予言とはこのようにするもの
英米資本主義は2046年に崩壊
仏型資本主義は2059年に崩壊
崩壊後は
戦士戦国武人の
時代となります
誰が又はどの組織が
戦国時代を勝ち取るかを巡っての
内乱内戦が長期にわたって起こります
清朝崩壊の時は39年かけて
共産党が武力で政権を奪いました
USAも同様の期間が必要になると思われます
問題は白色独裁政権が誕生するのか
又は赤色独裁政権が誕生するかです
当然赤色は中共が応援し介入
白色を応援するのは
日本が中心となるものと思われます
その結果次第では日本の未来に大きな影響を与えます
どちらにしろ自らを守れない国は世界戦国時代の流れで
食い荒らされると思われます
ウクライナのように
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経済・IT
マルクスが150年前に予言した、資本主義崩壊
多くの人によく知られ、一般には当たり前だと見なされていること。これに哲学は、問いを提起します。奇をてらっているからではなく、疑問がふつふつと湧いてくるからです。
「それって本当なのか?」とか「どうしてそう言えるのか?」という形で、あらためて考えてみます。こうしたことの1つとして、「資本主義はどこへ向かうのか?」という問題を考えてみましょう。
資本主義の後については、今までもさまざま議論されていますが、ここではいちばん基本的なものを取り上げてみます。それはマルクスが予言した未来です。
そう言えば、すぐさま答えが返ってきそうです。
マルクスは資本主義の後として「コミュニズム」を目指したのであり、そのコミュニズムは「コモン(common)」の再生である、と。「そんなことも知らないのか!」と詰問されるかもしれません。
150年以上前に予言された資本主義の崩壊
このイメージは、たしかにわかりやすく、いわば常識化していますが、はたしてマルクスはそんなことを主張したのか、気になります。もともとマルクスが「資本主義の後」について語るのはきわめて少なく、しかもその理解は紛糾しています。今日でさえも、「ポスト資本主義」のイメージがはっきりしないのは、そこに原因があるように思えます。
マルクスが資本主義の崩壊を予言してから、もう150年以上が経過しています。20世紀になって、マルクス主義を旗印に社会主義革命が起こりましたが、世紀末になる頃には、社会主義は崩壊してしまいました。
そのため、アメリカの政治学者フランシス・フクヤマが資本主義以後はありえないという意味で、「歴史の終わり」を宣言しました。はたして資本主義に代わる社会は可能なのでしょうか。
それ以前に、資本主義に代わる社会として、そもそもマルクスは何を想定していたのでしょうか。
『資本論』における未来社会にいたる道
マルクスが「未来社会」について具体的に語るのは、きわめて稀であると述べました。そこで、資本主義から未来社会へいたる道はどう考えられているのか、考えてみましょう。
これについては、『資本論』第1巻の最後近くで語られています。
「資本蓄積の歴史的傾向」と題された節で、「資本主義的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る」という文の後で、次のような有名な文章が書かれています。
ところが、この箇所は文章をどう理解するか以前に、言葉の意味や翻訳までもが論争され、確定した理解にはほど遠いのです。そのため、煩雑をいとわず、1つのパラグラフを省略なしに取り出しておきましょう。マルクスはこんな風に書いています。
ここで言われているのは、2つの否定(①と②)によって、資本主義以前と以後との3段階をどう性格づけるか、という問題です。
引用した箇所は、マルクスが未来社会について示唆している数少ない場所ですが、そのときヘーゲルの二重の「否定」という概念を使いながら、生産や所有、占有という言葉によって説明しています。
そのため、未来社会について考えるのに重要な部分のはずなのですが、今まで明確な理解がないのです。そんなことを言えば、ウソのように聞こえるかもしれませんが、この箇所を引用したさまざまな論者の議論を見てもわかります(ここでは論争史については触れません)。
この箇所を読むとき注意したいのは、次の3つの点になります。
1つは、所有(Eigentum)と占有(Besitz)との区別です。もう1つは、私的所有(Privateigentum)と個人的な所有(das individuelle Eigentum)との区別です。そして、3つ目の最も大切な点なのですが、協業と土地および生産手段の共同占有が、資本主義の成果とされていることです。
しかしながら、この3点は翻訳の次元や、論争などでしばしば混乱をきたしています。たとえば、「共同占有」を「共同所有」と訳してみたり、さらには「協業と土地および生産手段の共同占有」が、資本主義以後(つまりポスト資本主義)ではじめて成立するかのような議論です。
ところが、マルクスの展望では、資本主義において「協業と土地および生産手段の共同占有」は成立し、この資本主義の成果にもとづいて、未来のポスト資本主義で「個人的所有を再建する」というのです。
この文言を文字どおりに取れば、一般に「コモン」とか「共有(シェアリング)」と呼ばれるものは資本主義で成り立ち、未来社会で再建すべき(取り戻すべき)は、むしろ「個人的所有」ということになります。おそらく、一般的なイメージとは真逆かもしれません。
ただし、「共同占有」とか「個人的所有」という言葉をどう理解するかが問題ですが、少なくともマルクスの未来社会論では資本主義=共同占有(略して「コモン」や「共有」)を基礎にして、個人的所有を取り戻すという流れは間違いありません。
資本主義からポスト資本主義へは困難ではない?
