マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

香りが老化するキンモクセイ

2016年06月14日 19時53分17秒 | 我が家の花
我が家は新築。

昭和56年(1981)7月の鍵渡しを受けて入居した。

30歳のころである。

建築業者が庭に植えこんでくれたキンモクセイ。

当時は小さな樹木だった。

それからグングン伸びたキンモクセイは柔らかな風に吹かれて芳香をまき散らしていた。

コイノボリを揚げるころもそうだった。

いつしか定年を迎えたころだ。

それまではどこで立っていても香っていた。

花に鼻を近づけることもないのにふぅっと香っていた。

ここ数年のことだ。

花はいっぱい咲いているのに香りが少ない。

花は咲いても香りに気がつかない。

老化現象なのだろうか。

云十年も我が家の庭を占領するぐらいに成長したキンモクセイ。

今年も黄金色の花をいっぱいつけた。

それにつれて枝が伸びる。

頂点も伸びる。

門口を占領するぐらいに伸びる。

今年はざっと伐採したい。

梯子を立てて行う伐採作業はできない身体になった。

何年か前までは買った電気バリカンで刈り込んだこともある。

成長するにつれて届かなくなった。

そして病いである。

尤も、当時から刈込作業はシルバー人材センター委託していた。

3年ぶりに頼んだが、注文が多く翌年の春ごろになるという。

(H27.10.13 EOS40D撮影)

2度目の芽出しのゴーヤが伸びる

2016年06月14日 19時51分02秒 | 我が家の花
10月1日ころに発芽した今季2度目のゴーヤの発芽。

その後も順調に伸びる。

2週間後ともなれば本葉が出てきた。

今年の10月は雨も降らずに陽気な天気が続く。



4、5日経ったらヒゲも伸びだした。

長く伸びてもっと高く。

そろそろ巻きつくようだと思って支柱を立てたのは月末の27日ころだ。



翌日には伸びたヒゲがぐいと首を傾けて支柱に巻きつく。

本葉の成長枚数は少ないが徐々に伸びていくゴーヤ。



翌月の11月8日のことだ。

つかまり立ちはよちよち幼児。

幼い手がもう一本。

支柱も足して立てておいたら巻きついた。

それから1週間経った。

11月に入ってからは雨降りの連続日。

照る日はなぜか少なくなった。

そのような状況でもゴーヤは逞しく伸びていく。



17日も雨降り。

タネから発芽して7週目。

どこまで伸びるのだろうか。

ずっと毎日の観察の連続であったが、成長はばったり止まった。

その状態で一か月も経てば霜が降りる。

やがて萎れて消えた。

(H27.10.13~11.17 EOS40D撮影)

我が家のフヨウ花

2016年06月14日 18時54分49秒 | 我が家の花
食事療法の塩分制限で食べられなくなった味噌汁。

「アサゲ」、「ユウゲ」・・・のコマーシャルをどうしても思いだす。

「アサゲ」、「ユウゲ」とくれば次は「ムクゲ」と云ったかどうか説明はつかないが、「ムクゲ」の花と「フヨウ」の花はそっくりくりくり。

だが、葉の違いで判る。

これは「フヨウ(芙蓉)」。

「扶養」でもなく「不用」でもない「芙蓉」である。

(H27.10. 1 EOS40D撮影)

我が家のミズヒキ花

2016年06月14日 18時43分18秒 | 我が家の花
ゴーヤが芽生えた場所にすくっと立つ一本の枝がある。

短いものもある。

小粒の花はミズヒキ。

北の裏庭にもある。

同一種と思われるが、ここまでタネが広がったとは思いにくい。

ミズヒキが咲いた場には大宇陀平尾で貰ったユキノシタがある。

貰って一か月後の6月に花が咲いた。

9月ともなればランナーが次々と出だした。

それが変化したのか・・ではなく、ユキノシタの土にミズヒキが混じっていたのだ。



ミズヒキは祝い印の紅白「水引」に形が似ていることからその名がついたそうだ。

室町時代のころから始まった「水引」文化。

「ミズヒキ」の名がある花のミズヒキはいつの時代に命名されたのだろうか。

(H27.10. 1 EOS40D撮影)
(H27.10.13 EOS40D撮影)

季節外れのゴーヤの発芽

2016年06月14日 18時40分19秒 | 我が家の花
今年もゴーヤの実りは散々だった。

DIYで買ったゴーヤは大きな鉢植えにした。

ぐんぐん伸びたが実をつけたのはたったの一つ。

黄色い花も少ない咲き状態だった。

退院過ぎの8月末にはすっかり影を潜めた。

貰いもののタネから育てたゴーヤもあった。

発芽して髭が出るまでの成長具合を撮っていたが、私が入院すると同時に成長は止まったらしい。

そして消えた、がである。

消えた土からまたもや発芽した。

花は咲くこともなかったゴーヤからはタネができるわけがない。

不思議な現象だと思ったが、そうではなかった。貰ったタネは六つあった。

小鉢に植えて芽が出たのは一つだった。

残るタネは発芽しなかった。

発芽することもなかった小鉢の土は同じ場所に捨てたという家人。

そうなんだ。

捨てたゴーヤの一つが発芽した。

捨てたもんじゃないというのはこういうことだが、朝の気温は15度ぐらい。

気温は25度にも上昇するが、成長は期待できない季節に移っていた。

(H27.10. 1 EOS40D撮影)

