みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

実写MAK

2016-08-01 | 旧市街

MAKというのは、前々回紹介したオーストリア応用美術館のドイツ語名の略称です。

新しい安物デジカメで撮ってきたピンボケ写真をご紹介 建物だけです


1)建物の前

前の通りは「リンク」です
(日本語では「グ」と表記されることが多いのですが、ドイツ語発音は「リンク」)

2)右手奥(ややアップ)


木々の奥に緑青の屋根が広がっているのは、現在政府の幾つかの官庁が入っている建物。昔はKriegsministerium(クリークスミニステリウム、つまり直訳すれば戦争省)。イギリスも戦争省でしたね。昔は、かなり直接的で露骨な表現をしたものです。今は、殆どどこの国でも「防衛省」

3)反対側のリンク

右の建物の1階は伝統的なカフェ「プリュッケル」

プリュッケルについてはドイツ語ウィキしかありません。
(他の言語はボスニア語とスウェーデン語だけ)

4)同じ側の歩道

左奥の緑の部分が市立公園

5)もう一度「元戦争省」の方向


6)中央ホールの壁際には、こんなソファがズラッと並んでいます


7)階段を上がります


8)上の回廊から見た中央ホール


9)




まだゴタリングのまばら更新ですが、これから、テーマ別に少しずつご紹介いたします
でも乞無期待





応用美術館

2016-07-23 | 旧市街

オーストリア応用美術館という名前は、絵画・彫刻などの美術そのものでなく、日用品その他に利用された美術、つまり応用された美術という意味です。
ルネサンス頃から現代に至るまでの美術工芸品とデザインが紹介されています。

ゴタリングによる運動不足対策として行ってきました。カメラが壊れてしまい、ウィキ・フリー画像と絵葉書でご紹介


外観


ここには応用美術大学もあります。館内はルネサンスバロックロココアンピールユーゲントシュティル、絨毯、東洋その他色々な部門に分かれており、ユーゲントシュティルの椅子も沢山展示されています。日本の美術工芸品も見られます。

18世紀の着物


江戸時代19世紀初頭の蒔絵の箱


江戸時代19世紀の鞍



展示品も変化に富んでいて面白いのですが、私は入り口ホールも大好き。

ルネサンス時代の映画の撮影にも使えそう




ゴタリングはまだ続きます たまーにご覧くださいませ でも乞無期待






脇道を通って

2016-05-30 | 旧市街

前回は歩いた順序に関係なくアップしましたが
やっぱり歩いた順のピンボケ写真もアップいたします


1)進行方向の脇道:突き当たりに見えるのはブルク劇場


2)フライウンクという名の広場


3)この広場にはよく市が立ちます

クリスマス市、イースター市も人気

4)広場で発見

なんと、こんなところに憲法裁判所

日本語ウィキの憲法裁判所記事では、オーストリア憲法裁判所の以前の所在地写真が載っています(写真16参照)。

5)先へ進むと次の広場があります


6)その手前に私の好きなナグラーガッセの入り口


7)フライウンクを振り返ったところ


8)これはアム・ホーフ広場

ここも定期的に市が立ちます

ここにバーベンベルク王朝時代の宮廷(ホーフ)があったので、アム・ホーフという名前になっています。

9)突き当たりには歴史的な市民の武器庫


外敵の侵攻があった場合には、宮廷の兵士に加え、市民も武器をとって戦いました。
特にオスマントルコとの戦争が続いた時代には、この武器庫が重要でした。1848年の三月革命では市民軍がここに本営を置きました。現在の市庁舎が建てられると武器も移され、それ以降はウィーン市の中央消防署となっています。

10)消防署の車庫


11)広場の一角を行くフィアカー(馬車)


12)広場の隅の目立たない小路の入り口


13)その小路を通ると・・・


14)以前にもアップしたユーデンプラッツ(ユダヤ広場)


中央にはホロコースト記念碑があります。ホロコースト
この記念碑は、犠牲者を象徴して、背表紙を内側にして並べた読めない本の図書館を表しています。

15)広場の眺め


16)広場の一角にある旧ボヘミア政庁


ハプスブルク王朝内のボヘミア王国に関する政庁でしたが、1946年から2012年までは憲法裁判所がありました。

17)更に先へ進みます


18)この先にグラーベンがあります


19)グラーベンには出ず脇道を通ります

奥に見えるのはペーター教会

20)私の好きなヨジェ・プレチニックのビル


21)突き当たりにシュテファン寺院


22)迫ってきました


23)シュテファン広場に出て・・・


・・・ここから地下鉄で帰りました。





出ているもの

2016-05-28 | 旧市街

前々回の続きです。いつもは歩いていく順にピンボケ写真を並べていますが、今回は先ず「出ているもの」だけピックアップ

出ているもの、というのは看板、ランプ、お顔、散歩の犬さんです

1)手袋屋さん?


