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読書 ピーター・へイニング編「死のドライブ」(3)

2007-04-14 15:42:33 | 読書

ジャック・フィニィ「二度目のチャンス」
 
 この短編はあらすじを書くのは難しい。33年前に打ち捨てられた車、ジョーダン・プレイボーイを新車同然に再生し、いつの間にかタイムスリップするというが、余韻のある文体とあっては、全部を書き写さなくてはならない。それは出来ない。
 
 また“もしも、あなたが四十歳より若ければ、ジョーダン・プレイボーイの名を、耳にしたことはないだろう。もっとも、僕みたいに、最新のツートンカラーの57年型車よりも、1926年のマーサーのコンヴァーティブル・セダンや、1931年のパッカードのツーリングカーや、24年型のウィルス・サント・クレアや、31年型の空冷式エンジンのフランクリンのコンヴァーティブル――もしくはジョーダン・プレイボーイ――のオーナーになりたがる類の人なら別だけれども”という文章にも、車名すらすっきり理解できない。

 おまけに“スィッチを入れ、点火時期を早めた状態にして、クランクを持って、エンジンを始動させた”や信号で横に並んだ高級オートマチック車とのダッシュレースで、“信号がぱっと切り替わると、男の足がアクセルにかかり、オートマチック・トランスミッションが働いて、顔はすでに笑いが浮かびはじめていた。
 でも、そのときには僕も着実かつゆるやかにアクセルを踏んで発進していた。互角の勝負は、僕がこれまで発明されたどんなオートマチックよりもすばやくセカンドに入れたときまでで、完全に先行にて振り返ったのは、笑いを浮かべた僕の方だった”

 このクランクを持ってエンジンを始動させたやマニュアル・トランスミッションをセカンドに入れたの二つを過去に目にし、あるいは実際に操作した人は、今では非常に少ないと思われる。それを体験したことを思うと、なんと長い時間を生きてきたのだろうと愕然とする。

 この本の主人公の僕ともう一つの主人公でもあるジョーダン・プレイボーイを、著者はどうしても読者にイメージしてもらいたいらしいので、そこの部分を引用しておこう。
 “こういう年代ものの素晴らしい車について関心があるかないかはどうでもいい。心の中に思い描いてほしい。シンプルな直線的車体から大きなスポークタイヤの四つ輪がボディーの外にはみだし、リアにしょったスペア・タイアが丸見えの二人乗りのオープンカーだ。
 余計な線、無駄な線は一本もつけたしてはいけない。左右のドアは真四角にしてもらおう。ドアにふさわしいこれ以上の形があるだろうか? ボンネットは丸く完全に覆っていて、エンジンには通気が必要だから、両サイドにはルーパー(放熱孔)を書き入れて欲しい。
 でも、ただの一本でも不必要な曲線、ぎざぎざ、のたくった線、あるいは丸い開口部を入れてはいけない。そしてラジエーターをはっきり包み隠さず描いてもらいたい。そうすれば、いま僕が軽快に走らせているとおりのプレイボーイが見えてくる。
 大きな古木の並木を通して夕陽が斜めに射しかけ、目が痛いほどニッケルメッキにきらきら反射し、濃緑色のボディーは宝石のように光を放つ。美しい、ほんとうに美しい”著者の車に対する愛情を感じるのは私だけだろうか。

 ウィキペディアによれば著者(1911.10.2-1995.11.16)は、ウィスコンシン州ミルウォーキー生れ。SF作家、推理作家、ファンタジー作家で、イリノイ州のノックス大学を卒業、ニューヨークの広告代理店でコピーライターを勤めながら、小説を書き始める。1947年、ミステリ専門誌「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の短編コンテストで「未亡人ポーチ」が特賞を受賞した。

小説 人生の最終章(6)