中畑町毘沙門会式の籠り

2016年06月13日 09時23分40秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
勧請縄掛けの際に聞いていた毘沙門堂の天王祭。

夕方6時、奈良市中畑町に鎮座する春日神社の祭礼を務める八人衆がやってくる。

八人衆は上座・下座にそれぞれ4人。

毘沙門天王祭は地区役員も参集する「籠り」でもある。

無住寺に僧侶はいない。

村人主体で行われる村行事である。

平成6年7月の発刊の『五ケ谷村史』によれば扁額に「安政七年(1860)毘沙門天王 鈴木氏」とあるそうだ。

五ケ谷村史に、かつて4月15日に中畑町に毘沙門サンの「レンゾ」があったと記している。

旧五ケ谷村の各大字にレンゾがあったのだ。

4月8日は菩提山町・正暦寺の薬師サンレンゾ。

4月21日は米谷町・中之坊の大師サンレンゾ。

6月13日は虚空蔵町・高樋町・北/南椿尾町・興隆寺町の虚空蔵レンゾ。

農家の春休みに弁当を持って山に登り、一日楽しく遊んだようだ。

レンゾはともかく、この日は毘沙門会式。

本尊の毘沙門天王を安置する前にローソクを灯す。

提灯や隣にある厨子にもローソクを灯す。

祭壇のローソクは火を灯したものの仏壇厨子の扉が開けない。

一年前のこの日。

籠りを終えて片づける際にも閉まり難かった扉。

軋んでいるせいか、鍵穴に挿した鍵は空回り。

悪戦苦闘の30分間。

やっとのことで扉が開いた。



その厨子前に掲げている幕がある。

90年前、大正十五年八月に寄進された幕の絵柄は毘沙門天使者とされる「ムカデ」である。

本尊は二体の毘沙門天王。

いつのころか判らないが、垣内日浦にあった毘沙門堂が廃絶したことによって合祀された。

二体は村を守ってくれているという。

その件は正月正月初めに架けられる勧請縄とも関係する。

五ケ谷村史に中畑町の勧請縄はその形状から「ムカデ」の形をしていると書かれていたのだ。



堂内に敷いた座。

テーブルは長机。

仕出し屋に注文したパック詰め料理を並べる。

お神酒、塩、洗い米、一尾の生サバ、キャベツ、梨を供えて神式に則り二礼二拍手一拝する。



祭典はそれだけだ。

席についた村人たち。

お神酒を注いで乾杯する。



これより数時間は籠りの会食に舌鼓だ。

本尊左側にある厨子内に20体以上の木造立像がある。

その中の一体は「ジュラクサン」だ、と八人衆がいう。



「ジュラクサン」は子供の守り神。

子供を授かれば小さなダルマさんを寄せる風習であるという。

かつて別のお堂に安置されていた「ジュラクサン」である。

80年ほど前にお堂が破損したことから合祀したと五ケ谷村史に書いてあった。

「ジュラクサン」はたぶんに「じゅうらせつにょ」。

鬼子母神とともに仏説法に接し、法華行者を守る眷属として仕えた十羅刹女。

いつの時代か判らないが、中畑に鬼子母神信仰があったのだろう。

(H27. 9.15 EOS40D撮影)

佐味の八王子講

2016年06月12日 07時38分30秒 | 田原本町へ
昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に興味をもったのはいつだったろうか。

