無鄰菴は明治大正の元老、山県有朋の別荘です。明治27年から29年の間に建てられました。庭園は有朋自ら設計、監督して7代目小川治兵衛が作庭しました。庭園は、曲線を描いて疏水の水を引き入れた見事な池泉廻游式です。明治時代の代表的な庭園の一つに数えられています。
山県有朋は天保9年(1838)、萩藩中間有稔の長男として生まれました。19歳の時、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、以後攘夷運動に奔走しました。
文久3年(1863)奇兵隊に入隊、軍監となり、下関で英仏蘭米四ヶ国連合艦隊と交戦、高杉晋作挙兵に参加し、第二次長州戦争でも活躍、戊辰戦争には官軍の参謀として北越方面に転戦しました。明治2年(1869)欧州を視察し帰国後兵部少輔・兵部大輔となり、大村益次郎なきあとの軍政に尽力し、徴兵令を制定して国軍の基礎を作りました。陸軍卿・陸軍大将・元帥などを歴任、明治政府の中心的存在となりました。政治家としては、二次にわたり内閣を組織しその前後に参議・枢密院議長などにもなりました。伊藤博文亡きあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなした人物でした。
山県有朋は天保9年(1838)、萩藩中間有稔の長男として生まれました。19歳の時、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、以後攘夷運動に奔走しました。
文久3年(1863)奇兵隊に入隊、軍監となり、下関で英仏蘭米四ヶ国連合艦隊と交戦、高杉晋作挙兵に参加し、第二次長州戦争でも活躍、戊辰戦争には官軍の参謀として北越方面に転戦しました。明治2年(1869)欧州を視察し帰国後兵部少輔・兵部大輔となり、大村益次郎なきあとの軍政に尽力し、徴兵令を制定して国軍の基礎を作りました。陸軍卿・陸軍大将・元帥などを歴任、明治政府の中心的存在となりました。政治家としては、二次にわたり内閣を組織しその前後に参議・枢密院議長などにもなりました。伊藤博文亡きあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなした人物でした。