正確に理解するには、言葉の意味も含め詳細に議論すべきですが、ここではさしあたり、ポスト資本主義への過程をマルクスがどう描いたのか、確認することだけにとどめましょう。
先ほど引用した文章の後で、マルクスは次のように敷衍(ふえん)しています。
この引用文を読むと、マルクスがポスト資本主義への道をどう考えていたのか、予想できます。前資本主義から資本主義へ、資本主義からポスト資本主義へという、2つの過程を比較していますので、それに沿って述べてみましょう。
ポスト資本主義への流れ
まず、資本主義以前は、小規模の個人経営の活動が行われ、個人的な私的所有が成り立っていました。この段階が否定され、資本主義的な大規模経営が生じることになります。ここでは、少数の資本家と、多数の無産者労働者が生み出されます。この時代には、労働者たちの協業と、土地や生産手段の「共同占有」は作り出されている、というわけです。そのためマルクスは、資本主義的な所有は、「事実上すでに社会的な生産経営にもとづいている」と表現します。
そして次に、これを否定するのが第2の否定ですが、資本主義からポスト資本主義への移行となります。この否定の否定によって、少数の横領者(資本家)が収奪されるので、無産者大衆の個人的な所有が再建(最初の個人的所有の再建)されることになります。
また、未来社会は、資本主義によって確立された大規模生産(協業と、土地および生産手段の共同占有)を継承します。その点でマルクスは、ポスト資本主義への移行は、それほど困難ではないとみなしていたようです。
というのも、資本主義的所有ではすでに、「社会的な生産経営」が事実上成り立っていますので、これを「社会的な所有」に変えるのは根本的な変化ではないからです。
それに引きかえ、資本主義以前の小規模生産者たちの分散的な私的所有から資本主義の私的所有への転換は、多数の民衆の収奪(=個人的所有の喪失)が必要なので、厳しく困難な過程だった、とされています。
ところが、マルクスのこの表現は誤解され、そのために逆に、困難とは思われなかったポスト資本主義への転換が、困難を極めることになったのではないでしょうか。というのも、マルクスがここで語ったことは、今でもほとんど理解されていないからです。
ポスト資本主義は個人的所有の再生をめざす?
では、ポスト資本主義で何が成立するのか、確認しておきましょう。
まず、資本主義から引き継ぐべき成果は、「協業と、土地および生産手段の共同占有」です。これは、「社会的な生産経営」とも表現されています。それに対して、再建すべきは「個人的所有」とされます。
資本主義で成り立つ「共同占有」は、英語では「possession in common」と訳されますので、コモンはすでに資本主義で始まっている、とも言えます。この資本主義の「コモン」にもとづいて、失われた「個人的所有」を再建するのが、ポスト資本主義になります。このとき注目すべきは、国家所有については、一言も述べられていないことです。
したがって、マルクスの『資本論』にもとづけば、コミュニズムというのは、国有化とはまったく関わりがありません。むしろ、資本主義で生み出された「土地と生産手段の共同占有」というコモンにもとづいて、個人的所有を取り戻すことがめざされています。
しかし、このイメージは、通常語られるコミュニズムとは大きく外れているのではないでしょうか。コミュニズムとは何なのか、あらためて問い直す必要がありそうです。
(岡本 裕一朗 : 玉川大学 名誉教授)