銀杏の実成は相当な量だ。
高くそびえる銀杏の枝にびっしり成った実はやがて境内に落下する。
今年の実成はやや小さめ。
例年のほうが大きいという銀杏は誰も持ち帰ることなく掃いて捨てられるか、燃やされる。
11月初めのころにはまっ黄色になっているかも知れない銀杏の秋の色。
当地近くに用事がわれば足を伸ばしてみよう。
(H27.10. 9 EOS40D撮影)
高くそびえる銀杏の枝にびっしり成った実はやがて境内に落下する。
今年の実成はやや小さめ。
例年のほうが大きいという銀杏は誰も持ち帰ることなく掃いて捨てられるか、燃やされる。
11月初めのころにはまっ黄色になっているかも知れない銀杏の秋の色。
当地近くに用事がわれば足を伸ばしてみよう。
(H27.10. 9 EOS40D撮影)
中央は天児屋根命を祀る本殿。
両側に二社。
両社とも事代主命を祀る蛭子社殿だ。
さらに瑞垣の外に大日霊命を祀る小社周りも綺麗に清掃する。
左手に建つ四角型灯籠には「今宮大明神 寛文拾弐年(1672)十一月吉日」が刻まれている。
右手にある六角型灯籠にも「今宮大明神」の名があるそうだ。
氏神さんのヨイミヤや翌日のマツリに準備に余念がない奈良市高樋町の氏子たち。
午後一番、集まってきた宮総代・会計やシキジ(式司)・ミナライ(見習)に手伝いさんたちは境内や拝殿を綺麗に清掃される。
奈良市高樋町に鎮座する春日神社の割拝殿。
床も柱も布で水拭きする。
割拝殿の中央は土間作りの急坂だ。
両側は床張りで、右が神饌所。
左側の場は翌日のヨイミヤで、大切なトウヤ決めの神事が行われる。
次の年のトウヤ(當家)を決めるフリアゲの場である。
それだけに、より一層の磨きをかけて拭きあげる。
トウヤ決めの場には木造の仮宮が残されている。
云十年に一度の造営事業。
本殿に奉られていた神さんは一旦、仮宮に遷される。
本殿の建築が終われば元のお社に戻っていただく。
お戻りになられた仮宮は残すことなく撤去されるのが一般的だが、高樋は珍しく残されている。
割拝殿の天井を見上げた。
鴨居に載せていた四角くて長い物体だ。
そこに墨書文字があった。
造営の際に揚げられた棟札であった。
朱の鳥居を入れ替えた際に不要となった「古い方の鳥居の部材を再利用した」と氏子たちが云う。
墨書に「本社 春日神社 天下泰平 五穀成就 氏子安全 大正参年(1914)寅年四月十五日 御造営 當村惣代・・・氏子惣代・・・・評議員・・・・・大工・・・・石工・・・」とある。
百年前の棟札である。
圧倒される巨大な棟札に身震いする。
平成6年7月の発刊の『五ケ谷村史』によれば、社殿の造替は昭和53年(1878)にされたとある。
この日に拝見した鳥居再利用の棟札のことは書かれていなかった。
見上げることはなかったのだろう。
村史が伝える造営は一部補修と思われるのだが、どうだろうか。
前回の御造営から節目になる100年目。
来年は本殿の建替えを検討していると話された。
マツリに掲げる幕は二枚ある。
一つは割拝殿に張る。
もう一つは参籠所だ。
幕を張る前にカミキリした紙垂れを注連縄に取り付ける。
昨年の12月1日に架けた注連縄は今でも美しい姿で現存している。
拝殿に張った幕に染め字があった。
「大正拾三年(1924)七月 奉納 祈雨満願 氏子中」の文字である。
拝殿と鳥居に間に二種の灯籠がある。
その一つに「雨願成就 奉納 春日社 明治(暦のようにも見えるが・・)壱年(1868)八月建之」の刻印が見られる。
明治、大正時期に発生した思われる旱。
雨乞い祈願の結願に雨が降る。
田畑に潤う天からの恵みに感謝して満願祈念に製作した灯籠と幕である。
『五ケ谷村史』によれば、明治十四年(1881)七月十四日・二十六日、隣村の米谷・白山比咩神社に当時の雨乞い祈願の記録が残っているようだ。
二十六日付けの文書に「一、子供相撲 一、花笠踊り 一、タンダ踊り」を五日間、降雨まで奉願していたとある。
願掛けに家ごとの燈明上げ、若しくは砂モチのいずれかをフリアゲで決めていた。
降雨が叶えばお礼にフリアゲ。
前記した子供相撲、花笠踊りタンダ踊りのいずれかを選んでいた。
明治十四年・十五年、隣村の北椿尾では雨乞い行事の執行に所轄の警察に届けていたと伝える。
雨乞い、満願の在り方を示す貴重な史料である。
一方、参籠所に張られた幕は長い。
「大正十三年(1924)十月 踊ニ〇加舞子 若返會中」の文字を染めている。
若返会とは・・・なんであろうか。
踊ニ〇加舞子とは・・・。
村人、誰に聞いても判らないと返答される。
12名ほどの奉納者があった若返会の幕を見る氏子たち。
「もしかとすればあの家の爺さんだったかも・・・」と独白される。
いずれも下がり藤の紋を染められた二つの幕に村の歴史を伝える。
ちなみに米谷で雨乞いに躍っていた踊りは「神楽踊り」。
単に「雨乞い踊り」」とか、囃し言葉より「テッテコ踊り」の名があったようだ。
雨乞い踊りは干時だけでなく、毎年の4月1日(明治5年以降は5月1日)に躍っていたようだが、昭和7、8年ころを最後に中断した。
高樋の幕に「ニ〇加」の文字がある。
「〇」は「輪」とすれば「二輪加」である。
つまり「にわか(俄)」踊りである。
踊りがどのようなものだったのか伝わっていないが「舞子」の文字より、踊り子は若返會。
若返會の呼称から考えるに踊り子は若手ではなく年配の人たちであろう。
即興で寸劇の「ニ〇加踊り」をしていたのだろう。
それは雨乞いか、満願か。
それとも十月寄進の幕からマツリ・豊作祝いに踊っていたのであろうか。