2)ひと目で分かる薬屋さん


3)ハーブ専門店

薬草や調理用など網羅していると思う

4)


5)


6)レストランのランプ


7)


8)笑う人


9)真面目


10)ビーグル・コンビ


11)三毛犬さん



まだ続きます でも乞無期待


 今日の蛇足:警官とスリ

ちょっと前にオーストリアの新聞HPで見た記事です。

ウィーンでドジなスリが狙ったのが、非番で外出中の私服の警官。警官はスリに気付き、ズボンのポケットを押さえたので、スリは諦めて立ち去りました。が、警官は諦めずにスリの後をつけ、次の被害者のサイフを盗もうとする瞬間に現行犯逮捕したそうです。
スリがドジなのか、警官が有能なのか・・・多分両方なのでしょう


オバマ大統領が現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問したことは、こちらでも大々的に報道されています。
他の大統領にはできなかったオバマ大統領らしい行動だと思います。






摂理の泉

2016-02-03 | 旧市街

前回のおまけ写真の道筋で撮ったピンボケ写真です

旧市街のノイヤーマルクト(新市場または新広場)という広場にある泉水。


本名は摂理の泉(Providentiabrunnenプロヴィデンツィアブルネン)



並んでいる丸い石は「自動車除け」です

プロヴィデンツィアブルネンという名前は(地元民にも)言いにくいので、群像を制作した彫刻家ゲオルク・ラファエル・ドンナーに因んで「ドンナーの泉Donnerbrunnen」と呼ばれています。

泉水は1737年から1739年に建設されました。当時は市民のための水源確保という意味もあったと思います。彫刻家のドンナーはモデルを作っただけで、泉水用は鋳造職人が制作しました。

群像は1873年にブロンズのコピーで置き換えられ、オリジナルはベルヴェデーレのバロック部門に保管されています。

中央の女性が摂理の女神(プロヴィデンツィア)で、四隅の人物像はオーストリア大公領(つまり当時の神聖ローマ帝国の1地方)を流れる4つの川を表現しています。
4つの川は:トラウン川エンス川イプス川マルヒ(モラヴァ)川

女神の下には4人のプットがいて魚を抱え、その魚から水が泉水に注いでいます。魚たちがドナウ川を象徴しています。
4種の魚は:ノーザンパイク、コイ、ヨーロッパオオナマズ、サケ。


独語ウィキのフリー画像から:1903年に制作された絵画

113年前の絵ですが、今と大差ありません









MQの冬

2016-01-05 | 旧市街

前回の広場を突き抜けて通りを渡るとMQ(ミュージアム・クオーター)です。
宮廷の厩舎と関連施設だったエリアに現代建築が加えられ、幾つかの美術館と様々な文化施設、加えてカフェ、レストラン、店舗があります。
中央中庭は毎年、長期イベント「MQの夏」と「MQの冬」の会場です。

今回は歩くのが目的ですが、ピンボケ写真も撮りましたので並べます


1)通りを渡り、向こうの建物の中央入り口から入ります


2)その建物の中


3)出てきて振り返ったところ


4)ミュージアム・クオーターの見取り図


5)厩舎だったバロック建築、今は展覧会会場


6)元厩舎の左側にレオポルト美術館


花崗岩の白い建物で、世界最大のエゴン・シーレ・コレクションがあります。

7)近代美術館ルードヴィヒ・コレクション(mumok)