平成23年3月11日に訪れた橿原考古学研究所付属博物館。所属のY主任学芸員が田原本町図書館にあると聞いてからの2年後にようやく探し出した。

この日の打合せはK主任学芸員が企画していた「弥生の里~くらしといのり~春季特別展」に展示する農耕儀礼の写真についてだった。

その日に起こった東日本大震災。

その後に発生した大津波を映し出すニュース映像に向かって「早く逃げるんや」と叫んでいたことを思いだす。

それはともかく、貸出するには図書館利用カードの申請がいる。

簡単な手続きを済まして持ち帰ったのは、平成23年4月のことだった。

くまなく調査された年中行事の本は田原本町教育委員会編。

詳細な情報に感動する。

大字佐味で行われている行事に惹かれたものがある。

天神社境内で行われる七日盆のヤマモリと八王子講が主催する子供の相撲だ。

平成25年9月15日に訪れるも尋ねた村人は知らず、手掛かりを得られなかった。

翌日の16日も訪れた。

集落を歩いて存じている人を探し回った。

1軒家に居られた住民に声を掛けたらヤマモリの日は8月第一日曜日と判った。

夕方ともなれば村全戸が集まってくる。

境内にシートを広げて弁当を食べる。

大勢なので壮観な状況になるという。

その人は云った。

隣家は八王子講の一人だという。

しかし、呼び鈴を押しても無音。

不在のようだ。

翌年の平成26年8月3日にも訪れた佐味。

その日のヤマモリは雨天で中止だった。

同年9月14日も訪れた。

神社前に数人が居た。

その人たちは八王子講の講元を存じていた。

家を訪ねてやっと会えた。

奥さんが詳しく説明してくださったが日程は変動型だった。

予め聞くしかない。

もしやと思って出かけた今年の9月12日。

講元の話しによれば13日だという。

知ってから4年目。

ようやくお目にかかることができる。

現在の講中は5軒。

組織された時代は不明だが、当初は10軒だったと伝わる佐味の八王子講。

昔、昔のことだ。曽我川が大雨で洪水。

川は氾濫した。

小字初田(八田とも)の田んぼに神さんを祀るヤカタが流れ着いた。

それを祭り始めたのは田の所有者。

磯橋家はウチワ親戚筋の同族に声を掛けて講ができた。

八王子講はハツオサン(或はハッタサン)と呼ぶ祭りごとを始めた。

磯橋家ご一統に数軒の家とともに構成された10軒であった。

一統の発起人家で祀っていたが、佐味の氏神さんを祭る天神社境内の一角にヤカタを遷し八王子社とした。

明治22年旧8月13日より書きだした『八王子講連名帳』によれば、「萱野原姫命御殿」こと八王子社は明治22年10月に玉垣とともに営繕したと書かれている。

講中の話しによればこれよりもっと古い文書があるらしい。

おそらくは江戸時代のものであろうか。

それを見ないことには断定できないが、八王子社の創建は江戸時代まで遡るようだ。

なお、現在の社殿は昭和12年3月28日に新調したと文書に記されている。

提灯に記された八王子の神さんは萱野原姫命。

オヤとも呼ばれる講中・ヤド(宿)家の玄関に立てた提灯である。

近年においてヤド家は公民館に移ったことから掲げることはない。

かつては高張提灯のように掲げていたという。



提灯に書いてある「萱野原姫命」は、もしかとすれば野槌の神さん。

野ノ神さんであれば野神さん。

連想はともかく佐味・八王子講に「蛇」は登場しないから野ノ神さんでもなさそうだ。

流れ着いたのはヤカタである。

ヤカタに神さんの名があったのか、継いできた講中に詳しいことは伝わっていない。

かつての八王子講の営みはオヤと呼ばれる「宿(ヤド)」家に集まっていた。

御供の調製、八王子社参拝、村子供の相撲を終えたらオヤ家の接待料理をよばれていた。

訛って「デン」と呼ぶ膳を風呂敷に包んでオヤ家に出かけた。

「今日はお世話になります」と挨拶して座敷にあがった。

家の料理は手間がかかる。

20云年前からパック詰め料理になった。

いつしかそれも面倒になり料理屋に出かけることにしたという。



それはともかく御供の調整はオヤ家でなく、今では場を移した公民館だ。

オヤが準備した真竹に白紙。



竹をナタで割ったところに切り抜いた幣を差し込む。

これを2本作る。

御幣は子供相撲の最優勝者に授与される。

もう一本はオヤが貰って帰る。

神棚などに供えて一年間、家の守り神として掲げるようだが、優勝した子供の家ではどうしているか判らないという。

ハツオサンに供える御供を調整する。



一つは半切りしたカボチャを土台にコーヤドーフ、ミョウガ、二度豆、乾物シイタケを竹串で挿す。

コーヤドーフは胴体。

ミョウガに二度豆は左右の両手を表現しているように思える。

そう見立てたらシイタケがまるでお顔のように見えてきた。

もう一つは折敷に盛った供餅。

今では配りやすいようにコモチになったが、かつては2段重ねの鏡餅。

下段は一升で、上段が五合のモチゴメで搗いたという。

一升餅に相当する下の段にコモチを並べる。

コンブ、スルメの順に載せた上の段にもコモチ。

これが五合に相当する鏡餅だ。

御供調整を終えた講中は時間ともなれば八王子社へ出向く。



予め結っておいた注連縄、真竹の御幣、鏡餅御供、野菜御供などを抱えて公民館を出発する。

集落を抜けて天神社の鳥居をくぐる参進。

天神社境内の北端に鎮座するのが八王子社だ。

講が組織された当初は10軒だった。

平成17年までは8軒であったが、今では5軒になった八王子講が祀っている。



社殿に注連縄を架けて、お神酒、塩、洗米などの神饌を供える。

稲藁で編んだ筵を敷いて野菜造りの御供も並べる。

社殿左右に御神前提灯を掲げて火を灯す。



講中は一同揃って2礼2拍手1拝。

神職は登場することなく淡々と進行されたハツオサンの祭り。

その次は村の子供を集めて相撲が行われる予定だった。

前夜から雨が降りだす天気予報。

社殿前に設えた土俵はずぶぬれになると想定された。

取組相撲はできそうにもないと決断されて今年はやむなく中断。

晴れ間であれば朝にマイク放送をして子供たちに相撲の案内をする。

集まってくるのは5人ぐらい。

幼稚園から小学6年生が対象者。

かつては男児だけだったが女児も参加できるようにした。



昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に載っている写真では男女13人もいる。

写っていない周りにはもっといたのだろう。

行司は講中が務める。

見合った子供の背中を叩いて合図するらしい。

「はっけよい のこった のこった」と采配するようだ。



参拝を終えた講中は清めの塩だと云って、土俵の場に塩を撒いて解散した。

(H27. 9.13 EOS40D撮影)