2007-04-13 11:27:34 | 小説



 けいは、夢を見ていた。男に抱かれている夢だった。激しいキスと乳首の愛撫、愛撫の手は茂みの下の、敏感な部分に下りてきた。あっという声に目を覚まして、見ると自分の手がまさぐっていた。
 肩で息をするほどの激しさに驚いてもいた。この歳になってどうしたことなのだろう。夫が亡くなってから四年が経つ。生前の夫との夫婦生活は、夫が病気をする少し前までは順調で、セックスに不満はなかった。
 よく言われるように、男は自分が果てると、妻のことなど見向きもしないのが多いと聞く。夫はそうではなかった。妻が十分満足するのが当然で、夫婦円満の極意はセックスにあると信じて疑わなかった。
 そのためかなり好色な面があって、セックスに関する本を読み、それを実行した。けいも、夫によって多くの性感帯を開発された。かつての貞操観念の強すぎる女はどこにも存在しなくなった。そして今、忘れかけていた快楽が甦りつつあった。それは、香田という男の誘いに刺激されたためなのか。まだ、判然としていない。
 
 パンティに股間の湿り気を感じて脱ぎ捨て、姿見に映った体を恐る恐る見つめる。体形の崩れはあまりなさそうだ。乳首を摘まんでみると、さっきの夢の余韻が残っていたせいか快感が全身を流れる。
 その感覚を振り払うように、急いでTシャツに短パンを身につける。ほっとして時計を見ると、午前七時を指していて外は五月晴れの好天に、東京湾もきらきらと輝いて見えた。ハムエッグとトースト、コーヒーの軽い朝食にして、新聞を読みながらゆっくりと摂る。特別興味のある記事はなかった。相変わらず事件や事故の多さに、厭な気分にさせられる。

 朝食後は、掃除と洗濯に費やされ、いつものようにパソコンの前に座ったのは、昼食を済ませてからになった。
 電源を入れて立ち上げ、メール確認の画面を開く。ここも相変わらず、いろんなところからいろんなメッセージが書き込まれて届けられている。一度でもインターネット・ショッピングを利用するとメールが送られてくる。削除のためチェックを入れていくと、あの人香田からのメールが入っていた。チェックを入れたメールをすべて削除して、香田のメールを開く。
 予想したように、この間の誘いの返事を求めている。あの昼食のとき、メールはしないと決めていたがどうしたものだろうか。けいは迷い始めていた。

 うじうじと考えていても、何の解決にもならない。体を動かして何かに集中して発散するのが、体にも精神的にも一番いい。彼女は決断すると行動は素早い。
 午後三時にはスポーツバッグを引っつかんで、ジムのガラス・ドアを押し開けていた。
 受付の吉田京子が魅力的な笑顔で迎えてくれた。彼女はトレーナーで、本来午前の担当なのに、今日は珍しく午後になっている。
けいが、「あら、午後に変わったの?」と聞くと
「いいえ、今日だけ交代したの。明日は午前になるわ」京子は学生時代からのアスリートで、ランニングなら一キロ三分半で二十キロは軽くこなす。
 そもそも、けいがジョギングを始めるようになったのも、京子が勧めたからだった。何度か近くの海浜公園で一緒にジョギングをしたことがあるが、基礎を叩き込まれた走る姿の美しさには、惚れ惚れと見入るしかない。しかも、彼女はいわゆる八頭身で、身長百六十センチのすらりとした体躯は、アスリートそのものだった。年齢は四十代始めだろうか。けいと一回り近く年齢差がある。

 ロッカールームでジョギングに使っているショート・スパッツに履き替えていると、肉感的で胸の谷間をこれ見よがしにして、あれこれとうるさく聞いてくる女がトレーニングを終えて入ってきた。顔見知りで挨拶をしないわけにはいかない。
「いいわね。あなたのスタイル。私と違って贅肉が付いてないようね。うらやましいわ」
「そうでもないけど、ただ運動と食事のバランスを考えていることは確かね。アルコールは控えめ、美食はしない。タバコは吸わない」とけい。
「あら、それじゃあ、人生楽しくないじゃない?」と女はのたまう。
「決してそんなことはないわ。わたしは十分楽しんでいるわ」と言ってけいは、ジムに向かった。その背中に「いい男がいるのでしょうね。あなたには」
「ありがとう。いずれ見つけるわ」と言ってドアを閉めた。そこで、いやな女はかき消されてしまった。