割拝殿下に設えるお祓の斎場。
四方および中央に杭を打つ。
笹竹を括り付ける四方の杭である。
中央は川の砂を盛る砂盛り。
笹竹に注連縄を張る。
紙垂れの取り付けは明日になる。
こうした作業は総代・会計など役員やシキジ(式司)・ミナライ(見習)の役目。
一方、明日のヨイミヤ、明後日のマツリに登場するのはアニドウヤ・オトウトドウヤと呼ばれる二人の當家だ。
當家はこの日作られた大御幣を持って神社までお渡りをする。
何年か前まではヨイミヤのお渡りがあったが簡略化されてマツリの日だけになったそうだ。
大御幣を作っていたのは丹生町の新谷宮司。
平成4年に作られた木材にカミキリした御幣を取り付ける。
半紙に洗い米を包んだ御供も取り付ける。
御幣は紙を切断することで出来上がる。
そういう様相から氏子たちは「カミキリ」と呼んでいた御幣作りである。
アニ・オトウトドウヤとも同じ大きさ、形の大御幣。
準備が調えば家に持ち帰る。
かつてはヨイミヤに大御幣を抱えて神社までお渡りをしていた。
道中で「ヨイヨイ ワアイ」・「ワアイ」の唱和をしていたようだ。
現在のお渡りはマツリの日だけとなった。
かつてはアニ・オトウトドウヤが二組もあった。
村人が少なくなり一組になった。
そのときにお渡りはマツリの日だけになったようだ。
お渡り装束は烏帽子に白装束。
おそらく素襖であろう。
シキジも同じように烏帽子を被った白装束。
この日は予行に仮着用された。
(H27.10. 9 EOS40D撮影)
両側に二社。
両社とも事代主命を祀る蛭子社殿だ。
さらに瑞垣の外に大日霊命を祀る小社周りも綺麗に清掃する。
左手に建つ四角型灯籠には「今宮大明神 寛文拾弐年(1672)十一月吉日」が刻まれている。
右手にある六角型灯籠にも「今宮大明神」の名があるそうだ。
氏神さんのヨイミヤや翌日のマツリに準備に余念がない奈良市高樋町の氏子たち。
午後一番、集まってきた宮総代・会計やシキジ(式司)・ミナライ(見習)に手伝いさんたちは境内や拝殿を綺麗に清掃される。
奈良市高樋町に鎮座する春日神社の割拝殿。
床も柱も布で水拭きする。
割拝殿の中央は土間作りの急坂だ。
両側は床張りで、右が神饌所。
左側の場は翌日のヨイミヤで、大切なトウヤ決めの神事が行われる。
次の年のトウヤ(當家)を決めるフリアゲの場である。
それだけに、より一層の磨きをかけて拭きあげる。
トウヤ決めの場には木造の仮宮が残されている。
云十年に一度の造営事業。
本殿に奉られていた神さんは一旦、仮宮に遷される。
本殿の建築が終われば元のお社に戻っていただく。
お戻りになられた仮宮は残すことなく撤去されるのが一般的だが、高樋は珍しく残されている。
割拝殿の天井を見上げた。
鴨居に載せていた四角くて長い物体だ。
そこに墨書文字があった。
造営の際に揚げられた棟札であった。
朱の鳥居を入れ替えた際に不要となった「古い方の鳥居の部材を再利用した」と氏子たちが云う。
墨書に「本社 春日神社 天下泰平 五穀成就 氏子安全 大正参年(1914)寅年四月十五日 御造営 當村惣代・・・氏子惣代・・・・評議員・・・・・大工・・・・石工・・・」とある。
百年前の棟札である。
圧倒される巨大な棟札に身震いする。
平成6年7月の発刊の『五ケ谷村史』によれば、社殿の造替は昭和53年(1878)にされたとある。
この日に拝見した鳥居再利用の棟札のことは書かれていなかった。
見上げることはなかったのだろう。
村史が伝える造営は一部補修と思われるのだが、どうだろうか。
前回の御造営から節目になる100年目。
来年は本殿の建替えを検討していると話された。
マツリに掲げる幕は二枚ある。
一つは割拝殿に張る。
もう一つは参籠所だ。
幕を張る前にカミキリした紙垂れを注連縄に取り付ける。
昨年の12月1日に架けた注連縄は今でも美しい姿で現存している。
拝殿に張った幕に染め字があった。
「大正拾三年(1924)七月 奉納 祈雨満願 氏子中」の文字である。
拝殿と鳥居に間に二種の灯籠がある。
その一つに「雨願成就 奉納 春日社 明治(暦のようにも見えるが・・)壱年(1868)八月建之」の刻印が見られる。
明治、大正時期に発生した思われる旱。
雨乞い祈願の結願に雨が降る。
田畑に潤う天からの恵みに感謝して満願祈念に製作した灯籠と幕である。
『五ケ谷村史』によれば、明治十四年(1881)七月十四日・二十六日、隣村の米谷・白山比咩神社に当時の雨乞い祈願の記録が残っているようだ。
二十六日付けの文書に「一、子供相撲 一、花笠踊り 一、タンダ踊り」を五日間、降雨まで奉願していたとある。
願掛けに家ごとの燈明上げ、若しくは砂モチのいずれかをフリアゲで決めていた。
降雨が叶えばお礼にフリアゲ。
前記した子供相撲、花笠踊りタンダ踊りのいずれかを選んでいた。
明治十四年・十五年、隣村の北椿尾では雨乞い行事の執行に所轄の警察に届けていたと伝える。
雨乞い、満願の在り方を示す貴重な史料である。
一方、参籠所に張られた幕は長い。
「大正十三年(1924)十月 踊ニ〇加舞子 若返會中」の文字を染めている。
若返会とは・・・なんであろうか。
踊ニ〇加舞子とは・・・。
村人、誰に聞いても判らないと返答される。
12名ほどの奉納者があった若返会の幕を見る氏子たち。
「もしかとすればあの家の爺さんだったかも・・・」と独白される。
いずれも下がり藤の紋を染められた二つの幕に村の歴史を伝える。
ちなみに米谷で雨乞いに躍っていた踊りは「神楽踊り」。