小夫秀円寺の薬師籠り

2016年06月11日 08時41分10秒 | 桜井市へ
突然の入院・心臓手術などで2か月間も中断していた民俗行事の取材。

切断した肋骨がまだくっ付いていない心臓に負荷をかけないようであれば出陣は可能と云われた医師の診断結果。

今夜の取材はお堂の中だけであるから負担はない。

そう思って動きが少ない取材復帰第1号を当地にした。

本来は9月12日。

今ではその日に近い休日に垣内の人たちが集まって営む桜井市小夫・秀円寺の薬師籠り。

小夫では垣内ごとに最寄りの寺がある。

それぞれで営みがあるようだ。

秀円寺の営みは在所の東垣内と戦後ぐらいに廃寺となった馬場垣内の人たち合同で営まれる。

夜、真っ暗になったころに集まる。

秀円寺の屋根は銅板葺き。

銅板に替える前は茅葺だったようだ。

数人の垣内住民は存知しているが、その人たちが居るのか、居ないのか。

門戸から声を掛けて上がらせてもらったが、知らない人ばかり。

取材の主旨を伝えるとともに区長の承諾も得ていると話したら受け入れてくれた。

その人たちは年番さん。

寺行事を進行する役目だ。

挨拶を済ませたお堂の土間。

昔ながらの土間作りである。

昭和時代を思い起こすカマド(竃)が土間にある。



「断熱材パーライト特製新案特許三和かまど」のネームプレートがある二連式。

コンクリート土台に積んでいた。

昭和10年に新案特許を取得した三和かまどは田原商店製。

大分県大分市の「三和かまど宮崎商会」が継いでいるようだ。

それはともかく、三和かまどを導入する以前のカマドは土で塗り固めたカマドだったという。

傍には昭和時代の末まで煮炊きしていた大鍋が残されている。

葬儀のときに炊き出しをしていた大鍋。

使われなくなって錆びてしまった。

いずれにしてもカマドの火焚きは雑木。

燃えた雑木の煙があがる。

煙は煤となって天井に・・。



見上げた天井に黒くくすんだ竹のようなものがずらりと並んでいる。

間違いなくススダケだ。

元々のススダケはシノダケ。

長年の煤がついて真っ黒けになった。

カマドの火煙は煤となって天井に昇ってシノダケを黒くした。

黒くなったシノダケをススダケと呼ぶのはこういうことだ。

ススダケは利用価値が高いという当番さん。

なかでも横笛のリードにも使われているという。

長年に亘って溜まった煤でできあがるススダケの入手は困難。

解体されることが判ってはじめて手に入れられる。

同じような話しを聞いたことがある。

生駒市高山在住の竹製花器作り職人の冬場は竹製の箸作り

原材料は入手困難のススダケだ。

茅葺家を解体する情報は一般の人が耳にいれることはない。

明かすことはできないあるルートにお願いしているらしい。

高山在住、職人手作りのススダケ材の箸をもらった。

手に馴染んで滑らない箸は先が細い。

料理を摘まむのが最適だ。

硬いものを摘まむ際は折れそうに思えるがそうではない。

箸はしなるだけ。

竹の特性が直接手に伝わる箸は4年間も使い続けている。

籠りの名がある小夫秀円寺の薬師会。



今では無住寺になっているが、昭和35年9月10日に入寺された如実良仙和尚が居られたころは薬師会式が行われていたようだ。

本尊木造薬師如来坐像、地蔵菩薩半跏像、弘法大師像などを安置する秀円寺。

史料によれば、享保年間時代の秀円寺は「周圓寺」の文字を充てていたようだ。

この夜の薬師籠りは会食を目的に参集される。

「なにもないで」と区長からいわれていたが、ある村人から大きな鉦と小型の鉦があると聞いている。

それがどのようなものなのか、年号・製作者名等の刻印があるのか。

これを調べたくて訪れた夜間訪問だった。

鉦の件は後述するが、お堂奥にあったご詠歌集が気になった。



一つは「昭和12年6月19日 西国三十三所 御詠歌集 秋山某」と書いていた。

もう一つのご詠歌集は「贈 東・馬場両垣内 西国丗三所 詠歌集 如実上人良仙和尚」とある。