 ストレッチのあと、自転車漕ぎから足や腕の筋肉強化、腹の贅肉落しなど女性向のコースをこなし、シャワーでさっぱりする。今でも耳の中でこだましているのは、あの女の言った「いい男がいるのでしょうね。あなたには」という言葉だった。
 受付カウンターで吉田京子にカードを返す。「お疲れ様。浅見さん、久しぶりにジョギングをご一緒にお願いできないかしら。明日の午後だけど。母が娘を預かってくれるの。だから大いに楽しもうっていうわけ」
「あら、娘さんがいらしたの?」
「私、言わなかったかしら」
「ええ、そうだけど、ご一緒してもいいわよ。今思ったのだけど、そのあと、家で夕食というのはどう」
「いいわね。ご迷惑でなければ」
「迷惑だなんてこれっぽっちも。じゃあ、それで決まりね。時間はいつでもいいから、そちらで決めてもらって、電話をくださいな」けいは、手を振ってジムを後にした。

読書 ピーター・へイニング編「死のドライブ」(2)

2007-04-12 11:28:08 | 読書
 訳者あとがきから編者紹介を引用すると“ピーター・へイニングは、イギリスの著名なアンソロジストであり、1960年代から今日まで、40年近くにわたって着実に仕事を続けている大ベテランである。
 特に恐怖小説分野では、埋もれた作品を発見して紹介するその手腕と、ノンフィクションなどもふくめればすでに編著の点数が百冊を優に越えるのではないかといわれる多産ぶりは、つとに知られるところだ”そしてこの本には、19編の著名作家の短編が収められている。

E・F・ベンスン「つちけむり」

 ハリーと私は、車の話から事故の話になり、事故にまつわる不思議な目撃談に興味をいだく。それは、ガイという気性が激しく、車に乗っても滅多に減速しない男が、子供を轢いて殺し、自分の大庭園の門に激突して死んだという事故のことだった。
 それからは老人が一人、音を立てない自動車を見たと思い、もう一人は見えない車の音を聞いたという。それ以外に六人からの村人が何かを見たり聞いたりしているともいう。その村の名前はバーチャムという。

 ハリーの友人宅へ昼食に行く話しがあって、そのときバーチャム村の事故現場に寄ってみようかと計画したが、どちらも時間がとれず断念して友人宅に出発した。 車は快調に走っていたが、連続してパンクに見舞われ、しかも点火装置も不調だという。修理工場を捜してわき道に紛れ込んだ。修理工場はあったものの修理に時間がかかって、出来上がったのは夜になっていた。

 夜の闇を切り裂いて走る車の前方に、つちけむりがもうもうと立ち昇っているのが見えた。あれだけのつちけむりは、相当早いスピードで走っていないと出来ないものだった。車はつちけむりに突入した。つちけむりから飛び出して見ると、そこは予期しなかったバーチャム村の事故現場だった。恐くもなんともない話だけどね。

 著者の作品を図書館で調べてみたが、著者名の本はなかった。選集に一編として収録されている程度であった。ただし、この本の解説には次のように記されてあった。“自動車と超常現象をはじめて結びつけた作家は、E・F・ベンスンである。「つちけむり」が最初に発表された1912年当時、自動車はまだ裕福な特権階級だけが楽しめる、新奇なものであった。
 ベンスン(1867-1940)は、ユーモア小説からロマンス小説にまたがる作品を書いたが、二十世紀最良のゴースト・ストーリーの作家の一人としても認められている”

読書 ピーター・へイニング編「死のドライブ」(1)

2007-04-10 12:44:50 | 読書

 訳者あとがきから編者紹介を引用すると“ピーター・へイニングは、イギリスの著名なアンソロジストであり、1960年代から今日まで、40年近くにわたって着実に仕事を続けている大ベテランである。特に恐怖小説分野では、埋もれた作品を発見して紹介するその手腕と、ノンフィクションなどもふくめればすでに編著の点数が百冊を優に越えるのではないかといわれる多産ぶりは、つとに知られるところだ”そしてこの本には、19編の著名作家の短編が収められている。

スティーヴン・キング「トラック」

 トラックが意思を持って乗用車や人間に襲いかかってくる。そのトラックは、マック・トラック、ヘミングウェイ、レオなどのトレーラートラックだ。
 マックというのは映画でよく見る八輪か十輪の大型車ではないだろうか。本書の記述を借りれば“いまそれらのトラックが、トラックサービスエリアの駐車場に停まり、ネコ科の大型獣がごろごろ喉を鳴らすような、低いアイドリングの響きをあげていた”