単に「雨乞い踊り」」とか、囃し言葉より「テッテコ踊り」の名があったようだ。
雨乞い踊りは干時だけでなく、毎年の4月1日(明治5年以降は5月1日)に躍っていたようだが、昭和7、8年ころを最後に中断した。
高樋の幕に「ニ〇加」の文字がある。
「〇」は「輪」とすれば「二輪加」である。
つまり「にわか(俄)」踊りである。
踊りがどのようなものだったのか伝わっていないが「舞子」の文字より、踊り子は若返會。
若返會の呼称から考えるに踊り子は若手ではなく年配の人たちであろう。
即興で寸劇の「ニ〇加踊り」をしていたのだろう。
それは雨乞いか、満願か。
それとも十月寄進の幕からマツリ・豊作祝いに踊っていたのであろうか。
割拝殿下に設えるお祓の斎場。
四方および中央に杭を打つ。
笹竹を括り付ける四方の杭である。
中央は川の砂を盛る砂盛り。
笹竹に注連縄を張る。
紙垂れの取り付けは明日になる。
こうした作業は総代・会計など役員やシキジ(式司)・ミナライ(見習)の役目。
一方、明日のヨイミヤ、明後日のマツリに登場するのはアニドウヤ・オトウトドウヤと呼ばれる二人の當家だ。
當家はこの日作られた大御幣を持って神社までお渡りをする。
何年か前まではヨイミヤのお渡りがあったが簡略化されてマツリの日だけになったそうだ。
大御幣を作っていたのは丹生町の新谷宮司。
平成4年に作られた木材にカミキリした御幣を取り付ける。
半紙に洗い米を包んだ御供も取り付ける。
御幣は紙を切断することで出来上がる。
そういう様相から氏子たちは「カミキリ」と呼んでいた御幣作りである。
アニ・オトウトドウヤとも同じ大きさ、形の大御幣。
準備が調えば家に持ち帰る。
かつてはヨイミヤに大御幣を抱えて神社までお渡りをしていた。
道中で「ヨイヨイ ワアイ」・「ワアイ」の唱和をしていたようだ。
現在のお渡りはマツリの日だけとなった。
かつてはアニ・オトウトドウヤが二組もあった。
村人が少なくなり一組になった。
そのときにお渡りはマツリの日だけになったようだ。
お渡り装束は烏帽子に白装束。
おそらく素襖であろう。
シキジも同じように烏帽子を被った白装束。
この日は予行に仮着用された。
(H27.10. 9 EOS40D撮影)
棚田を拝見して立ち寄った太夫家。
門口に竹を立てていた。
先っぽが黒ずんでいる。
焼けた痕だと思った。
写真では判り難いが斜めに倒れている古い竹もあった。
もしかとすればと思ってシャッターを押した。
門口から出入り口を下がった処に小屋がある。
声は聞こえないが煙が立ち上がっていた。
足を運んだそこには黒く焼けたもみ殻があった。
その中央部に煙突がある。
そこからも煙が出ていた。
いわゆる燻炭焼きである。
棚田に設えたハサガケの2/3は竹の棒を水平にしていた。
干していたと思われる稲の2/3はなかった。
燻炭焼きはハサガケで干していた稲はイネコキして精米した。
残ったもみ殻を焼いていたと思われた。
これもシャッターを押しておいた民俗の景観である。
ピンポーンを押して家人を尋ねる。
玄関を出てこられたのは72歳の婦人だ。
ついさきほどまでは桜井から花好きな二人連れが来ていたという。
ここを訪れたのは退院後の元気な姿を見てもらうためだ。
「タメトモユリ」の花が咲いているからと電話を架けてくれたのはご主人だ。
7月14日のことであるが、そのときは入院しているベッドであった。
病院から抜け出すことはできない。
8月末まで咲いているとも云われたが自宅療養の身であった。
8月15日に退院してから2カ月半。
10月に入っていた。
「タメトモユリ」は来年にこそ訪れたいものだ。
入院・手術・退院の話しをすれば「私も同じ時期にたいへんやった」と話し出す。
ヘルペス発疹によって発熱した。
それから肺炎を起こした。
入院はしなかったが呼吸困難になった。
肺に水が溜まったという症状は私と同じだ。
3月1日に神さんを迎えている同家。
なんとか乗り切っていきたいと思ってそうしたらしい。
つい最近になって回復したという婦人の話しにこちらが驚いた。
本来なら20日辺りにマツリが行われるが、さまざまな事情で一週間遅らせた。
一つは同家の事情、もう一つは宮司の事情である。
マツリの日が重なった宮司は動きようがない。
仕方なく一種間遅らせた。
そのことによって一年間の服忌が明けたY家はマツリに参列できるというわけだ。
旗を立てる杭を立てた。
秋の花が咲いている庭を綺麗にする。
廻りの用事がいくらでもある。
10月はお庭造りに遷しまし、マツリに後宴もある。
できる限り寄せてもらうことにした同家の軒先にはマメとトウガラシを干していた。
マメの一つはパンダマメ。
右手より少し小さい。
手で皮を抑えると弾けて白いマメが飛び出す。
食べるのではなくタネ利用。
畑に盛って育てるらしい。
「小屋の前で煙が出ている」と伝えたら消し忘れていたという婦人。
束にした竹箒で掃いてなだらかにする。
井戸水をバケツに掬ってジョウロで注いで焼けた燻炭の火を消す。
まんべんなくジョウロで注ぐ消し水。
ある程度消えたら中央に立てていた土管を下げる。
熱いから手で持てない。
金属製のハサンバリで掴んで退ける。
燻炭の中には石がある。
土管が倒れないことと、空洞を開けて空気が流れるようにした石も取り除く。
焼けたもみ殻はタール分が出る。
煙突だった土管の内部はタールで詰まる。
それを取り除く竹も傍に置いていた。
炭化した燻炭は畑の肥料にもなるし、種蒔きをした畑の蓋にも使う土壌改良材である。
