マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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野遊び③in正暦寺菩提山付近の里山

2016年04月21日 07時44分53秒 | 自然観察会
6月第一日曜日は大和郡山市で一斉に行われるクリーンキャンペーンがある。

地域ごとで行われる地域の清掃日。

自治会役員や班長は段取りなどに動き回る。

住まいする地区は入居した時代からほぼ全員が参加してきた。

清掃日は強制参加でなく自由参加。

やむを得ない事情があれば欠席している。

朝8時半から始まって、草刈りや流れた水路の泥を取り除いて袋に詰める。

集める場所は指定地だ。だいたいが9時半過ぎに終えるが役員らはゴミ収集車が運ぶまで待機する。

泥の収集はほぼ10時過ぎだが刈った草の収集は昼過ぎになる。

班長を務めていた年は収集車が運び終わるまでどこへも出かけることができない。

この日は今年度3回目の野遊び自然観察会。

集合時間は9時半だったが絶対的に間に合わない。

遅れて行くと予め伝えていた。

事前にお願いしていた正暦寺の臨時駐車場に着いたのは10時半過ぎ。

すでに観察は始まっていた。

下見していた場所に向かおうとしたら声がかかった。

サポータースタッフの家族だった。

もしかとすれば逆ではと思ったらその通りだった。

石垣辺りでタゴガエルを捕まえたそうだ。

観察を始めていた集団は15人の親子さんに8人のサポータースタッフがついていた。

ここら辺りに生息するカエル類のすべてはタゴガエルになるそうだ。

トイレ前に咲いていたヤマボウシを拝見して再出発だ。

この日は昆虫がなぜか少ない。



少ないといってもテングチョウはやたら多い。

多いと云っても昨年ほどでもない。

見慣れないチョウが飛んできた。

飛んで開いていたときの翅の内側は綺麗なオレンジ色のように見えた。

地面にとまっても開いてくれない。

シャッターを押したとたんに飛び去ったチョウはどうやらヒオドシチョウである。



もう一つはキンモンガ。

じっとしていたので撮りやすい。



もう一つは巣作りしていたハチ。

アシナガバチの一種だと思ってネット図鑑で坊主捲り。

巣の形態から見てキボシアシナガバチ若しくはコアシナガバチのようだ。



もう一つは昆虫仲間のサワガニのオス。

子供が捕まえた沢に生息するカニだ。

素揚げで食べたことがある。

あのバリバリ感が懐かしい。



下見の際に聞いていたイノシシアラシ。

電柵を突き抜けて畑に突っ込む。

そういえば榛原石田の住民もそう言っていた。

当地では高さ2m以上のシカ除け柵を立てた。

であるが、跳躍力があるシカは柵を飛びぬけて畑を喰い荒らすので難儀していると話す。

菩提山町隣の高樋町の農家の人が話していた現象。

夜間に鳴くシカの声。

翌朝に見た稲苗は食い荒らされていた。

面白いことに形は四角形。

綺麗なものだと思ったそうだ。

奈良公園の芝刈り機はシカ軍団。

芝生を食べる状態は横一列になって食べていた光景を見たことがある。

同じように何頭かのシカが居るのだろうか。

写真はタケノコを食い荒らしたイノシシアラシの痕跡だ。