 食堂に避難した四人の客と食堂の係りは、なす術もなく駐車場を凝視するしかない。暫らくすると、トラックのホーン音が断続した。客の若者がモールス信号だといい、トラックが給油を要求しているという。このまま放置すれば燃料がつきて死に体になる筈だった。ところが、そうはならなかった。
 ブルドーザーが怒り、建物を壊し始めた。客たちは、身の危険を感じて、交代でガソリンや軽油を給油し始める。トラックは延々と道路に連なっていた。そして“二機の飛行機が、暮れなずむ東の地平線をよぎって、くっきりとした銀の飛行機雲を引いて飛んでゆく。あの中に人間が乗っていると信じることが出来たら、どんなにいいか”という慨嘆で終わる。

 どうしてトラックが意思を持ったのか。そこのところは明確にしていないが、コンピューターの進歩は、これらを否定できないところまで来ているということを、暗示的に示しているのだろうか。確かに大型のトラックというのは、ある種の恐怖を表象しているのも確かだ。

 著者のスティーヴン・キングをウィキペディアから引用すると“1974年に長編「キャリー」でデビュー。「ショーシャンクの空に(原題刑務所のリタ・ヘイワース)」「グリーンマイル」「スタンドバイミー(短編小説The bodyの映画化作品)」など著作の多くが映画化、TV化されている売れっ子作家。
                 

小説 人生の最終章(5)

2007-04-09 13:09:50 | 小説



 季節はどんどん移り変わり、爽やかな風を感じていたのが、もう夏日と言う言葉も聞かれるようになった。沖縄地方はすでに梅雨に入っていて、関東地方も近々(ちかぢか)雨の季節を迎える。
 けいも夫の死後、自分一人分のこまごまとした雑事は、あまり時間をとらない。例えば食事、夕食も大げさな献立はなくなった。イタリア料理にワインを楽しむというのも過去のものとなった。洗濯にしても掃除にしても、このマンションに越してきてからは、一時間もあれば十分だった。
 時間に余裕が出来て体を動かさなくなったので、健康のため近くのスポーツジムでトレーナーの指導を受けて鍛え始め、ジョギングも短い距離を楽しむようになった。
 今日も二十五度という夏日で、ジョギングをすると汗が浮き出てくる。ゆっくりと五キロのジョギングを終えてシャワーを浴びて、鏡に映る体を見ると五十一歳とはとても見えないほど張りがある。
 ふくよかな胸や弾力性のある太ももはまだ魅力を失っていない。ただ、ウエストと下腹に贅肉のかけらがつき始めている。オスはこの肉体を見ると、必ず奉仕するはずだ。そんな自信を少しは持っている。
 ふと、先日の香田の言葉が甦ってきた。外房に行こうと言っていた。外房は亡夫の実家があったところで、よく行ったものだ。こんな季節、海で過ごすのも悪くない。誘いにのるか乗らないかで、ずいぶん逡巡してきた。なぜなのかはよくわかっている。亡き夫に悪いと言う気持ちのためだった。ずいぶん古風なと思われるかもしれないが、浅見けいはそういう女だった。とは言うものの、体の片隅では、寂しさを癒すある種の温もりを求めているのも確かだった。



 香田はメールを送ろうか、どうしょうかと何度も考えていまだに決めかねている。浅見けいを誘ってから、もう一ヶ月近くも経つが、彼女からも何の音沙汰もない。男はある程度強引さがないと、女も応えないのではないかとも思う。それは若くて向こう見ずな年代ならば許されるのか。いや、そうではあるまい、情念というのは年齢に関係はない。
 返事がなければ、こちらから返事を求めればいい。メール・アドレスを教えてくれたのは、交信を否定しているものではない。

「浅見けい様
その後いかがお過ごしですか。よもや風邪などの病に侵されて、臥せるということはないでしょうね。先だってのお願い、いかでしょうか。ご返事をくれぐれもお願いいたします。
                              香田 順一」

読書 リチャード・ノース・パタースン「ダーク・レディ」

2007-04-07 13:52:20 | 読書

              
 オハイオ州スティールトン(勿論架空の町)の検察局殺人課課長ステラ・マーズ38歳の、かつての恋人で弁護士のジャック・ノヴァックが殺される。
 その現場は、革のベルトを首に巻かれクロゼットの戸に吊るされていた。ガーターベルトとストッキングに覆われ、しかも睾丸が切り取られていた。
 吐き気がこみ上げ目を覆いたくなる凄惨さだった。その上全く手がかりのない状態が続く。

