃の木をバキバキと折られたが、写真では判り難い。



次の布切れを引き裂く作法は8回。

水平に構えてぐっと引き裂く。



繰り返し、繰り返し、細くする。

これもまた一瞬の作法である。

呼吸を読み取ることは難しい。



折った桃の木と引き裂いた布切れは参拝者が祓った人形とともに蓆に包みこむ「はらえつもの(祓えつ物)」の儀式である。

大祓えの詞に祓えつ物の儀のことが書かれてあると云う。

祓えつ物は式典を終えてから大和川に流すそうだ。

龍田大社の茅の輪潜りは「はらえつもの」の儀を終えてからである。



茅の輪の正面に立って軽く一礼して潜る。



潜れば左廻りする。

廻って再び正面に立って茅の輪を潜る。



次は右廻り。

ぐるりと旋回して再び正面に立って茅の輪を潜る。

次はもう一度左に廻って正面に立って潜り、まっすぐ神前に進みでて、2礼2拍手、1礼をされて参拝するという作法である。

まずは神職らが「水無月の 夏越しの 祓いする人は 千歳のいのち のぶというなり」の古歌を唱えながら潜る。

参列者の人数は多い。2班に分けての茅の輪潜りは一列終わって次の潜りをする大きな輪になった。

三度潜って本殿に頭を下げる茅の輪は一列になる。

茅の輪潜りはどこでも同じだと思うが、龍田大社は氏子たちがぶつからないように安全柵で仕切りをしていた。

とにかく多い参列者の人数。

2班に分けての茅の輪潜りは一列終わって次の潜りをする大きな輪になる。

2班の先頭はいずれも総代さんらだ。

坂本さんの旦那さんも潜っていた。



後続についた坂本さん親子も潜っていく。

この日は巫女の出仕ではなく、一般氏子としての参列である。

2組が潜るには時間もかかる。

古来より茅には浄化の力あるとされてきた。

特に伊勢地方が有名な蘇民将来に由来する神話である。



茅の輪を潜ることによって心身を清めて無病息災を願うのである。

茅の輪潜りを終えれば拝殿で風鎮祭前祝の参賀に移る。



茅の輪の横の桶に入れた茅は持ち帰って家内安全・無病息災を祈って玄関に飾ると案内されていた。

多くの参賀者は案内を読まれて持ち帰っていった。

(H26. 6.30 EOS40D撮影)

龍田大社半夏生の日

2015年01月08日 07時59分01秒 | 三郷町へ
夏至の日から数えて11日目になる日が半夏生(はんげしょう)で、だいたいが7月2日。

夏越大祓いをされていた龍田大社の神社殿に白い花をつけた半夏生が置いてあった。

半夏生は先端部分の葉が徐々に白く変化する。

花が咲けば梅雨も終わりのころ。

龍田大社で行われる風鎮祭を「ハゲショ」若しくは「ハンゲショ」とも呼んでいるそうだ。

県内では半夏生が訛ってハンゲッショからハゲッショと呼ぶ地域がある。

當麻・香芝辺りでは田植えを終えて梅雨の水の恵みに感謝して小麦と粳米を混ぜた搗いたハゲッショの餅にキナコを塗して食べていたようだ。

各家で食べられた郷土料理はおそらく見ることはないが、當麻の道の駅で売っていると聞く。

吉野町ではさなぶり餅と呼んでいたハゲッショモチ。

二毛作が衰退した現代では、民家でハゲッショ餅を作ることもなくなり、橿原市のお店で販売しているとか、村起こしイベントで作られているようだ。

(H26. 6.30 SB932SH撮影)

佐田のイノシシ肉

2015年01月07日 07時15分41秒 | もらいもの・おくりもの
田畑の作物を食い荒らすイノシシ被害は各地で聞く。

高取町の佐田もそうであった。

イノシシが出没してサツマイモを食い荒らす。

田んぼに入って荒らす。

稲田の品種はヒノヒカリ。

温かい九州から広がって奈良でも作付けをするようになったと云う。

昨今はアライグマまで出没するようになったと話すYさんたち。

この日のさなぶりの場には鉄砲打ちが現れた。

何人かの鉄砲打ちは認可を受けた人たちで束明神古墳がある山を囲むようにイノシシを追っているという。

そんな話をしていたら、漁師が仕留めたイノシシ肉を食べるかと云われた。

仕事場の冷蔵庫に残しておいたシシ肉は3本。

ありがたくいただいた。

それから数日後のシシ肉は我が家の食事になった。

脂がのっているシシ肉は分厚く切った。

それをすき焼きに入れて食べた。

とても美味かったが、家族3人では食べきれない量。

残ったシシ肉は翌朝のすき焼きうどんにも入れた。

うどんすきの具材はシシ肉だけ。

贅沢な朝食になった。

(H26. 6.29 SB932SH撮影)