レオポルト美術館と対照的に玄武岩の黒い建物。1万点の近・現代美術作品を所蔵し、様々な現代作品の展覧会が開催されます。

8)「MQの冬」

ビニールハウス村みたい

9)店舗のひとつに入ります


10)店内に可愛いワンコさんが・・・


11)飼い主のファッションもステキ


12)レジにて


13)店を出て中央中庭を通り抜けます

後方にはレオポルト美術館

14)元厩舎とmumokの間


15)mumokの玄武岩の大壁面


16)MQ内の書店で見つけた本


ロンドンには日本語の本(日本の出版社の本)を売っている専門店がありますが、ウィーンの本屋で日本の出版社の本を見つけたのは初めてでした。
本文は日本語ですが(殆どは、動物をモチーフとする古い文様ばかりで文章は少し)、裏表紙のカバー折り返しに英語説明がありますので、友達へのプレゼント用に買いました。日本アマゾンでも扱っています。

17)ペンギンブックスの本(つまり英語)


「Writings from the Zen Masters」というタイトルで、中国、日本の禅僧の言葉や文章を集めたものです。これも友達用に買いました。



まだちょっとゴタっておりますので、次の更新も数日後になりますが、どうぞ、たまに覗いてやってくださいませ でも乞無期待






後の祭

2015-12-29 | 旧市街

仕事のため運動不足なので散歩してきました

市庁舎前のクリスマス市はクリスマスで終わりですが、美術史博物館自然史博物館の間のマリア・テレジア広場のクリスマス市は、そのまま年末年始市として続きます。まあ「後の祭」ですね

広場の「後の祭」ピンボケ写真を並べます


1)逆光の美術史博物館


3)広場の後方は自然史博物館


3)リンク大通りの向こうに「外ブルク門」

ナポレオンに勝った記念に建てられました

当時のヨーロッパの王侯にとってナポレオンは憎い宿敵だったのですね
「外ブルク門」と言うのは、正門がミヒャエル門だからです。

4)通りと左端に自然史博物館


リンク大通りは、車道、歩道、自転車道、駐車スペースなど幾つにも区切られているので、一見しただけでは幅の広さに気づきません。

5)広場の中央、マリア・テレジア記念碑


記念碑の説明はドイツ語ウィキだけ(他の言語はイタリア語)

6)屋台のひとつ

クリスマスの「後の祭」だから内容は同じ

でも、クリスマス期間は1月6日まで続くので、まだ一応大丈夫(何が大丈夫なのかわからんけど

7)ラウドン男爵の騎馬像


マリア・テレジア記念碑の中央には女帝が座り、その周囲を側近や重要な廷臣が囲んでいます。

8)広場の後方に「外ブルク門」


9)「後の祭」の看板

12月27日から元旦まで

10)保温用のケープ


11)シロクマさんと雪だるまさん専門店(ペンギンさんもいるみたい)


12)ロウソクの店


13)マスコットや小物

中央はロウソクのようですが、火をつけるのはもったいない・・・

14)色々な飾りもの

遅いけど今から飾っても誰も文句は言わない

15)スノードーム(スノーグローブ)がいっぱい

ウィーンが発祥の地とも言われています

16)広場を通り抜けて振り返ったところ、後ろは自然史博物館



広場の後の通りを渡った次の目的地(散歩コース)へ続きます でも乞無期待


次の更新は来年になると思います。どうぞ良い大晦日をお過ごしください  






上からの眺め

2015-12-10 | 旧市街

前回の続き、アルベルティーナの上から辺りを見たところ。


1)右はオペラ座の裏側

後方にリボンのクリスマス飾り

2)下のスナックスタンドに行列

ガイドブックにでも載っているのでしょう

3)スナックスタンド上の飾り


4)オペラ座の横側


5)アルベルティーナの階段


6)以前に紹介したアルベルティーナ広場


7)降りたところを進むと王宮正門(ミヒャエラートア)があります


8)これも以前紹介した泉水の冬仕様

あるいは修理中かな?

9)オペラ座横にも長い行列

ガイドツアーを待つ行列かな?立見席券購入窓口は別の場所のはずですが・・・

10)乗り降り自由の観光バス

観光名所ごとに停留所があります

11)オペラ座前のウサギさん

ほかでもないアルブレヒト・デューラーのノウサギさん

12)帰りの電停

並木と共存する停留所



文中のリンクと重複しますが以前のアルベルティーナ記事
殺された猫の幽霊
見ない展
広場の石碑






城壁斜面の名残り

2015-12-08 | 旧市街

前回の公園(庭園)奥には塀があって階段で上に上がれます。
以前には、この構造が不可解だったのですが、漸く、古い時代の旧市街を囲む防壁と外側斜面(防衛のため大砲は兵士を配置)の名残りではないかと思い当たりました。