土に埋もれているタケノコの匂いを嗅いで食い荒らす。

動物本体は見ることなかったが野鳥は多かった。

コゲラ、サンコウチョウ、シジュウカラ、オオルリ、ホオジロ、ウグイスなどだが、いずれも鳥だけに撮り損ねた。

ピッピーピリチョイと聞こえたオオルリが鳴く。

ここより遠く離れた大樹に止まっていた。



その姿は双眼鏡でとらえられるが、私がもつ望遠レンズでは届かない。

背中が綺麗なルリ色ははっきりと見えたのが嬉しい。

記録はできなくとも記憶は残る。

この辺りではいろんな野鳥が飛び交う。

遠くで鳴く野鳥もいる。

耳を澄まして聞けば、サンコウチョウの鳴き声だった。

杉林のなかにいることは確かなのだが見つけられなかった。

野鳥より多くの観察ができたのは植物だ。



野生のアスパラガスといわれる蕾状態のシオデがあった。

塩茹して食べたくなるが・・・。

5月の初めのころ。

旧都祁村のある地域にはたくさんあるらしいとKさんが話していた。



昨年と同じ場所にあったツチアケビ。

黄色い花が咲いていた。

ツチアケビが寄生するナラタケ菌がまだ土のなかに残っているようだ。



白い花のウツギ。

蜜を吸う小さな昆虫がいるが・・何者だ。



イチヤクソウは、一週間経ってもまだ蕾だった。



ウツボグサは魚のウツボに似ているわけではなく、矢を入れる用具の「靫」である。

どことなく似ている姿だ。



白と淡いピンク色の小さな花のウメモドキ。



ヤブムラサキの花。

どちらも小さい花で、風に揺られて撮り難い。



これは下見でも見たショウジョウバカマのムカゴ。

一週間の差では成長具合は判らないが、下見会においても学習したから、自信を持って覚えられることだろう。



これはミヤコアオイ。

当地での観察会は十数年間。

始めてお目にかかる。



葉はカンアオイのような文様はないが、花はまったく同じように見えるミヤコアオイ。



カンアオイの花が開くのは秋ごろだが、ミヤコアオイは全開していた。

昼食を摂った場所付近に2本のササユリが咲いていた。

明日ぐらいには開くであろう。

ササユリの葉は隣にあった笹の葉とよく似ている。

葉に筋があるか、ないかで見分けられる。

もちろん茎はまったく様相が違うから見間違うことはない。

ササユリは新芽が出た年には花を咲かせない。

2年目、3年目になってようやく花をつける。

花泥棒に見つからないよう、祈るしかない場所に咲いていたササユリは大切にしてもらいたいものだ。



咲いている付近にヤマビルを見たとウメちゃん先生が云った。

ジュクジュクしている処に生えていたササユリ。

長靴を履いていてもヤマビルは侵入する。

子供たちは危険なので遠目で見てもらおう。

これは帰路に拝見した花後のムロウテンナンショウだ。

ホオジロ、ウグイスの鳴く声を聴きながら戻った道中に吊るし干しをしていた民家がある。



タマネギではなくニンニク干しだ。

「干す」をテーマに撮っておいた。

(H27. 6. 7 EOS40D撮影)

藺生葛神社の上遷宮

2016年04月20日 10時24分30秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
奈良市藺生町(いうちょう)は旧都祁村大字のひとつ。

