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小説 人生の最終章(6)

2007-04-13 11:27:34 | 小説



 けいは、夢を見ていた。男に抱かれている夢だった。激しいキスと乳首の愛撫、愛撫の手は茂みの下の、敏感な部分に下りてきた。あっという声に目を覚まして、見ると自分の手がまさぐっていた。
 肩で息をするほどの激しさに驚いてもいた。この歳になってどうしたことなのだろう。夫が亡くなってから四年が経つ。生前の夫との夫婦生活は、夫が病気をする少し前までは順調で、セックスに不満はなかった。
 よく言われるように、男は自分が果てると、妻のことなど見向きもしないのが多いと聞く。夫はそうではなかった。妻が十分満足するのが当然で、夫婦円満の極意はセックスにあると信じて疑わなかった。
 そのためかなり好色な面があって、セックスに関する本を読み、それを実行した。けいも、夫によって多くの性感帯を開発された。かつての貞操観念の強すぎる女はどこにも存在しなくなった。そして今、忘れかけていた快楽が甦りつつあった。それは、香田という男の誘いに刺激されたためなのか。まだ、判然としていない。
 
 パンティに股間の湿り気を感じて脱ぎ捨て、姿見に映った体を恐る恐る見つめる。体形の崩れはあまりなさそうだ。乳首を摘まんでみると、さっきの夢の余韻が残っていたせいか快感が全身を流れる。
 その感覚を振り払うように、急いでTシャツに短パンを身につける。ほっとして時計を見ると、午前七時を指していて外は五月晴れの好天に、東京湾もきらきらと輝いて見えた。ハムエッグとトースト、コーヒーの軽い朝食にして、新聞を読みながらゆっくりと摂る。特別興味のある記事はなかった。相変わらず事件や事故の多さに、厭な気分にさせられる。

 朝食後は、掃除と洗濯に費やされ、いつものようにパソコンの前に座ったのは、昼食を済ませてからになった。
 電源を入れて立ち上げ、メール確認の画面を開く。ここも相変わらず、いろんなところからいろんなメッセージが書き込まれて届けられている。一度でもインターネット・ショッピングを利用するとメールが送られてくる。削除のためチェックを入れていくと、あの人香田からのメールが入っていた。チェックを入れたメールをすべて削除して、香田のメールを開く。
 予想したように、この間の誘いの返事を求めている。あの昼食のとき、メールはしないと決めていたがどうしたものだろうか。けいは迷い始めていた。

 うじうじと考えていても、何の解決にもならない。体を動かして何かに集中して発散するのが、体にも精神的にも一番いい。彼女は決断すると行動は素早い。
 午後三時にはスポーツバッグを引っつかんで、ジムのガラス・ドアを押し開けていた。
 受付の吉田京子が魅力的な笑顔で迎えてくれた。彼女はトレーナーで、本来午前の担当なのに、今日は珍しく午後になっている。
けいが、「あら、午後に変わったの?」と聞くと
「いいえ、今日だけ交代したの。明日は午前になるわ」京子は学生時代からのアスリートで、ランニングなら一キロ三分半で二十キロは軽くこなす。
 そもそも、けいがジョギングを始めるようになったのも、京子が勧めたからだった。何度か近くの海浜公園で一緒にジョギングをしたことがあるが、基礎を叩き込まれた走る姿の美しさには、惚れ惚れと見入るしかない。しかも、彼女はいわゆる八頭身で、身長百六十センチのすらりとした体躯は、アスリートそのものだった。年齢は四十代始めだろうか。けいと一回り近く年齢差がある。

 ロッカールームでジョギングに使っているショート・スパッツに履き替えていると、肉感的で胸の谷間をこれ見よがしにして、あれこれとうるさく聞いてくる女がトレーニングを終えて入ってきた。顔見知りで挨拶をしないわけにはいかない。
「いいわね。あなたのスタイル。私と違って贅肉が付いてないようね。うらやましいわ」
「そうでもないけど、ただ運動と食事のバランスを考えていることは確かね。アルコールは控えめ、美食はしない。タバコは吸わない」とけい。
「あら、それじゃあ、人生楽しくないじゃない?」と女はのたまう。
「決してそんなことはないわ。わたしは十分楽しんでいるわ」と言ってけいは、ジムに向かった。その背中に「いい男がいるのでしょうね。あなたには」
「ありがとう。いずれ見つけるわ」と言ってドアを閉めた。そこで、いやな女はかき消されてしまった。

 ストレッチのあと、自転車漕ぎから足や腕の筋肉強化、腹の贅肉落しなど女性向のコースをこなし、シャワーでさっぱりする。今でも耳の中でこだましているのは、あの女の言った「いい男がいるのでしょうね。あなたには」という言葉だった。
 受付カウンターで吉田京子にカードを返す。「お疲れ様。浅見さん、久しぶりにジョギングをご一緒にお願いできないかしら。明日の午後だけど。母が娘を預かってくれるの。だから大いに楽しもうっていうわけ」
「あら、娘さんがいらしたの?」
「私、言わなかったかしら」
「ええ、そうだけど、ご一緒してもいいわよ。今思ったのだけど、そのあと、家で夕食というのはどう」
「いいわね。ご迷惑でなければ」
「迷惑だなんてこれっぽっちも。じゃあ、それで決まりね。時間はいつでもいいから、そちらで決めてもらって、電話をくださいな」けいは、手を振ってジムを後にした。