通気、排水もあれば土をよくする微生物の住処にもなる。
土壌の消毒、耐病などなどに利用する優れものだ。
消火作業を見届けて、気になっていた門口の竹の正体を教えていただいた。
昔も今も同じ場所でしている先祖さん迎えの痕跡である。
二つ折にした藁束を竹の棒に挿す。
それは2本。
ご主人が「かえなはれ・・」と云いながら鉦を叩いて屋内に戻る。
8月14日の夕方近くに行われる家の風習痕を見つけたときの嬉しさ・・。
盆の風習を知る者でなければ見逃す情景に感動する。
奥さんが話す様相から隣村の北白木で拝見したものと同じようだ。
翌日の15日は戻った先祖さんが再び天に戻っていく。
迎えと同じように送りのときも門口に竹を立てて藁束を燃やす。
「いにやれ」と囃しながら鉦を打つ。
天に戻られる時間帯は遅いほうがいい。
家に滞在してもらう時間はできるだけ長くすると話していた。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
門口に竹を立てていた。
先っぽが黒ずんでいる。
焼けた痕だと思った。
写真では判り難いが斜めに倒れている古い竹もあった。
もしかとすればと思ってシャッターを押した。
門口から出入り口を下がった処に小屋がある。
声は聞こえないが煙が立ち上がっていた。
足を運んだそこには黒く焼けたもみ殻があった。
その中央部に煙突がある。
そこからも煙が出ていた。
いわゆる燻炭焼きである。
棚田に設えたハサガケの2/3は竹の棒を水平にしていた。
干していたと思われる稲の2/3はなかった。
燻炭焼きはハサガケで干していた稲はイネコキして精米した。
残ったもみ殻を焼いていたと思われた。
これもシャッターを押しておいた民俗の景観である。
ピンポーンを押して家人を尋ねる。
玄関を出てこられたのは72歳の婦人だ。
ついさきほどまでは桜井から花好きな二人連れが来ていたという。
ここを訪れたのは退院後の元気な姿を見てもらうためだ。
「タメトモユリ」の花が咲いているからと電話を架けてくれたのはご主人だ。
7月14日のことであるが、そのときは入院しているベッドであった。
病院から抜け出すことはできない。
8月末まで咲いているとも云われたが自宅療養の身であった。
8月15日に退院してから2カ月半。
10月に入っていた。
「タメトモユリ」は来年にこそ訪れたいものだ。
入院・手術・退院の話しをすれば「私も同じ時期にたいへんやった」と話し出す。
ヘルペス発疹によって発熱した。
それから肺炎を起こした。
入院はしなかったが呼吸困難になった。
肺に水が溜まったという症状は私と同じだ。
3月1日に神さんを迎えている同家。
なんとか乗り切っていきたいと思ってそうしたらしい。
つい最近になって回復したという婦人の話しにこちらが驚いた。
本来なら20日辺りにマツリが行われるが、さまざまな事情で一週間遅らせた。
一つは同家の事情、もう一つは宮司の事情である。
マツリの日が重なった宮司は動きようがない。
仕方なく一種間遅らせた。
そのことによって一年間の服忌が明けたY家はマツリに参列できるというわけだ。
旗を立てる杭を立てた。
秋の花が咲いている庭を綺麗にする。
廻りの用事がいくらでもある。
10月はお庭造りに遷しまし、マツリに後宴もある。
できる限り寄せてもらうことにした同家の軒先にはマメとトウガラシを干していた。
マメの一つはパンダマメ。
右手より少し小さい。
手で皮を抑えると弾けて白いマメが飛び出す。
食べるのではなくタネ利用。
畑に盛って育てるらしい。
「小屋の前で煙が出ている」と伝えたら消し忘れていたという婦人。
束にした竹箒で掃いてなだらかにする。
井戸水をバケツに掬ってジョウロで注いで焼けた燻炭の火を消す。
まんべんなくジョウロで注ぐ消し水。
ある程度消えたら中央に立てていた土管を下げる。
熱いから手で持てない。
金属製のハサンバリで掴んで退ける。
燻炭の中には石がある。
土管が倒れないことと、空洞を開けて空気が流れるようにした石も取り除く。
焼けたもみ殻はタール分が出る。
煙突だった土管の内部はタールで詰まる。
それを取り除く竹も傍に置いていた。
炭化した燻炭は畑の肥料にもなるし、種蒔きをした畑の蓋にも使う土壌改良材である。
通気、排水もあれば土をよくする微生物の住処にもなる。
土壌の消毒、耐病などなどに利用する優れものだ。
消火作業を見届けて、気になっていた門口の竹の正体を教えていただいた。
昔も今も同じ場所でしている先祖さん迎えの痕跡である。
二つ折にした藁束を竹の棒に挿す。
それは2本。
ご主人が「かえなはれ・・」と云いながら鉦を叩いて屋内に戻る。
8月14日の夕方近くに行われる家の風習痕を見つけたときの嬉しさ・・。
盆の風習を知る者でなければ見逃す情景に感動する。
奥さんが話す様相から隣村の北白木で拝見したものと同じようだ。
翌日の15日は戻った先祖さんが再び天に戻っていく。
迎えと同じように送りのときも門口に竹を立てて藁束を燃やす。
「いにやれ」と囃しながら鉦を打つ。
天に戻られる時間帯は遅いほうがいい。
家に滞在してもらう時間はできるだけ長くすると話していた。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
山野草を撮っていた場は桜井市の大字萱森。
振り返れば樹木の向こう側に棚田がある。
神社祭祀を務める太夫さんが所有する棚田である。
稲刈りは9割がた終えていた。
田地に長く設営した稲架けがある。