藺生は訛って「ゆう」と云う人もおられる。

5月初めに天理市山田町で田植えをしていた家族に出合う。

田植え機を操作していた男性。

お互いが顔を見合わせてどこかで見たことがあると思いだす。

ときおり行事取材に訪れる藺生町の人だった。

20年に一度に行われるゾーク(造営)に先だって仮宮に遷した神さんを新築した本殿に戻る。

上遷宮の儀式に是非来てもらいたいと男性Nさんに願われて村行事に訪問する。



拝殿前に掲げた幕は20年前に行われたゾーク(造営)記念に奉納されたものだ。

ゾーク(造営)の祭典(上棟祭)は今年の秋に行われる。



槌に大きな弓・矢がある。



見本に残してあった槌・弓・矢も並べていた。

気になるのは槌の紋様。

打つ部分の絵柄はごーさんの宝印。

すぐ近くに真言宗古義派・青龍寺がある。

同寺では正月初めに祈祷される「オコナイ」行事がある。

版木で刷ったお札をウルシ棒に挟んで奉り祈祷する。

同日は神社前にカンジョウナワを掛ける。



写真はこの日に撮ったものだが、隣村の小夫嵩方との境界にも掛けると聞いているが未だ拝見できていない。

それはともかく寺との関係が深いと思われる槌の紋様は奈良県内の数カ所で見たことがある。

上遷宮が行われる時間帯は夜8時。



この日の朝は葛神社・鳥居前に新設した石橋の渡り初め式を行っていたという。

石の橋は村の人が寄進された。

平成19年より務めている村神主がキリヌサを撒いて祈祷したそうだ。

今年秋に行われるゾーク(造営)を記念に葛神社の略記パンフレットを製作する予定だ。



そのパンフレットに載せる『藺生之庄之祭礼頭之次第』を村人に公開された。

文明六年甲午(1474)十一月九日始之・・より墨書された入頭人の名は昭和15年(1940)まで467年間に亘って延々と記されていた。

元和時代(1615~)までの表記は「入トウ」であったが寛永二年(1625)より「入頭」になっていた。

入頭人の名が判読できた文字に「長吉丸」とか「ちゃちゃ丸」がある。

幼名であろう。

いつの時代かメモ書きを失念したので覚えていないが女児の入頭もあったようだ。



入頭制度は明治38年まで続く。

その後の明治40年10月28日、村座に改正されて大字上・下・並松(なんまつ)の三垣内より一人ずつ選ばれる村神主制度になった。

制度は大正年間に社守(三月初午に社守交代式がある)名に替わり現在に至る。

明治・大正時代ともなれば先代らの名も書いてある『藺生之庄之祭礼頭之次第』は全三巻。



昭和47年に表装を貼り直したようだ。



「文明六年甲午(1474)十一月九日始之并オキテ  一、トウノコトヰゝ(ノ)ツヰトナミタリトテモソノイエニヒトツイトナマス(ツ)ワミナオツヘシ 一、イトナミヰリノトウニワカケコマアルヘカラス 一、コノホカオキテヲソムクヘカラス カタクコノオキテヲ サダムモノナリ 大ろう(太郎) ケン二ろう(二郎)マスイシ ケンシチ ニシノサエモン五ろう(五郎)ノ サウリヤ アタラシノ チフノ カトノ □□(太夫) キクマツ ココ□□(太郎) 二ろう(二郎) キタウラ ヲクノ コンヤウ フチソノ ・・・・」

<要約> 「始まりに併せて頭のことを云う 営みたりとてもその家に一つ 営みは皆するべし 一、営み入りの頭に訳があるべからず 一、この他、掟を背くべからず 固くこの掟を定むものなり・・・」
 
つまり、座の頭入りの名を代々書き継いできた祭礼頭之文書である。

文書は文明六年より、享禄、天文、永禄、天正、慶長、元和以下、江戸時代を経て明治、大正、昭和時代まで連綿と書き続けてきたが、先の大戦の開戦に伴うように途絶えている。

藺生葛神社は出雲建雄神と菅原道真公の2神を祀ると村神主は話す。



社殿を建て替えるために神さんは拝殿に設えた仮宮に遷されていた。

平成26年7月8日、本殿建替え安全祈願祭を経てその夜に下遷宮された。

今夜は美しくなった本殿に戻られる。

始めに行われるのは仮宮神事。



修祓、宮司一同一拝、仮宮祝詞奏上、遷座乃儀である。

遷座乃儀は一切の電灯を消灯する。



暗闇に浮かぶのは風除けした一本のローソク火だけだ。

「ヲーー」と警蹕を発声しながら神さんがお戻りになられる。

遷幸乃儀は主神に菅原道真公。

厳かに斎行される。



本殿に戻られたら点灯されて献饌乃儀が行われる。

続いて本殿に向かい斎主による祝詞奏上。



玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一同一拝、一同退座されて終えた。



氏子らがいうには今年の秋には藺生の葛神社以外に白石の国津神社や小山戸の山口神社もほぼ同時期にゾーク(造営)をされるそうだ。

(H27. 6. 6 EOS40D撮影)

藺生のサブラキ

2016年04月20日 10時10分53秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
青龍寺から葛神社へ向かう道は田園が広がる。

先月末にはすべての田植えを終えて「毛掛け参籠」が行われた。

神社に参って村の田植えが終わったことを神さんに報告する村行事だ。

田園を見ていたとき、白いモノが目に入った。

竹に挟んだ白いモノは正月初めに祈祷したごーさん札。

田植え始めに田主が立てる。

これを当地では「サブラキ」或は「サブラケ」と呼んでいる植え初めの在り方。

平成22年にその様子を取材した男性Tさんは昨年に亡くなられた。

植え初めの田に12本のカヤを挿して2房のフキダワラを置く。

男性は葛神社にも2房供えていた。

田植えを終えたら炊事場に祀ってあるエビスサン(戎大黒)の前にナエサンとフキダワラも供えていたことを思い出した。

(H27. 6. 6 EOS40D撮影)

