本 堂
この弘明寺をはじめ鎌倉の杉本寺には駐車場がない。ということは、電車やバスの利用になる。わたしの住む千葉の鎌取からは、東京湾をぐるーっと半周する恰好になる。JR東日本のホームページでみつけたお得なチケット一日乗り降り自由の「ホリデーパス」を購入した。
事前に料金の比較をしてみると、通常の切符を買っていくより、900円ほど安くなることが分かった。エリアは限定されていて鎌倉はその範囲内だった。その料金は2.300円。出かける日の土曜日、JR東日本のジパング会員カードのスイカに追加チャージをしておいた。土曜日を選んだのは、通勤・通学の混雑がないからだ。
横浜駅には午前9時11分に着いた。それから京浜急行に乗り換える。スイカで切符購入の煩わしさがない。朝方曇っていた空が、弘明寺駅では陽射しが出ていた。 駅周辺は、郊外の宅地開発で見違えるように立派になった駅と違って、朝餉の味噌汁の匂いが漂うような懐かしい雰囲気があった。その駅前の坂道を下っていくと、横浜市南区弘明寺町にあるお寺に行き着く。
商店や住宅が密集している坂道の途中に山門があった。そこから入ったが、仁王門のある本来の入口は、鎌倉街道(地方道21号線)から商店街に入ってアーケードの先に位置する。
吽形仁王像 ご面相は、インド系と思わなくもない
阿形仁王像
横浜市教育委員会が設置したお寺の由来を引用すると“弘明寺は、瑞応山蓮華院と号す真言宗の寺院で、寺伝(辞書にない単語ではあるが、よく使われている)によると、今から1,200余年前、天正天皇の養老5年(721年)、インドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が、仏教弘通(ぐずう:「仏教が広まる」意の古語的表現)のため、日本渡来の節開創されたお寺で、それより17年後、聖武天皇の天平9年(737年) 諸国に悪病(どんな病気だったのか? 北山茂夫著「女帝と道鏡」には、大疫瘡とある。この瘡は、かさぶたの意と梅毒という意味もある)流行の際、行基菩薩が勅命により、天下泰平祈願のため、全国巡錫(じゅんしゃく:徳の高い僧が各地を回って仏法を説くこと)の際、当山の霊域を感得し草庵をつくり観音様を彫刻し安置された。
鎌倉時代には、源家累代の祈願所とされた。本尊の木造十一面観音立像は、関東に遺る鉈(なた)彫りの典型的な作例として有名なものである。(鉈彫り像とは、丸のみの彫り痕を像表面に残した特殊な彫り口の作品をいう)像高181.7cm、ケヤキ材、丸彫り、一木造り、平安時代(11~12世紀のころ)の作。
造形はかなり荒々しく、かつ粗略なもので、一見未完成のような印象を受けるが、全身にわたって丸のみの痕を規則的に横縞目に残しており、顔面は肉身や着衣に比べきわめて入念に整えられている。彩色は、わずかに本面の唇と化仏(けぶつ)の唇に朱を点じ、眉目、口ひげ、胸飾を墨で描いている”
七つ石 見えるのは六つだが手前に一つ隠れている
このお寺には七つ石の由来があって黒い丸石が七つ鎮座してあり、その説明によると“天平時代(710年~784年)、インドの善無畏三蔵法師日本へ渡来し、全国巡錫の際瑞雲(めでたいとされる紫色や五色の雲)になびく当山の霊域を感得し、陀羅尼(呪文として唱える経文中の長い梵語の句)を書写して七つ石の盤石を埋め、道場として結界し境域を定むとの寺伝あり、以来当寺の歴史は始まる。石に尾りょ石・福石と刻みあり、万人に吉事を授く霊石として今なお信仰を集めている”と言うありがたい石らしい。
江戸時代中期の寛政10年(1798年)の作といわれる梵鐘は、横浜市指定の有形文化財となっている。なお、仁王像は、運慶の作とも言われているとお寺の人が言っていた。
門前商店街のアーケードを鎌倉街道に下っていくと、「車は通れません」という電光掲示板が屋根からぶら下がっていた。ところが車が入ってくるので、お店の人に聞くと「午後1時まではOKです」という。初めてくれば戸惑うことになるなあと思いながら地下鉄「弘明寺」駅の階段を下りた。