1)高くなったところに大温室があります


2)ホーフブルク王宮(ここは新王宮)の後ろ側


3)上に行く(下に降りる)階段


4)泉水は冬で水は止めてあります


5)上から見たところ(公衆トイレの入り口)


6)向こうに門が見えます


7)その反対側には大温室


8)門の方へ向かいます


9)門の上には皇帝家を象徴する双頭の鷲


10)門を通ると又階段:アルベルティーナに続いています


11)振り返ると一段下の大温室や新王宮


12)アルベルティーナ入り口の方へ向かいます


13)ここにもフランツ・ヨーゼフ皇帝の銅像(騎馬像)


来年は皇帝没後100周年です。長い歳月が経ったような、ついこの間のことのような・・・

14)振り返ったところ


15)パンをゲットしたコクマルガラスさん



この辺りの以前の記事
見ない展

コクマルガラスさんの以前の写真
新緑と静寂
春の庭


あと一度続きます すみません、乞無期待






孤独な皇帝

2015-12-06 | 旧市街

フランツ・ヨーゼフ皇帝の銅像がある公園を散歩してきました
目下クリスマス前のアドヴェント期間中で、市内あちこちのクリスマス市は混雑していますが、人混み苦手の私は今年はクリスマス市スルーの予定


1)リンク大通りの一角


2)そこに公園入り口があります


3)説明のプレート

王宮庭園と呼ばれています

王宮庭園は1818年から1823年に造園され、ハプスブルク皇帝家のプライベートな「庭」でしたが、第一次大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した翌年1919年から一般公開されるようになりました。

4)庭園の中


5)刈り込まれた並木も葉の落ちた後


6)大通りに背を向けてたたずむ皇帝の銅像


7)そのシルエット


8)離れてみたところ


9)葉の残っている枝


10)黄葉の大木


11)立派な常緑の松もあります



フランツ・ヨーゼフ皇帝(1830~1916)は、1848年の三月革命の後18才で即位、第一次世界大戦の最中に86才で世を去りました。
超保守的な人物で、生涯、電話も自動車も使わず、国を支えるのは軍隊の力だと信じていたようです。
息子を皇帝にしようとする母親のスパルタ教育で育てられ、母親の指図に逆らうことはありませんでしたが、母親が結婚相手に予定していた女性の妹の一目惚れし、このときは自分の意志を貫きました。
しかし、皇妃となったエリーザベトと皇帝は全く違うタイプで、年とともに疎遠になり、皇帝の片思いの夫婦だったと言えます。

多民族帝国は民族主義台頭とともに目に見えて崩壊への過程をたどり、メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンがメキシコ革命の中で銃殺され、唯一の息子ルドルフ皇太子が自殺し、エリーザベト皇妃が暗殺され、その後皇位継承者になったフランツ・フェルディナント大公がサラエボで暗殺されるなど、次々と身内を不幸な事故で失っています(このほかにも親戚が事故死している)。

王権神授説を信じる旧弊な思考に凝り固まっていたとはいえ、それは幼少からの教育によるもので、個人的には誠実で規律正しく勤勉でした。
臣民のための謁見の日が設けられ、高位の貴族から貧民まで、差別なく誰でも皇帝に謁見することができました。
公式の行事は皇帝に相応しく豪華なものでしたが、日常生活は極めて質素でした。
公式の席では軍服を着用し、そうした幾つかの軍服以外には、まともな背広など持っていなかったということです。私服と言えば、狩猟用の服くらいだったようです。
皇帝自身も、自分の没後に帝国が崩壊するであろうことを察知していたと思われます。それでも、フランツ・フェルディナント大公が暗殺された後、セルビアに対する宣戦布告に署名して、これが第一次大戦の始まりとなりました。


ウィキ・フリー画像から

1853年、結婚1年前の肖像画


狩猟服姿の晩年の皇帝



父としての皇帝に対する評価を、三女のマリー・ヴァレリーが日記に書き残しています。初めは、父親に冷たい母親の態度を不審に思い、次いで「あんな人物(父親)では母親が嫌がるのも無理はない」となり、やがて「難しい問題が起こると誰でも皇帝に押し付けようとする」と、父親の皇帝としての立場に同情するようになっています。



公園については続きます ・・・乞無期待