このことから如実浅井良仙和尚が入寺された昭和35年9月にはすでに馬場垣内の人とともに営む共同の場になったようだ。

内陣左側にある大きな鉦。

木枠より紐で吊るされている。



縁も入れた最大直径は31cm。

内径は26cm。

木枠の形、鉦の大きさから判断して双盤鉦に違いない。

このときは見えなかった刻印。

戻った自宅で画像の検証をすれば「兼光作」の文字があった。

物的証拠の年代・在地など示すものはなく、作者名だけだった。

鉦講による双盤鉦打・念仏が行われる奈良市旧都祁村・白石の興善寺がある。

ここでは十夜の他、盂蘭盆会に双盤念仏がある。

白石の双盤念仏は平成21年に奈良県無形民俗文化財に指定された。

白石近辺の天理市福住町・西念寺も鉦講による双盤念仏がある。

講中は解散したものの双盤鉦だけが残されている地域がある。

天理市苣原町・大念寺、室生下笠間・春覚寺、大和郡山市井戸野町・常福寺、奈良市田中町・光明寺、大淀町佐名伝・佛眼寺などだ。

大淀町・松田度さんの調査によれば、大淀町持尾・金蓮寺にもある。

小夫は融通念仏宗派。白石・興善寺、福住町・西念寺、苣原町・大念寺、室生下笠間・春覚寺もそうだが・・。

昔は鉦講があったのかも知れない小夫秀円寺の双盤鉦に感動する。

秀円寺内陣には双盤鉦の他に三本脚の伏せ鉦があった。



一つは18cm。

「室町住出羽大掾宗味」の刻印がある。

もう一つも伏せ鉦であるがやや小型の13cm。



これには「奈坂町□□□ 室町住出羽大掾宗味作」とあった。

これまで県内各地に残された鉦を幾度となく拝見した。

導師が打つ伏せ鉦を発見するたびに裏を拝見する。

私が調査した範囲内の事例で最も多い作者名は「室町住出羽大掾宗味」だ。

事例は多いが作者名ばかりだった鉦。

そのなかで明確な製作年代の刻印があった。

鉦の存在を知ったのは大和郡山市白土町・念仏講が所有する六斎鉦である。

貞享五年(1688)の記銘があった。

「室町住出羽大掾宗味」は「天下一」の称号刻印を付記している場合もある。

時代的な背景から「天下一」称号が許された時代の境目は天和二年(1682)だ。

「天下一」の刻印があった鉦は大和郡山市井戸野町・観音堂、天理市新泉町・大和神社、下市町阿知賀・光明寺、大淀町畑屋にある。

これらは小夫秀円寺の伏せ鉦以前に製作されたと思える。

ちなみに小夫秀円寺の鉦は6月の虫供養・数珠繰り法要の際に叩かれるようだ。

この夜に集まった村人は20人。

僧侶はいなくとも薬師籠りが始まる。



安置する本尊、脇仏にローソクを立てて火を灯す。

導師が座る内陣にも灯す。

導師も年番。

少し斜め下限に腰を下ろして手を合わせる。

周りを囲む年番や村人も手を合わせて拝む。



会式はこれだけである。

籠りの会場に運ばれる膳はパック詰め料理。

かつては自前料理を作ってお堂で食べていたそうだ。

秀円寺では年間通じてさまざまな会式などがある。

1月15日は芝よせ。

祝日の成人の日であったが、ハッピーマンデーの施行によって日程が替わるようになった。

2月8日は針供養、同月15日は涅槃会、26日は元祖忌、3月5日は大通忌、同月18日は英霊慰霊祭、21日は春の彼岸会だ。

4月8日は潅佛会、6月16日は虫供養、7月7日は法明忌、8月5日は塔まいり、同月14日盆棚経、24日は地蔵会、9月12日は薬師会、同月15日は阿弥陀佛会、23日は秋の彼岸会。

10月14日は十夜会、12月8日は成道会である。

実に多様な寺行事に圧倒される同寺は融通念仏宗沙門。

昭和35年9月10日に入寺された如実浅井良仙書の年中行事表を掲示していた。

年中行事すべてを今でも営んでおられるのか聞きそびれたが、春・秋の彼岸に6月の虫供養に念仏衆が鉦を叩いて唱えるらしい。

現在は無住寺であるからすべてはされていないように感じるのだが・・・。

なお、小夫の庚申さんは点在しているようだ。

垣内によって異なるが庚申石塔は大きなものもあれば小型のものも。

一つの場に2体もあれば7体もあるという。

(H27. 9.12 EOS40D撮影)