稲刈りを終えてハザカケをするようだと聞いていたのは9月22日だった。
術後の身体は思うように動けない。
元気であるなら、声を聞いたらすぐに飛んでいく。
その気が起らないのはまだ療養の身。
山道が歩けるようになれば、と思っていた。
締め付ける胸帯で深呼吸はし難いが、そろそろ動きだしたい。
旧都祁村の藺町・葛神社で行われる造営の設営状況も確認しておきたかった。
北椿尾から藺、そして萱森に向かったのだ。
そう思って出かけた萱森。
ハサガケは全体のおよそ1/3ぐらいに稲を架けていた。
天日干しに黒い幌を被せていた。
風に波打つ手前の稲は晩稲(おくて)。
田植えの日にオンダのナエを立てているように見えたが・・・。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
振り返れば樹木の向こう側に棚田がある。
神社祭祀を務める太夫さんが所有する棚田である。
稲刈りは9割がた終えていた。
田地に長く設営した稲架けがある。
稲刈りを終えてハザカケをするようだと聞いていたのは9月22日だった。
術後の身体は思うように動けない。
元気であるなら、声を聞いたらすぐに飛んでいく。
その気が起らないのはまだ療養の身。
山道が歩けるようになれば、と思っていた。
締め付ける胸帯で深呼吸はし難いが、そろそろ動きだしたい。
旧都祁村の藺町・葛神社で行われる造営の設営状況も確認しておきたかった。
北椿尾から藺、そして萱森に向かったのだ。
そう思って出かけた萱森。
ハサガケは全体のおよそ1/3ぐらいに稲を架けていた。
天日干しに黒い幌を被せていた。
風に波打つ手前の稲は晩稲(おくて)。
田植えの日にオンダのナエを立てているように見えたが・・・。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
ホトトギスは北椿尾だけでなく、桜井市の萱森にもあった。
棚田が下に見える山道沿いにあった。
やたらというか、ここも多くの斑点葉が見られた。
訪れた時期は4月末だった。
5月中旬に訪れたときは稲田付近の日陰にあった。
山道にあったものとは違う種類だと思った。
その場は確かめなかった。
気になっていたのは山道である。
多くあったのですぐに見つかると思ったが、ここもまた、ない、ない、づくしだ。
ここも消滅したのであろうか。
謎解きは来年に置いておくが、この場で咲いていた多くの花はミゾソバだった。
白い塊のような白花は、まるでコンペイトウのような姿であるが撮らなかった。
樹木で陰になっている山道は冷たい風が吹く。
吹くというよりも通り抜けるという感じだ。
ホトトギスの代わりといえばなんだか・・・であるが、ここには赤い色が目立つミズヒキが咲いていた。
わずか数ミリの花は長い軸にぽつん、ぽつんと咲いている。
風に揺られてなかなか静止画像にならない。
樹木の間から差し込む光に輝いた一瞬だけが静止した。
付近には背丈が短いギンミスヒキもあったが、なぜか撮る気が起らなかった。
ミズヒキが咲いていた近くに五枚花弁の花が咲いていた。
ヒメフウロのように思えたが・・・。
葉の形からゲンノショウコ・・・でもないような。
柱頭の形がイソギンチャクのような姿・・・。
隣にはタネ。
カラカラに乾いたら飛び出すかも。
で、あればゲンノショウコだが、葉は三つ葉と同じようだ。
そう思って調べたらミツバフウロだった。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
棚田が下に見える山道沿いにあった。
やたらというか、ここも多くの斑点葉が見られた。
訪れた時期は4月末だった。
5月中旬に訪れたときは稲田付近の日陰にあった。
山道にあったものとは違う種類だと思った。
その場は確かめなかった。
気になっていたのは山道である。
多くあったのですぐに見つかると思ったが、ここもまた、ない、ない、づくしだ。
ここも消滅したのであろうか。
謎解きは来年に置いておくが、この場で咲いていた多くの花はミゾソバだった。
白い塊のような白花は、まるでコンペイトウのような姿であるが撮らなかった。
樹木で陰になっている山道は冷たい風が吹く。
吹くというよりも通り抜けるという感じだ。
ホトトギスの代わりといえばなんだか・・・であるが、ここには赤い色が目立つミズヒキが咲いていた。
わずか数ミリの花は長い軸にぽつん、ぽつんと咲いている。
風に揺られてなかなか静止画像にならない。
樹木の間から差し込む光に輝いた一瞬だけが静止した。
付近には背丈が短いギンミスヒキもあったが、なぜか撮る気が起らなかった。
ミズヒキが咲いていた近くに五枚花弁の花が咲いていた。
ヒメフウロのように思えたが・・・。
葉の形からゲンノショウコ・・・でもないような。
柱頭の形がイソギンチャクのような姿・・・。
隣にはタネ。
カラカラに乾いたら飛び出すかも。
で、あればゲンノショウコだが、葉は三つ葉と同じようだ。
そう思って調べたらミツバフウロだった。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
5月の末、春の観察会に訪れた奈良市の北椿尾。
斑点で判るホトトギスの葉っぱがあった。
花も含めて好きな山野草の一つ。
もしかとすれば咲いている状態が見られるかも、と思って出かけた。
特徴ある葉っぱはどこにあったか覚えている。
少ない群生だが、山野道の2カ所だ。
崖崩れがある地より手前にあったが、どこを見てもない。