 ステラの野望は、郡検事の座を目指すことだった。郡検事に上司のアフリカ系アメリカ人アーサー・ブライトがいて、そのアーサーは市長選を戦っていた。ステラの野望実現にはアーサーが市長に当選しなくては席が空かない。対立する現職のクラジュク市長は、かつて鉄鋼の町として栄えたスティールトンの活性化に、地元大リーグ球団ブルーズの球場建設をテコにする思惑を持っていて実行しつつあった。

 これらの政治的な側面と麻薬や売春の横行という裏の事情も絡み複雑な様相を見せている。その背後に麻薬組織の存在が色濃く滲む。自身の立場を守りながら犯人に迫っていくステラ・マーズの苦闘を克明な心理描写を伴いながら、最後は驚くべき真相が明らかになる。上巻・下巻に分かれていて、上巻のほうでは克明に背景の記述があって、下巻は一気に息詰まる展開になる。

 今年も大リーグが開幕して野球ファンの関心を集めているが、テレビで見る球場の中味について次のような記述がある。“球場はもはや野球の試合場ではない。テーマパークです。往時を忍ばせる造りになってはいても、場内には豪華な特別席やビデオゲーム、バーチャルリアリティセンター、特殊な視覚効果、便のいい駐車場、気の利いた飲食物があふれている。つまり、ビール片手に観戦する野球ファンではなく、団体客と裕福な消費者の受けを狙ったものばかり。昔ながらの球場にはないものばかりです”それにつれて入場料も高くなったのだろう。聞くところによると、マイナーリーグの人気もあるとか。映画「フィールド・オブ・ドリームス」のような昔ながらの懐かしい野球場にほっとしている人も多いのかもしれない。

小説 人生の最終章(4)

2007-04-05 13:11:03 | 小説



 香田の帰宅の車の中は、彼女の残像で満たされ、特に病院の裏門で手を上げた挨拶が目に焼きついていて、いやでもにやりとさせられる。それに、彼女のコートの中の肢体を想像して、危うく追突しそうになって冷や汗をかいた。
 それから何度か顔を合わせているうちに、正午にあと十分ほどというとき、「お昼をご一緒しませんか?」と香田が誘ったのがそもそものきっかけだった。



 今日は四月の末なのに初夏の陽気になりそうだと、天気予報は伝えている。浅見けいは、大きく開口をとったリビングからテラスに出て、朝の新鮮な空気を吸い込み前方の海を眺めると、その色はあの寒い季節の鉛色から明るいブルーに変わったようだ。こういう海を眺めていると、元気だった頃の夫とよく海に行ったことを思い出す。
 ぼんやりと考えを巡らせていて、あの香田という人とこれ以上付き合ってもいいものか、心が揺れ動いている。夫に悪いという後ろめたさが、どうしても離れない。かといって浅見けいの男関係が、亡き夫一筋だったわけでもない。
 彼女ほどの美貌とプロポーションの持ち主であれば、幾多の男遍歴があってもおかしくない。ところが、傍(はた)が考えるほどでもなかった。
 結婚まで二人の男と付き合ったが、彼女の貞操観念が強く、男たちは苛立ちとともに去って行った。
 亡き夫を心から愛した彼女は、いま心の虚空がとてつもなく大きなものになっているのを感じていた。かといって、いまから再婚を考えるというのは、一考に値しない。なぜなら、五十一才と言う年齢のこともあるが、それにまつわる雑事、特に手持ちの資産の行方に気を使うのには耐えられない。
 そんな考えを振り払いながら、朝食のトーストとベーコンエッグ、コーヒーをテラスの小さなテーブルに運び椅子に座る。今日のような日、海を眺めながら一人で摂る食事には、慣れてきたとはいえ、寂寥感が忍び寄っていることも確かだった。 香田から、今日診察が終わったら、お昼を一緒にしようと誘われている。その席でどんな誘いをするのか判然としないが、誘いには乗らないと決めていた。