丹後庄のイモ名月

2016年06月10日 07時39分12秒 | 大和郡山市へ
平成27年の旧暦八月十五日は新暦でいえば9月27日。

いわゆる旧暦十五夜であるが、満月ではない。

満月は十五夜の日から多少前後する。

この年の満月は一夜後の翌日。

旧暦十六夜(いざよい)の呼び名がある日だ。

この年より4カ年~2カ年前に満月は同一日の旧暦十五日だった。

前年、今年は一夜後の翌日。

この年より2年間は二夜後の翌々日になる。

で、中秋の名月と呼ぶ日は満月の夜ではなく十五夜。

満月でなくとも、名月を愛でるに相応しい呼び名が十五夜だ。

雲に覆われることなく一点の曇りがない十五夜。

「うーさぎ うさぎ なにみてはねる じゅうごやおーつきさん みてはーあーねる・・」の唄が思わず口に出てハミングする名月夜になった。

それにしても昨今は十五夜、十六夜の満月をいつから「スーパームーン」と呼ぶようになったことが気がかりだ。

平成21年(2009)までは一言もなかった「スーパームーン」は翌年の平成22年(2010)になれば数件、さらに1年後の平成23年(2011)では一挙に膨れ上がったようだ。

新聞やテレビが名月を報道する名称の「スーパームーン」に違和感を持つ。

それよりも、十五夜、十六夜と呼ぶ方が季節を感じる歳時記だと思うだが・・・。

十五夜の晩に収穫を祝ってお月さんを愛でる風習がある。

県内各地の民家で度々耳にするススキとハギの花を飾って皮を剥いたサトイモを供える風習だが、各家によって在り方がまちまちだと聞いている。

聞いているだけでは実態は掴めない。

今でもしていると、お家の方が話してくださっても取材は簡単にできるものではない。

家の在り方だけに内部事情を見られたくない、撮らせてもらっても公開することはできないのが一般的だ。

そういう状況であるが、ごく一部に親しくさせてもらっているお家がある。

地域の祭りや行事を取材して親しくなった人もおれば、仕事柄親しくなった人もいる。

いずれも高齢者に比較的近い人たちだ。

この年に訪れた地域は大和郡山市の丹後庄町。

「うちとこのもう一軒ぐらいしかしてないと」話していたご婦人は昭和2年生まれの高齢者。

送迎仕事の際に話してくれたイモ名月。

カドにススキとハギにドロイモを供えると話していた。

足が不自由な婦人はいつしか送迎することもなくなった。

2年間も離れていた。

お元気であるのか、それとも・・・。おそるおそるの訪問にインターフォン越しに婦人の声が聞こえた。

懐かしいお顔を拝見するなり、「今夜はイモ名月なので、今からドロイモの皮を剥こうとしてましてん」という。

水洗いしたドロイモを手にして包丁で皮を剥く。



白い素肌を見せるドロイモを鍋に入れる。

イモ名月に供えるドロイモはすべてではなく数個。

数に決まりはないが、伸びた芽があるイモだけを供える。

「神さんに供えるもんやから芽が出ているイモでないと・・」と云いながら皮を剥いていく。

昔はメリケン粉の5分の米粉を混ぜて作ったダンゴを供えていたというMさん。

嫁入り前に住んでいた実家では「十三ひとつの十四を供える」と聞いていた。

「懐かしい言葉や」と思いだされた出里は斑鳩龍田神社近く。

嫁入りした丹後庄町では聞き及ばないようだ。

「うちにダンゴはないけど、近所のY家はダンゴを供えているから行って来たら」と云われてマツリ取材でお世話になったY家を訪ねる。

この日は育てたモチゴメの収穫日。

孫まで手伝って家族総出の稲刈りをしていたそうだ。

終わって帰ってきたばかりの時間帯。

身体を休めてから供えると云っていた。

「間をおいてまた来ます」と云って再びM家を訪ねる。

お供えの塩、洗い米を準備していた。

お供えが調ったところで台はどこに。

納屋にあるから出してくれと頼まれていつもの場所に置く。

隣家のY家からもらったススキとハギは年代ものの古い金製バケツに浸けていた。

ハギの花は水に浸けていても乾きがあって萎れる。

十五夜の夕方近くの時間帯。

旧村の田園を走行していたらススキやハギを刈り取る人と遭遇する。

夕方であれば時間の経過が少ないから萎れ方はまだましなのだ。