ない、ないづくし。
葉っぱもろとも見つからないのだ。
ホトトギスの花期は10月まで続くはず。
ここではとっくに終わっていたのかも知れない。
毎年出かける十津川村の滝川。
8月末から9月初旬にかけて咲くホトトギスがある。
ヤマジノホトトギスも同時期に咲く。
北椿尾も同じような時期だったのか。
その代わりではないが、入山する直前に道端に咲いていた赤花が目に入った。
彼岸花である。彼岸の時期はとうに過ぎていたこの日に咲いていた。
たったの一輪。
ひっそりと隠れるように咲いていた。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
斑点で判るホトトギスの葉っぱがあった。
花も含めて好きな山野草の一つ。
もしかとすれば咲いている状態が見られるかも、と思って出かけた。
特徴ある葉っぱはどこにあったか覚えている。
少ない群生だが、山野道の2カ所だ。
崖崩れがある地より手前にあったが、どこを見てもない。
ない、ないづくし。
葉っぱもろとも見つからないのだ。
ホトトギスの花期は10月まで続くはず。
ここではとっくに終わっていたのかも知れない。
毎年出かける十津川村の滝川。
8月末から9月初旬にかけて咲くホトトギスがある。
ヤマジノホトトギスも同時期に咲く。
北椿尾も同じような時期だったのか。
その代わりではないが、入山する直前に道端に咲いていた赤花が目に入った。
彼岸花である。彼岸の時期はとうに過ぎていたこの日に咲いていた。
たったの一輪。
ひっそりと隠れるように咲いていた。
(H27.10. 7 EOS40D撮影)
氷室神社宮司の大宮さんがFBで紹介された花切祭に興味をもった。
祭りごとの場は奈良市北京終町に鎮座する京終天神社。
JR京終駅より北方数百メートルの地にある。
神社も含めて、ここら辺りに駐車場は見当たらない。
花切祭は前日であった。
宮司より「梅ケ枝は本殿左右にお飾りされており、いつでも見える状態にある」と伝えてもらっていた。
どのような形で飾られているのか、大きさはどれぐらいなのだろうか、拝見したく立ち寄った。
梅ケ枝は宮司が伝えたとおりに本殿左右にあった。
一対ものである。
赤色、白色の紙を梅花の形に切り取って花弁とする。
花弁が赤色であれば雌蕊・雄蕊にあたる中心部の色は白色だ。
逆に白色であれば中心部は赤色になっている。
愕の色も同じような考え方であろうか、花びらが赤色なら愕は白色になっていた。
交互に色を組み合わせることで広がり感があり、左右一対の梅花が豪勢に見える。
一本の梅の木に小型の梅花はざっと数えて50枚ぐらい。
一枚だけは大型の梅の花になっている。
梅ケ枝を拝見しているときだ。
一人の男性が寄ってきた。
訪れた主旨を伝えて話しを伺う。
男性は神社役員の一人。
たまたま用事があって神社に来られたようだ。
花切祭を務めたのは当座(当家座)の人たち。
むかしのことだが、と前置きされた座中はかつて百姓、つまり農家組合の方々だという。
組合のなかから一年交替で選ばれた数名が座中を務める。
人数は6、7人ぐらいだそうだ。
話してくださった役員さんの任期は6年間だが、総会で交代者の指名もなく継続していると話す。
氏子は北京終と南京終住民。
特に南京終は新興住宅が増えて町内の戸数は2400戸にもなるという。
氏子数が多いこともあって町内を六つに区分けして、それぞれから役員を選出しているそうだ。
10月第二土曜日はヨイミヤ。
夕方ともなれば参拝住民が行列をするぐらいに並んでお祓いを受ける。
途切れることなく夜9時ころまで続くらしい。
男性が子供の頃の60年前。
当時製作した子供神輿はオーコで担いで町内を練っていた。
今は体力も弱くなり曳行する形式になったそうだ。
それでも50人の子供が曳いてくれるのでとても賑やかになると話す。
鈴の緒に括って垂らしたカラフルな紐がある。
子供の名を書いた紐は奉納寄進者。
毎年新調するという。
役目を終えた一年後は子供神輿の飾り付けに再利用する。
それも役目を終えた翌年の護摩木焚きで焼納するという。
ちなみに切り紙で作った梅ケ枝の心棒は金属製。
広がるように枝を広げて作った枝にテープを巻いている。
なんでも昔は本物の梅の木だったそうだ。
いつしか採取することが難しくなり、今の形態にしたようだ。
(H27.10. 5 EOS40D撮影)
祭りごとの場は奈良市北京終町に鎮座する京終天神社。
JR京終駅より北方数百メートルの地にある。
神社も含めて、ここら辺りに駐車場は見当たらない。
花切祭は前日であった。
宮司より「梅ケ枝は本殿左右にお飾りされており、いつでも見える状態にある」と伝えてもらっていた。
どのような形で飾られているのか、大きさはどれぐらいなのだろうか、拝見したく立ち寄った。
梅ケ枝は宮司が伝えたとおりに本殿左右にあった。
一対ものである。
赤色、白色の紙を梅花の形に切り取って花弁とする。
花弁が赤色であれば雌蕊・雄蕊にあたる中心部の色は白色だ。
逆に白色であれば中心部は赤色になっている。
愕の色も同じような考え方であろうか、花びらが赤色なら愕は白色になっていた。
交互に色を組み合わせることで広がり感があり、左右一対の梅花が豪勢に見える。
一本の梅の木に小型の梅花はざっと数えて50枚ぐらい。
一枚だけは大型の梅の花になっている。
梅ケ枝を拝見しているときだ。
一人の男性が寄ってきた。
訪れた主旨を伝えて話しを伺う。
男性は神社役員の一人。
たまたま用事があって神社に来られたようだ。