 診察を終えた二人は、駅近くの和食料理店に腰を落ち着けた。ランチセットを注文する。待つほどのこともなくランチセットが運ばれてきて、ゆっくりと食事を摂りながら、話題はあちこちと飛び跳ねて二人にまとわりついた。香田が唐突に
「ところで、インターネットはお使いですか?」と聞く。
「ええ、二年ほど前、息子がパソコンを買ってくれて、使い方も教えてくれました。それで列車や飛行機の時刻を調べたり、乗車券や搭乗券の購入をしたりして重宝していますわ」
「そうですね。調べ物に便利で私もよく使います。それにメールも便利ですね。ああ、そうそう、これが私のメール・アドレスです」と言って香田は名刺を差し出した。香田はパソコンで個人用名刺を作っていた。
 浅見けいの手が出てこないので、テーブルに置いた。彼女は、うつむき加減で考え込んでいるようだ。
「もう一枚いただけますか」香田は予期せぬ言葉に戸惑いながらも
「いいですよ。さあどうぞ」と言ってけいに手渡す。けいはその裏に自分のメール・アドレスを書いて「これが私のです」と言って香田に返した。
「じゃあ、これからは何か連絡したいときはメールにしましょう」と香田が付け加えた。
 けいは、メールのやり取りは一度もないだろうと考えていた。会話は途絶えて何か落ち着かない雰囲気になってきた。香田は誘いの言葉をどこで切り出すかタイミングを計っていたが、息苦しくなってくるようで、この一瞬を逃せば一生悔やむことになるのではという焦燥が拍車をかけた。グラスの水を一気に流し込み
「近いうちにご一緒していただけませんか? 外房の海を見るというのは――」
けいは困惑の表情を浮かべた。目をしばたたきながら
「主人を送ってからまだ時間が……。今すぐご返事と言われても……」
「いや、すぐと言うわけではないんです。ご一考いただければと思います」それからの時間は、ぎこちなさに包まれていた。

小説 人生の最終章(3)

2007-04-02 12:55:38 | 小説



 浅見けいは、手袋をしていても身に凍(し)みる寒さに震えながら、マンションのドアを開けた。室内は外と比べると少しは暖かく感じるが、早速エアコンのスイッチを入れる。
 郵便の束をキッチンのテーブルに置いて、手袋を脱ぎコートを着たまま郵便物をあらためる。請求書やPRなどのいわゆるジャンク・メールがほとんどでゴミ箱に放り込む。その中に一通、市からの健康診断結果の通知があった。肺のレントゲン検査に影があるので医療機関で精密検査を受けるようにというものだった。以前、胃の再検査で胃カメラを呑んで異常がなかったこともあったので、うんざりした気分になった。
 寝室のクローゼットから伸縮性のあるぴったりとした黒のパンツにワイシャツのような襟の白のブラウスそれに濃い黄色のセーターを取り出して着替え、キッチンでお湯を沸かしながら、窓から東京湾を眺める。雪でも降りそうな天候のせいか海の色もどんよりと濁った鉛色で精彩がない。
 もともと海の近くで育ったせいか、海が見えないと落ち着かない気分になる。夫の実家も千葉の一宮で海が近く、二人して海が大好きだった。夫の転勤の多い仕事の関係で必ずしも海の近くに住めるとは限らなかった。
 夫は六十才の定年になると同時に脳卒中で他界した。ストレスの多い仕事のせいかもしれなかった。千葉市に七部屋の瀟洒な居宅を残してくれたが、一人息子の恭一は結婚して東京の月島のマンションに住んでいるので、一人住まいには広すぎるし何かと不用心に思われた。
 そこで居宅を処分して、海を眺めリゾート気分のマンションというキャッチ・フレーズに惹かれて、十階建ての最上階の3LDKを購入した。暖まってきた部屋から見る海は気分を滅入らせるが、春の晴れた日を想像すると自然に笑みがこぼれてくる。
 ふと、今日の病院での出来事を思い出し笑みがつながる。門を出るとき、彼に右手を上げての挨拶に、彼も軍隊式敬礼で答えてくれるという、まるで若者の仕草ではないか。いや、忘れていた軽妙な気分が湧き起こったのだった。
 年格好は、いくら若く見えるといっても六十代は確かなようだ。そんな年代なのに、年齢を感じさせないほど溌剌としている。それにキアヌ・リーヴスが老けるとこんな感じなのかと思わせるようなハンサムで、身長は一七○セインチぐらいか。ちょっと気になる人ではある。