我が家のアジサイに色がつく

2016年04月19日 08時42分12秒 | 我が家の花
先月末ころに庭のアジサイに花の蕾。

開いたときの色は真っ白だった。

しばらく待つことにした。

二日前は雨だった。

そのときも白かったアジサイ。

この日、ようやく色がついた。

この日も雨。

小雨だったが葉に雫が毀れる。

それからどっと降った雨。

この日はとても寒い。

ニュースが伝える北海道に降る雪。

6月5日は冬に戻ったような気温に雪が5cm~10vmも積もったようだ。

奈良市内の最高気温は16度。

洗いにだしていたジャンパーを着込んだ。

(H27. 6. 5 EOS40D撮影)

南六条町南方の水田

2016年04月18日 10時12分31秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
田に水を張ってシロカキ。

泥田は安定した数日後の天理市南六条町。

ここも度々訪れる南方。

水田に向かおうとしたら田植え機が通っていった。

水田に向かうと思われた田植え機は集落に消えていった。



しばらくすれば再び登場した田植え機は苗箱を積んでいた。

一連の様相は水田景観と集落の佇まいも相まってシャッターを切っていた。



この場より東南の位置。

共同の苗代田のところに麦わら帽子が見えた。

案山子なのだろうかと思って近寄った。

木の棒に掛けていた麦わら帽子。



単に棒に引っかけたものでなくマネキン人形の顔部分を棒に差し込んで立てていた。

顔なのだから帽子を掛けた。



そういう感じだが、景観が面白いので何枚も撮っていた。

向こう側には家族が育った苗箱を運んでいた。

田植えした箱は水路で綺麗に洗っていた。

苗は多い。

昼からの作業も続けられる男性。



「行事も来ていたけど、田んぼも見にくるんやな」と笑っていた。

(H27. 6.13 EOS40D撮影)

南六条町南方の直播田

2016年04月18日 10時01分11秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
田に水が張られたら育った苗はどのような状態になるのか知りたくなった。

そう思ってやってきた天理市南六条・南方の水田。

いつ、田に水を張ったのか聞いていない。

根株はほぼ水没。育った苗はさらに成長して分けつ。

数十本にも増えていた。

水没した根株はやがて腐って消える。



隣近所の農家さんが話す。

「あそこの家は手がかからんようにうまいことしてはる」と云ってた。

(H27. 6.13 EOS40D撮影)

南六条町南方の直播田

2016年04月18日 09時49分59秒 | 民俗あれこれ(四季耕作編)
南六条町南方の水田を訪れること度々。

昨年の9月末に稲刈りを終えた農家は苗床を作らず、刈りとった根株をそのままにしておく。

5月初めに残っている根株と根株の間に籾種を蒔く。

根株は一直線になっているから蒔きやすい。

土を被せて発芽を待つ。

3週間後に発芽。

緑色の列ができていた。

それから数週間後の6月5日。

苗はすくすくと育っていた。

目印になる根株の間に生えていた。

(H27. 6. 5 EOS40D撮影)

南六条町北方の環濠

2016年04月18日 09時46分02秒 | 天理市へ
奈良・大和平野盆地部に150から200ほどもあるという環濠集落。

応仁の乱から戦国時代に突入した。

村々は争いから守るために村の周りを濠で囲った。

多くは室町後期に形成したようだ。

教科書に掲載されるほど名高いのは大和郡山市稗田の環濠集落。

観光施策にために護岸工事・整備されたので昔の面影は見られない。

「環濠を見るならここへ行くべし」と勤務していた大和郡山施設で案内していたのは天理市南六条の北方だった。



建屋に蔵とともに佇む環濠はいつ見ても堂々としている。

4月に発生した藻で濠が埋め尽くされている。

難儀なことになったと総代は話していたが・・・。

建屋はいんきょの森家。

本家は北方にある大和郡山市の横田町にある。

筒井家三家老の一人、森志摩守好之氏の出身地やに聞く。

(H27. 6. 5 EOS40D撮影)