花切祭を務めたのは当座(当家座)の人たち。
むかしのことだが、と前置きされた座中はかつて百姓、つまり農家組合の方々だという。
組合のなかから一年交替で選ばれた数名が座中を務める。
人数は6、7人ぐらいだそうだ。
話してくださった役員さんの任期は6年間だが、総会で交代者の指名もなく継続していると話す。
氏子は北京終と南京終住民。
特に南京終は新興住宅が増えて町内の戸数は2400戸にもなるという。
氏子数が多いこともあって町内を六つに区分けして、それぞれから役員を選出しているそうだ。
10月第二土曜日はヨイミヤ。
夕方ともなれば参拝住民が行列をするぐらいに並んでお祓いを受ける。
途切れることなく夜9時ころまで続くらしい。
男性が子供の頃の60年前。
当時製作した子供神輿はオーコで担いで町内を練っていた。
今は体力も弱くなり曳行する形式になったそうだ。
それでも50人の子供が曳いてくれるのでとても賑やかになると話す。
鈴の緒に括って垂らしたカラフルな紐がある。
子供の名を書いた紐は奉納寄進者。
毎年新調するという。
役目を終えた一年後は子供神輿の飾り付けに再利用する。
それも役目を終えた翌年の護摩木焚きで焼納するという。
ちなみに切り紙で作った梅ケ枝の心棒は金属製。
広がるように枝を広げて作った枝にテープを巻いている。
なんでも昔は本物の梅の木だったそうだ。
いつしか採取することが難しくなり、今の形態にしたようだ。
(H27.10. 5 EOS40D撮影)
奈良市山陵町(みささぎちょう)はかつて(明治22年)添下郡平城村(押熊村・中山村・歌姫村・山陵村・秋篠村の5カ村)の一つの村だった。
その昔の大昔は7軒だったという大字山上。
新興住宅で膨れ上がったが旧村戸数は30戸。
山上の氏神さんは八幡神社。
氏子中から選ばれた長老六人衆が神社祭祀を務めている。
長老といっても60歳代だ。
なかでも最長老はネンバンと呼ばれる村神主役を務める
そろそろ稲を刈り取る時期にきたと思って10月1日に訪れた。
1日であれば村神主が務める月並祭があると聞いていた。
居られたら稲刈りをする日程が判る。
そう思って訪れた。
月並祭を終えた神社に村神主がおられた。
前年に務められた村神主もおられた。
稲刈りはいつになるのか聞いてみれば、決まっていないという。
そろそろ決めなくては、と思っていたと云う。
稲刈り作業をする長老六人衆らの都合によっては翌週になるかもしれない。
そう、作業の日は日曜若しくは土曜の休日になるのである。
六人衆の都合で直近の日曜に決められたが、その日は先約に幹事役の会合がある村神主。
この会合を欠席するわけにはいかず、皆に頼んで日程が決まった。
作業日が決まった田んぼは稲穂が稔った。
晴れの日に相応しい光を浴びていた。
それから4日目のこの日は丹精込めて栽培した稲刈り作業がある。
正月前に神社に掲げる注連縄用に使う藁を入手するためである。
刈り取る稲の品種はヒノヒカリ。
ヒノヒカリを栽培していたのは村で唯一、農業を営んでいるYさんだ。
Yさんは前年度の村神主。
今年も宮さんの前の畑で稲作をしてきた。
稲刈りはだいたいが10月入ったころの休日。
六人衆が集まりやすい日を決めて集合する。
稲刈りの日を決めたものの、心配されるのは当日までの天候状態だ。
雨が降り続けたら稲は湿る。
田んぼもじゅくじゅくになって作業がし難くなる。
三日前のことだ。
前日は天気良しであったが、深夜に雨も降る大風が吹いた。
雷も鳴っていた爆弾低気圧だ。
数時間続いた暴風雨に晒されたもののヒノヒカリは倒れることもなくしっかりと立っていた。
この日は事情があって村神主は参加できないが、鎌を持参した5人が集まった。
刈り立った稲束は稲架けに組んで陰干しする。
陰干しの場は神社境内の樹木林の中だ。
水平に保った竹は樹木に括り付ける。
中央は三つ又を組んで支える。
風通しがよくなるように不要な葉っぱは伐採する。
開けた場はお日さんの光も当たるから丁度いい場所である。
めいめいは鎌を根株辺りに降ろしてザクッと刈り取る。
ギザギザな歯がある鎌は鋸鎌。
左手で4株の根株を持って右手に持った鋸鎌を手前に引っ張るように刈る。
誤って指や足に引っかけないように注意しながら刈る。
ここ山陵の地は散策するには絶好の場でもあるが、稲を刈っている場を通り抜けるサイクラー群団もいる。
何十人もの人たちが駆けていく。
よくよく見れば若くない。
たぶんに60歳前後。
散歩する人もおれば鳥居潜らずに参拝するご夫婦もおられた。
稲刈りは端に生えている稲だけを刈っていく。
昨今は手刈り風景を見ることはない。
尤もコンバインが入らない場所では手刈りをせざるを得ないが、である。
この日の稲刈りは神さんを迎える注連縄に用いられる。
長さが必要な注連縄用だけに手刈り作業で進捗する。
刈り取った稲株は道路側に置く。
一旦はそこに置いておく。
4株の稲は藁で括って1束とする。
八幡神社の注連縄は簾型。
七・五・三の順で編んでいく。
必要な長さを確保するには45束も要る。
多めに5束も追加して稲架けに掛ける。
藁括り、稲束運び、稲架け作業は順送り。
30分ほどで作業を終えたら社務所で一服する。
稲架けはこの状態で一週間干しておく。
雨が降っても樹木が遮ってくれる。
翌週の休日には神社蔵に移すそうだ。
稔った稲穂をモミオトシして稲束を神社蔵に収める。
青々とした稲が色落ちしないように陰干ししておくそうだ。
ちなみに昨年末に掲げた注連縄は朽ちることなく現況を保持している。