森のさなぶり

2015年01月06日 07時45分32秒 | 高取町へ
高取町のさなぶり行事は同一日に佐田の他、薩摩、吉備、でも行われている。

森は佐田とともにイノコ行事が行われている村である。

さなぶりに村の豊作を祈願する地は素盞嗚命神社。

佐田と同じようにここでもかつては煮たソラマメを供えていた。

上手く炊かないとマメ皮が弾けて崩れると云うマメ御供。

炊き方によってマメ皮が弾けて崩れる。

たいがいの奥さんは難しいから炊くことも供えることもしなくなったと長老は話す。

ソラマメを炊くのは区長(総代)の奥さんの役目。

失敗したら難儀なことになったと話すソラマメは甘う炊いた。

とても美味しかったソラマメは参拝する子供の楽しみだったと述懐される。

月当番の人が本殿前にお供えをして各燈籠にローソクを灯す。

ブルーシートを敷いた上にゴザ敷き。

その場に並んで佐田と同様に2礼、2拍手、1礼をして参拝を終えた。

どの村でも神職は出仕されないさなぶり行事であるが、薩摩だけは唯一。

小嶋神社の宮司さんであるが、薩摩在住であることから出仕されていると云う。

区長の挨拶を経て乾杯をする。

下げたお神酒はおつまみでいただく。



村の田植えが終わってひと息つける「さなぶり」の宴の話題は村で起こった事件になる。

アライグマは見ていないがタヌキはいる。

イノシシは猟師が60頭も捕ったそうだ。

その捕ったイノシシは痩せていた。

自然しだいの天からの恵みが水。

吉野川の分水を田んぼに引くが一割ぐらい。

大方は天の恵みの雨だと話す。

これが鳴いたら水替えをしなければと云ったのはⅠさんだ。

鳴いた鳥はホトトギス。神社上空を鳴きながら飛んでいった。

直会が始まるころに遅れてこられた男性がいた。

どこかで見たことがあるような・・・。

数分間、記憶を辿って思い出した。

奈教附小の自然観察会に来られていた奈良野鳥奈良支部のKさんだった。

田植えを終えて大急ぎで直会の場にやってきたと云う。

在地が森だったとは・・・森の出合いで懐かしい観察会の話題に話しが弾む。

1時間ぐらいの直会は村の相談ごともある。

しばらくその場に佇んでいた。

気になったのは拝殿に掲げていた絵馬である。

高取町森の素盞嗚命神社には3枚の絵馬を拝殿に掲げていた。



氏子たちのお許しを得て撮らせてもらった森最古の絵馬は享保十年(1725)に奉納された。

絵馬は剥がれているので判断は難しいが、兜を被った武者が虎と戦っているように見えた。

他に2枚の絵馬があったが、慶應と明治。

「村の歴史やな」と云った氏子たちとともに絵馬を拝見していた。

直会を終えて帰り際、住民が薩摩の「ゴンザ」を見たかと云うのである。

森でも「月当番が炊いて直会にするんやけど、今年はないなぁ」と云った。

野鳥観察をされているKさんが云うには高取町の雛祭りに母親ら婦人会が「ゴンザ」を炊いて観光客にふるまったそうだ。

具材はコンニャク・サツマイモなどにシシ肉で炊いたもの。

「とん汁みたいなものや」と云っていた。

特別なこともなく淡々としている村行事の「さなぶり」は各地で行われているが、村の風習を知ることにもなる。

月当番だった婦人は庚申講でもある。

この日に参拝された際には庚申石にオヒカリを立てていたのであった。

そういえば隣村の薩摩にも神社下に庚申石があった。

講中の存在が気にかかる。

(H26. 6.29 EOS40D撮影)

薩摩のさなぶり

2015年01月05日 07時17分42秒 | 楽しみにしておこうっと
「さなぶり」なら市尾でもこの日にしているはずやと話した佐田の人。

訪れたのは隣村の高取町の薩摩である。

到着したときは、神職による神事が始まっていた。

ご挨拶はできていないから鳥居下から拝見していた。

誰がきよったんやろかというような感じで見降ろす村の人。

神事を終えて取材目的を伝えたら、登ってもらってもよかったのに・・と云われたが、来年の楽しみとしておこう。

神饌を供えて斎行された神職は下小島・小嶋神社の宮司さんだ。

4月1日に行われる丹生谷・船倉弁天神社の御田祭でお世話になったことがある。

のちに聞いた話しによれば、宮司の在地が薩摩だったのだ。

神事は祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌だった。御供を下げて直ちに下にある公民館内に移動して直会が始まった。

