総持寺は盛時は16000余の末寺を従え、70余に及ぶ堂宇を構えていたそうです。明治31年(1898)本堂の一部より出火して七堂伽藍はほとんどが焼失しました。当時の住職が横浜鶴見に移転を決めました。
なお能登の鳳至郡櫛比の庄(ふげしぐんくしびのしょう)にあった総持寺は勧請を続け、現在は総持寺祖院と呼ばれ荘厳な伽藍を完成させました。元本山の威風と面目を今に保っています。
明治44年(1911)に現在の地、横浜の鶴見に移転した総持寺は約50万平米の広大な敷地を有し、交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。
なお能登の鳳至郡櫛比の庄(ふげしぐんくしびのしょう)にあった総持寺は勧請を続け、現在は総持寺祖院と呼ばれ荘厳な伽藍を完成させました。元本山の威風と面目を今に保っています。
明治44年(1911)に現在の地、横浜の鶴見に移転した総持寺は約50万平米の広大な敷地を有し、交通の便もよく、開かれた禅苑として国際的な禅の根本道場として偉容を誇っています。