編んだ部分はしっかりしているが、簾の先っぽにカビが生えて黒ずんだ。
だが、それほど目立つような状態ではない。
10カ月間の風雨に晒された注連縄は今でも美しさを保ちながら神社を守ってきたと思うのである。
簾型の注連縄は板注連縄の呼び名がある。
12月初めころに編まれることを付記しておく。
(H27.10. 1 EOS40D撮影)
(H27.10. 4 EOS40D撮影)
その昔の大昔は7軒だったという大字山上。
新興住宅で膨れ上がったが旧村戸数は30戸。
山上の氏神さんは八幡神社。
氏子中から選ばれた長老六人衆が神社祭祀を務めている。
長老といっても60歳代だ。
なかでも最長老はネンバンと呼ばれる村神主役を務める
そろそろ稲を刈り取る時期にきたと思って10月1日に訪れた。
1日であれば村神主が務める月並祭があると聞いていた。
居られたら稲刈りをする日程が判る。
そう思って訪れた。
月並祭を終えた神社に村神主がおられた。
前年に務められた村神主もおられた。
稲刈りはいつになるのか聞いてみれば、決まっていないという。
そろそろ決めなくては、と思っていたと云う。
稲刈り作業をする長老六人衆らの都合によっては翌週になるかもしれない。
そう、作業の日は日曜若しくは土曜の休日になるのである。
六人衆の都合で直近の日曜に決められたが、その日は先約に幹事役の会合がある村神主。
この会合を欠席するわけにはいかず、皆に頼んで日程が決まった。
作業日が決まった田んぼは稲穂が稔った。
晴れの日に相応しい光を浴びていた。
それから4日目のこの日は丹精込めて栽培した稲刈り作業がある。
正月前に神社に掲げる注連縄用に使う藁を入手するためである。
刈り取る稲の品種はヒノヒカリ。
ヒノヒカリを栽培していたのは村で唯一、農業を営んでいるYさんだ。
Yさんは前年度の村神主。
今年も宮さんの前の畑で稲作をしてきた。
稲刈りはだいたいが10月入ったころの休日。
六人衆が集まりやすい日を決めて集合する。
稲刈りの日を決めたものの、心配されるのは当日までの天候状態だ。
雨が降り続けたら稲は湿る。
田んぼもじゅくじゅくになって作業がし難くなる。
三日前のことだ。
前日は天気良しであったが、深夜に雨も降る大風が吹いた。
雷も鳴っていた爆弾低気圧だ。
数時間続いた暴風雨に晒されたもののヒノヒカリは倒れることもなくしっかりと立っていた。
この日は事情があって村神主は参加できないが、鎌を持参した5人が集まった。
刈り立った稲束は稲架けに組んで陰干しする。
陰干しの場は神社境内の樹木林の中だ。
水平に保った竹は樹木に括り付ける。
中央は三つ又を組んで支える。
風通しがよくなるように不要な葉っぱは伐採する。
開けた場はお日さんの光も当たるから丁度いい場所である。
めいめいは鎌を根株辺りに降ろしてザクッと刈り取る。
ギザギザな歯がある鎌は鋸鎌。
左手で4株の根株を持って右手に持った鋸鎌を手前に引っ張るように刈る。
誤って指や足に引っかけないように注意しながら刈る。
ここ山陵の地は散策するには絶好の場でもあるが、稲を刈っている場を通り抜けるサイクラー群団もいる。
何十人もの人たちが駆けていく。
よくよく見れば若くない。
たぶんに60歳前後。
散歩する人もおれば鳥居潜らずに参拝するご夫婦もおられた。
稲刈りは端に生えている稲だけを刈っていく。
昨今は手刈り風景を見ることはない。
尤もコンバインが入らない場所では手刈りをせざるを得ないが、である。
この日の稲刈りは神さんを迎える注連縄に用いられる。
長さが必要な注連縄用だけに手刈り作業で進捗する。
刈り取った稲株は道路側に置く。
一旦はそこに置いておく。
4株の稲は藁で括って1束とする。
八幡神社の注連縄は簾型。
七・五・三の順で編んでいく。
必要な長さを確保するには45束も要る。
多めに5束も追加して稲架けに掛ける。
藁括り、稲束運び、稲架け作業は順送り。
30分ほどで作業を終えたら社務所で一服する。
稲架けはこの状態で一週間干しておく。
雨が降っても樹木が遮ってくれる。
翌週の休日には神社蔵に移すそうだ。
稔った稲穂をモミオトシして稲束を神社蔵に収める。
青々とした稲が色落ちしないように陰干ししておくそうだ。
ちなみに昨年末に掲げた注連縄は朽ちることなく現況を保持している。
編んだ部分はしっかりしているが、簾の先っぽにカビが生えて黒ずんだ。
だが、それほど目立つような状態ではない。
10カ月間の風雨に晒された注連縄は今でも美しさを保ちながら神社を守ってきたと思うのである。
簾型の注連縄は板注連縄の呼び名がある。
12月初めころに編まれることを付記しておく。
(H27.10. 1 EOS40D撮影)
(H27.10. 4 EOS40D撮影)
国道24号線沿いに走る。
奈良市の信号杏(からもも)町にあるカメラのキタムラ奈良南店で奈良の行事を紹介している。
著書の『奈良大和路の年中行事』を広げた今週は「平群町檪原のオハキツキ」だった。
「こっちのほうがインパクトあるで」と云って店員さんの了解のもと「奈良豆比古神社の翁舞」に替えさせてもろた。
(H27.10. 2 SB932SH撮影)
奈良市の信号杏(からもも)町にあるカメラのキタムラ奈良南店で奈良の行事を紹介している。
著書の『奈良大和路の年中行事』を広げた今週は「平群町檪原のオハキツキ」だった。
「こっちのほうがインパクトあるで」と云って店員さんの了解のもと「奈良豆比古神社の翁舞」に替えさせてもろた。
(H27.10. 2 SB932SH撮影)