立ち去る際に伝えられた近隣の「さなぶり」行事。

森では16時で、吉備は17時だと云った。

参考にしておこう。

また、隣村の兵庫では夏祭りがある。

今年は7月13日の日曜日だったそうだ。

兵庫のマツリは派手でゴクマキがある。

撒かれるモチには当りの番号があって取り合いになるそうだ。

ひっそりとした春日神社でしばらくは佇んでいた。

境内に数基の燈籠がある。

うち一基に天保十一年(180)に建之された燈籠があった。

社殿は立派な造りである。

(H26. 6.29 SB932SH撮影)

佐田のさなぶり

2015年01月04日 07時07分01秒 | 高取町へ
田植えを終えて村の豊作を祈願する「さなぶり」行事を取材している。

この日に訪れたのはイノコ行事や春日神社のヨミヤ、下宮さんのお祭りを拝見した高取町の佐田である。

二毛作をしていた時代は7月に入ってからであったが、今では6月末の日曜日である。

すべて田植えを終えたら村の豊作を祈願する。

「さなぶり」行事をされる春日神社は束明神古墳がある地だ。

古墳を巡るツアーは大勢の団体客が訪れるが、「春日神社の参拝はしませんな」と云う。

そこに立っていた燈籠には「嘉永四年(1851)二月吉日」の刻印があった。

寄進者は3名。

いずれも「的場」姓である。

年番さんが本殿にお供えをしてローソクを立てる。



集まった村人たちは拝殿前で横一列に並んだ。

総代が前に出て2礼、2拍手、1礼の作法で祭典を終えた。



神職は登場することもなく、ただそれだけである。

20年以上も前は総代の奥さんが炊いたオタフクマメを皿に盛って供えていた。



参拝を終えてオタフクマエを肴に下げたお神酒を飲んでいた直会。

今では豆を炊くこともなく市販のおつまみをいただく直会になった。

場は和やかな雰囲気で盛りあがる。

昨今はイノシシが出没する佐田の里。

直会の最中に鉄砲を持った男性が現れた。

イノシシ撃ちの猟師である。

サツマイモは喰い荒らすし田んぼは穴ぼこだらけ。

アライグマ・・・そんな甘いもんじゃない。

山へ駆けあがっていった猟師は三方から追っているという。

そんな姿を見た村人たちは、鉄砲で追うシシマツリがやってきたと云った。

直会をされていた拝殿。



その場に置いてあった古い消防ポンプに目がとまった。

消防団の庫に置いてあったが手狭になったことから拝殿に移したと云う。

消防ポンプは手押し型、江戸時代後期に各地で採用された「龍吐水」と呼ばれている道具である。

一節によれば享保年間にオランダから輸入されたのが始まりだとか・・・。

これまで奈良市上誓多林や山添村切幡で拝見したことがあるが、佐田の製造会社・年代は判読できかった。

おそらく近代のモノだと思われるが、貴重な民具史料である。

(H26. 6.29 EOS40D撮影)

マルちゃんごっつ盛りソース焼きそば

2015年01月03日 07時37分35秒 | あれこれインスタント
行事時間に合わせて昼食を摂らずに家を出た。

食べる場は車中。

ポットに入れていたお湯を注ぐカップ麺は焼きそばだ。

3分待って捨てるお湯。



液体ソースを絡めてキューピー社製のからしマヨネーズを袋から押しだす。

マルちゃんごっつ盛りソース焼きそばはその名の通りのごっつ盛り。

麺は130gもある。

内容量は多いが麺の量。

キャベツなどは入っているが、それほどでもない。

とにかく麺の量が多いのだ。

ゆっくり食べている間もなくお腹に詰めていく。

(H26. 6.29 SB932SH撮影)

