
1853年から1992年まで外交面での節目を、人と名言によせて描いてある。そこには驚くほどその時のその人の心理が鮮やかだ。
1853年といえば、黒船の来襲で時の幕府があたふたとした時代だ。まさに鎖国をこじ開けた最初の外圧となった。マシュー・ペリー提督の強気な交渉術は、今のアメリカにも受けつがれているように思えてならない。イヤイヤをする子供の手を引くように、国際舞台に引きずり出されて88年後、わが日本は強大国アメリカの横っ面を突然張り飛ばすという挙に出た。
1941年12月 8日(アメリカでは、7日) 真珠湾奇襲攻撃だ。アメリカ側は、姑息なだまし討ちだとして今でも忘れていない。それは日本軍部の意図したことではなかったが、ワシントンの日本大使館の不手際の結果だった。つまり開戦時間が過ぎてから宣戦布告の覚書が手渡された。
当時の国務長官コーデル・ハルは、「私は50年の公職生活を通じて、これほど恥知らずな偽りとこじつけだらけの文章を見たことがない。こんなに大がかりなうそとこじつけを言い出す国がこの世にあろうとは、今の今まで夢にも思わなかった」と激怒したという。ただ、その覚書とやらの詳しい文言については言及していないのでなんともいえないが、日米の国力の格差は歴然としていて、アメリカ側は圧倒的に優位だと考えていた。
したがって日本政府が合理的な判断をすれば、よもや戦争をおっぱじめるとは考えてはいなかった。ただ、グルー駐日大使の意見は、「日本をあまり追い込むと、日本人は恥よりも死を選ぶ傾向がある」と警告していた。そしてそのようになった。この戦争の問題点は、日清、日露の戦争とは異なり、終戦構想がないまま開戦したことだった。
1945年9月27霊南坂の旧アメリカ大使館で、昭和天皇と連合国総司令官マッカーサー元帥が会談した。当然立場は、敗戦国と戦勝国という図式である。勝手な想像をすると、相手は天皇といえどもマッカーサーから見れば、単なる敗軍の将に過ぎない。態度は居丈高で言葉はぞんざいな命令調で、煮て食おうが焼いて食うのもわれの気持ちしだいという見下したポーズは致し方ないかもしれない。
それに引き換え敗戦国の負い目を持つ天皇陛下は、とつとつと語る。「自分はどうなってもよろしい。私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした。国民を飢えさせないでほしい」と訴えた。
マッカーサーの心が動き出した。「死を伴うほどの責任、それを私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄まで揺り動かした」と後に回想しているという。

ここに有名は一枚の写真がある。天皇・マッカーサー会談時のものだ。天皇陛下はモーニング姿、マッカーサーは開襟の軍服姿、両者の立場を如実に物語る。
戦争は終結を描きながら行うものとすれば、個人の喧嘩も落としどころというか逃げ道を空けておくのが不幸を回避する秘訣か。夫婦喧嘩を思うとつくづく考えさせられる。しかも、喧嘩もしなくなった夫婦は、悲劇というしかない。国家間の戦争も最小単位の夫婦の諍いも、根っこのところは同じところにあるのだろう。