塩、洗い米をおまして古い金製バケツに浸けていたススキとハギを一輪挿しの花瓶に入れた。

お供えを乗せる台が納屋にあるから出して並べてと云われて立てた。

バックのお花と混在するので位置を替える。

お月さんがよく見えるように「カド(屋内の庭)」内であれば適当な処に移してくれていいよと云われて移動する。

足が不自由な婦人は88歳。

自宅内であっても老人用乳母車は必需品。

ガタゴト押して移動する。

お月さんがよく見えるように「カド(屋内の庭)」内であれば適当な処に移してくれていいよと、さらに云われて移動する。



奥に居られる婦人ともう一つの納屋に黄色くなりかけた家の柿の木を背景に撮らせてもらった。

イモ名月の写真は県立民俗博物館で紹介するかもしれない。

それが婦人の条件である。

数年前にMさんが話していた名月。

豆名月の旧暦九月十三夜にも供えていたようだ。

丹後庄町ではもう一軒がイモ名月をしている。

M家のイモ名月を拝見して近所に住む友達家のY家を再訪する。

門屋はすでに閉まっていた。

呼び鈴を押して門扉を開けてもらう。

カド奥の玄関口にイモ名月を供えたタナがあった。

M家と同様に塩、洗い米に突きだす若芽のドロイモを供えていた。



イモの数に決まりはないが神さんに供えるものだから奇数の3、5・・という。

そこに供えた月見ダンゴは和菓子屋さんで買ったものだ。

御供したM家の婦人の出里は斑鳩龍田神社近く。

メリケン粉に5分の米粉を混ぜて作ったダンゴを供えていたという。

婦人が二十歳の頃とすれば68年前。

母親から伝えられた言葉に「十三ひとつの十四を供える」があった。

何を意味するのか記憶にないという。

「あんたが来るのを待っていた」と云いながらローソクを家から持ちだした。



ローソク立ては風が吹いても消えないような器型に立てようとするが、僅かな風に吹かれて消える。

一瞬の灯に照らされたイモ名月を撮らせてもらう。



そうこうしているうちに日が暮れてきた。

東の空に昇ったお月さんが塀向こうに現れた。



お月さんが出てくる方角にイモ名月を供えた家人たち。

東方に輝きだしたお月さんを愛でていた。

(H27. 9.27 EOS40D撮影)

西椎木の弁天さんの祭り

2016年06月09日 09時14分07秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市椎木町は二社を鎮座する。

東垣内は杵築神社で、西垣内地区は厳島神社だ。

杵築神社は東・西両地区からなる長老十人衆が祭祀を務めているが、西に鎮座する厳島神社は西地区の弁天講(座)が担っている。

平成2年10月発刊、旧村・椎木町の『椎木の歴史と民俗』によれば厳島神社には二社殿があり、本殿は市杵島姫命を祀り、相殿は八王子と書いてあった。

組んだ石垣の上に建之された二社殿。

右の扉は一枚だが、左は三枚の扉になっている。

おそらく右が本殿であろう。

『椎木の歴史と民俗』によれば、崇敬者3名により大正五年七月に祈念の厳島神社合祀祭木札が東地区の光堂寺内に残されているとある。

村の人たちは「ここに持ってきた」と話していた。

木札と記憶伝承から推測するに、西地区へ合祀したのであろう。

村の人が話していた「ここに持ってきた」と一致する。



厳島神社に玉垣を新設寄附されたのは昭和28年12月吉日。

当時の西椎木の世話人一同(24人)だった。

その後の昭和32年7月1日竣工した社殿改築寄附は大字椎木西垣内の氏子一同である。

神域・境内はそれほど広くない。



本殿前にある建物は拝殿であるが、座小屋のようにも思える造りだ。

氏名と家紋を描いた家の提灯を持ち込んで拝殿に吊るした。



この日の行事は西椎木の弁天さんの祭りである。

営みは弁天講の人たちによって行われる。

西椎木弁天講の定書があるそうだ。

表紙に「萬延元年(1860) 申九月七日 弁才天講座定書 新帳写」。

「定 当申年より相談之上当屋壱人二相定昼座ハ当屋二亦相勤メ夕座ハ本社昼前二亦相勤申候年々作徳米之儀ハ村直段二亦当屋ヨリ取立上納差引ハ宵宮賄入用二仕候尤値段高下之儀ハ当人ヨリ引請申候事云々・・・」とある。