上居のさなぶり

2015年01月02日 09時56分34秒 | 明日香村へ
6月末に「さなぶり」行事を行っていると聞いて出かけた明日香村の上居(じょうご)。

この日の午前中は大和の山々がぽっかり浮かんだいい日和だった。

出かけた時間帯は午後でくすんでいたが、遠望する向こう側は二上山、手前は甘樫丘が見える。

右上は生駒山辺りになる。その間の先にうっすらとある山々は六甲連山だ。

村の鎮守さんである春日神社参道から拝見した氏子さん曰く、「ここは穴場やな・・・」と呟いた。

田植えが終われば春日神社に参って豊作を祈願する「さなぶり」行事。

祭典日は不定、総代ら村役によって日程を決められる「さなぶり」行事である。

会所では村役がススンボの竹を細工していた。

ハカマを取り除いて幣を挿せるように先を割っておく。

奉書を巻いて水引で括る。

御湯の作法に用いられる笹束は2本作っておく。

昔は子供もやってきたと云う「さなぶり」行事。

6月と11月にしていた気がすると話すが、11月は何であろうか。

県内各地でみられる「さなぶり」行事は田植えが無事に終わって氏神さんに報告する行事だが、もしかとすれだが、11月は稲作が実って刈り取り。

豊作に感謝する新嘗祭ではないだろうか。

平成19年に景観ボランティア明日香が聞き取り纏められた『明日香村上居地区聞取り調査報告』書によれば「さなぶり」行事は飛鳥坐神社の飛鳥宮司さんに“米があんじょうできるようみのたきで祈祷してもらう”とある。

湯釜の湯を沸かして米と酒を入れて混ぜて、笹でお祓いをするのである。

その史料に書いてあった11月の行事は稲刈りを終えた「亥の子」であった。

ぼた餅を作って仏壇に供えると書いてあったが、神社行事は書かれてなかった。

この日に参拝された人たちは27人。

村から求められて柿栽培などを支援している景観ボランティア明日香の人たちも参加するが、実際の村人は団体よりも少ない。

「ほぼ限界集落」になったと云う上居。

団体の氏子入りはできないが、行事の参列はできるようにしたそうだ。

春日神社が鎮座する場は山に登った高台だ。

参道から六甲山まで見えるが、行事が始まる時間帯はもやもやになった。

午前中は鮮明に見えたという眺望であったが、どんよりとした雲が移っていた。

雨が降りそうな気配である。

春日神社の鳥居横に手水鉢がある。

暗がりであったが、「寛政九年(1797)十二月吉日」と刻まれていた。

神饌を供えてローソクに火を灯して祭典が始まった。

御供は洗い米、塩、酒、ニンジン、キョウリ、ナスビ、カボチャにスイカ。

生タマゴやスルメイカもある。

秋のマツリもされている御湯を作法されるのは飛鳥坐神社の飛鳥宮司。

ススンボの幣で湯を掻き混ぜて笹束で湯煙をあげる。



神さんを勧請する作法であるが、わずか数秒間で終える。

湯に浸けた笹をもって参拝者にお祓い。

いわゆる湯祓いである。

続いての祓えの儀、祝詞奏上。

そして、大祓えの奏上となる。

祝詞奏上は長文。

その間の動きはほとんどなく、祭典は25分間で終えた。

大祓えの祝詞に「罪を祓う」とあった。

「アマツカミはスサノオことヤサカさん。天に昇って悪いことをした罪。田んぼの畦まで壊した」と解説される宮司。

「毛はもともと頭の毛。稲穂にはノギ(芒)がある。稲穂を切れば毛が切れてハゲになる。お米を育てるとき、悪いことが起こらないように守ってあげる」とも。

すべての田植えが終わって豊作を祈願するお祝いでもあると云う。

かつては麦作もしていた。

二毛作時代の「さなぶり」。

田植えが終わるのは7月だったそうだ。

収穫した籾を米にするのは12月。

遅い地域では12月の第二週目になったと云う。

村じゅうでウスヒキをしていた。

いつしか動力で稼働するウスヒキになった。

電気の線は太くて重たくてとても長かった。

そのウスヒキの道具は持ち廻りで使っていたという。

唐箕は別にあったとも話す村人たち。

稲刈りを終えたときも「さなぶり」と呼んでいた。

上居では豊作祈願に対して実りの祝いも「さなぶり」と称していたのである。



拝殿前に三つの砂跡があった。

左右は門松立ての痕だが、中央の砂跡が気になった。

氏子の話しによれば、年末に門松を立てた際に中央へ平らな砂を敷いたと云う。

それは「砂の参道」で神さんが通る道だと云うのだ。

「砂の参道」は本殿前にも敷いたそうで、上居寺にもしていると云う。

これまで県内各地の砂の道撒きや砂モチと呼ぶ砂盛りなどの風習を調査してきた。

大和郡山市、天理市、田原本町、奈良市で拝見および聞取り調査をした神さんが通る砂の道であるが、上居では集落までは繋げなかったようだ。

上居にあった砂の存在を拝見して明日香村内の状況も調べる必要性が生じた。

ちなみに上居の「さなぶり」行事を終えた飛鳥宮司は他の地区も行かなくてはならない。

忙しく駆け回る宮司は足早に去っていった。

翌日の日曜日かどうか判らないが、細川や阪田でもしていると村人は話していた。

(H26. 6.28 EOS40D撮影)