南六条町北方のノガミ御供

2016年04月18日 09時30分27秒 | 天理市へ
天理市南六条町。

喜殿-六条線道を挟んで北方と南方からなる集落がある。

旧南柳生になる北方は三十八(みそや)神社、南方は杵築神社がある。

幾度か両神社行事を拝見していたがノガミ行事は未だに訪れることはなかった。

ノガミの場は街道の西側の小字野神に立つムクノキの一本木さんだ。

行事に関係する大字は北方。

この場は三十八神社のマツリにお渡りするお旅所でもある神聖な場である。



一本木さんの根株に置いてあった根付きのショウブとヨモギ。

傍にカシワモチを供えていた。

これらは前日にアニ若しくはオトウトトーヤ(平成20年に聞いたときはオヤ・コ頭屋だったが・・・)が供える。

総代が云うには御供は午前中、ショウブとヨモギは午後でも構わないという。

三十八(みそや)神社の年中行事はアニ・オトウトトーヤが月々交替する。

今年は仕事の関係でオトウトトーヤがつとめたそうだ。

今では和菓子のカシワモチに移ったがかつてはコモグサで包んだチマキだった。

小川に生えていたコモグサは消えたことにより北方の環濠に生えていたカシワの木の葉で包んでいた。

30数年前まではそうしていた。

当時は数え年17歳の男児が中心となって行う子供の行事であった。

供えた一本木の前で相撲や駆けっこをして遊んだ。

いつしか少子化を迎えてトーヤだけがつとめることになった。



撮影地を変えて、遠くから一本木を見る。

手前の苗代田に祭っているのは3月初めころに三十八神社の祈年祭に奉った松苗

祭事を終えて村30戸に配られる。

「産土大神」のお札でくるんでいる。

割った竹に挟んで苗の成長を願っていた。

ここら辺りは数日後に田植えが始まる。



根付きのショウブとヨモギにカシワモチを供える三十八神社。

本殿にそれらがあった。



総代の許しを得て拝殿扉を開けて境内社の八阪神社・厳島神社も拝見する。

同じようにノガミの御供を奉っていた。



根付きのショウブ、ヨモギ、カシワモチは一本木、三十八神社だけでなく境内にある享保十一年(1726)鋳造の鐘楼前にある石灯篭や大師講の営みに使用されている会所外窓の大師像にも供えている。



会所は旧興蔵寺。

かつては真言宗派だった北方はいつの時代か判っていないが融通念仏宗派になった。

年に一度は大阪平野大念仏からやってくる如来さんのご回在がある。

それはともかく古くなった会所を建て替える事業が今年度に行われる。

平成20年のことだ。

サカキ立ての直会の際に拝見した会所の蔵に残してあった旧興蔵寺什物の牛玉宝印の版木や宝暦五年(1755)の銘が記された百万遍数珠箱がある。

旧興蔵寺はかつて布留社神宮寺三十二ケ寺の一つだった。

真言宗時代に使われていたと思われる道具類は建て替える際に倉庫に移すと総代が話す。

蔵にあった道具類は相当数。

村の歴史を語る道具類をこの際に整備したいという。

写真記録もある整備に協力を願われた。

時間の許す限り対応する所存であると、思っていたが連絡はなかった。村の対応で済んだのだと思う。

なお、平成13年正月改め頭屋持ち『三十八神社神饌帳』によれば6月5日は「チマキ」だった。

(H27. 6. 5 EOS40D撮影)

道路拡張工事が始まった

2016年04月17日 09時53分56秒 | 移設道路工事
県立奈良病院移設建築に伴って石木-城線都市計画道路の拡張ならびに付け替え道路工事が始まっている。



それに伴って拡張道路にあたる家屋は壊される。

ここは団地より西のどんつき。



東南辻に建っていた家屋はクレーン車などで地面などを整備していた。

一方は富雄川に抜ける細い道路。

西の西側は何年か前に新築された住居がある。

その手前は小屋のようだった。

そこも潰している。

道路拡張とは直接の影響がないように思えたが・・・。

(H27. 6.12 SB932SH撮影)
(H27. 6.28 SB932SH撮影)