定書には続きがあった。

「当屋之儀ハ壱人ニテ御座候得共酉年より相談之上弐人づつ二相定候事」である。

萬延元年の定書では一人当屋であったが、何らかの事情が発生したことから、翌年の酉年には二人制に替えたのだった。

「弁才天講座定書」に御供とか、座の食事内容が書かれている。

昼座の献立は飯、京盛、汁、豆腐、やき頭、青ミ入、坪、竿、め、胡摩がけだった。

座は夕御膳もあったが詳細は省く。

興味を惹かれたのは本殿御供の昼御膳だ。



「もっそう、め、大器盛、供もち・・・」。

県内事例から推測する“もっそう”は蒸し飯を木型に詰め込んだ押し飯であろう。

充てる漢字は「物相(飯)」だ。

私が調査した範囲内であるが、今でも「もっそう」を作って供えている大和郡山市内の地域に白土町、石川町(本座古基座)のマツリがある。

両地域とも「モッソ」と呼んでいた。

奈良県内では8事例に見られる御供の「モッソ」である。

今では「もっそう」を拝見することはできない西椎木の弁天さんの祭りであるが、カシラ芋を根付き株のまま供える里芋がある。

「座」に場に供えた神饌である。

コイモをたくさん付けたズイキ芋の茎一対を供える。

コイモは子孫繁栄を願った形であろう。

「弁才天講座定書」にある「京盛」は「京ノ飯」とか「饗飯」表記する地域と同じであろう。

「京盛」はそう思った通りに『椎木の歴史と民俗』では「キヨノ飯」とあった。

各戸から集めた粳米を一晩浸けて二度蒸しする。

方三、五寸の枡で目方を計った蒸し飯は蓋で押さえて抜く。

座につく者に配っていたが戦後に途絶えたと書いてあった。

充てる漢字もなく「キヨノメシ」、「キヨウ」表記をしている地域もある。

いずれも椀に盛った蒸し飯である。

奈良県内の京ノ飯は10事例もあった。

私が存知しない地域にも「モッソ」や「キヨウ」がたぶんにあることだろう。

「弁才天講座定書」は慶応年間もある。

「慶応四年(1868) 辰九月相改 弁材天講中座定書」だ。

この文書にも昼座の献立が書かれてあった。

「九月七日 昼座 飯、京盛、汁、豆腐、青ミ入、焼頭、坪、いも、め、胡摩がけ」だ。

夕座の献立は「もち、豆のこ、坪、いも、酒、肴、め、なしたし物出」である。

本殿御膳に「もっそう」もある。



今では見られない献立はいつまで続いていたのだろうか。

現住民にはその伝えがないようだ。

が、である。

88歳のY婦人が云うには、今ではパック詰め料理になったが、それまではコイモ・ダイコンの煮物や菜っ葉煮たものもあったようだ。

間引きしたダイコンの味噌和えもあった。

手でぐちゃぐちゃ千切った豆腐を入れた味噌汁椀だけは今尚弁天講の「座」に差し出している。

現在は会所で膳をよばれているが、かつてはヤド(宿)でしていたと文書にある。

西椎木の朝は早い。

早朝から集まった村住民。

男性たちは道造りに川掘り作業。

婦人たちは会所でマツリに掲げる行燈の張替。

障子紙を剥がすように水に浸けてこする。

綺麗になれば新しい半紙で糊付け。

乾かして三方に「御神燈」、「今月今日」、「西椎木町」を墨書するのも婦人たちだ。



行燈は12個。

10月に行われる東地区鎮座の杵築神社のマツリに西・東両地区12カ所にアニトーヤ(兄当屋)・オトウトトーヤ(弟当屋)が掲げる。

トーヤ両人は西・東地区の村座。

西地区独自の弁天講(座)トーヤと重なる年もある。

今年は当たりの年になったとトーヤが云う。

完成した行燈の前に竹数本が置いてあった。

これは弁天さんに奉る御幣や御湯の儀に使われる小幣になる。

この年は神職、巫女とも替わった。

これまで務めていた宮司は年齢および身体事情で辞められた。

それに伴って巫女も替わった。

急な要請に応じてくれた神職は椎木町と関係が深い春日大社である。

これまでの巫女は同市内若槻町在住の加奥さんだった。

神職に連れだって隠居された。

やむなく三郷町在住の坂本巫女に替わったのだ。

詳細な引継ぎをすることもなく座中が撮った写真や言葉で神職に伝えていた。



本殿、相殿に供える御膳などの並べ方はああやこうやと云いながら調えるころともなれば座中婦人や女児たちが集まってきた。

「弁天さんは女の神さんやから私らは玉垣の外までですねん」と云ってその場に居る。



足腰が不自由な人は老人乳母車でやってきてそれに座って待つ。

大・中御幣は予め立てていた。



弁天さん祭りの神事が始まった。

巫女は神職とともに並ぶ。



座中は拝殿に居る。

神聖な場に立ち入ることはできないので、拝殿際の外から撮らせてもらう。



修祓、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠などが行われる。

神事を終えれば境内に場を移す。



プロパンガスの火で予め湯立てた湯釜の前に座る巫女。

小幣と取りだし左右に振る。

皿に盛った洗米をパラパラと湯釜に落とす。

お神酒を何度か注ぐ。

祓った大幣を湯釜に浸けて祝詞を奏上する。



鈴と大御幣を手にして神楽を舞う。

そして二本の笹竹を湯に浸けてばしゃばしゃ。



もうもうと湯けむりがあがる。

椎木の地に神さんを勧請される。

四方ごとにお戻り候と告げる。

そして神楽を舞う。

御湯に浸けた笹竹を手にして座中一人、一人丁寧に湯祓いをされる。



玉垣外に居られた婦女子にも湯祓いをする。

なお、今回は見られなかった巫女の藁帯(サンバイコ)がある。

椎木ではこれを貰って帰り、布団の下に敷いて寝ればお産が軽くなる云い伝えがあった。

丁寧な扱いに喜んでいた座中は境内で直会。

お神酒を飲んで下げた御供のスルメと昆布をいただく。

こうして弁天さんの祭りを終えたら、奉った御幣などを公民館に運ぶ。



弟当屋が徐に御幣を立てた。

その地は荒田の角地だ。

奉奠した玉串とともにその場に立てた。



何故にこういうことをするのか・・誰に聞いても判らないと返した。

(H27. 9.27 EOS40D撮影)