旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

岡山城

2006年08月13日 | 旅 歴史
岡山城は上神高直が築城し、大永年間(1521-28)には金光氏が居城していたと思われます。天正元年(1573)金光宗高を謀殺した宇喜多直家が入城し城下町造りを始めます。現在の岡山城の姿にしたのは直家の息子である宇喜多秀家といわれています。天正18年(1590)から城の大改修を始め慶長2年(1597)完成させました。
 秀家は豊臣秀吉の指示を受けて旭川の流路を現在のように直し、三重の堀を巡らして、本格的な城郭造りの基礎とされる織田信長の安土城を模して天守閣を築いたそうです。
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赤穂城です。

2006年08月12日 | 旅 歴史
 赤穂城の始まりは元和元年(1615)池田輝政の五男池田政綱が2万5千石を与えられて入城してからです。しかし、正保2年(1645)政綱の後を継いだ池田輝興が発狂して妻女を殺害したため、赤穂池田氏は2代31年間で廃絶となりました。常陸笠間から浅野長直が5万3千5百石で入封しました。浅野長直・長友・長矩(ながのり)と続き、元禄14年に浅野長矩は、江戸城松の廊下で高家の吉良義央(よしなか)に刃傷に及び、即日切腹させられました。そして赤穂浅野家は取り潰しとなったのです。元禄15年(1702)12月14日、大石内蔵助を首領とする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。
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科野(信濃)大宮社です。

2006年08月11日 | 旅 歴史
天正13年(1585)8月、徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世らを将とし、信濃・甲斐などの軍勢もあわせ総勢7千の大軍を真田昌幸の居城上田城攻撃に向かわせました。これが第一次上田合戦です。徳川家康は羽柴秀吉と対立している時でした。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いがあり北条氏と組む必要がありました。北条との講和の条件に、真田昌幸が治めていた沼田を北条に渡す一項があったのです。
 この時、真田昌幸は徳川家に臣従していましたが「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」沼田の引渡しを拒絶したのです。  昌幸の計略で徳川軍を城下に入れ、町屋に火を放ったのです。折からの風にあおられ、火は徳川軍を襲いました。柵を随所に設けてあったので動きが取れない大軍に向かって鉄砲が一斉に放たれ総崩れとなり撤退することになったのです。科野(信濃)大宮社一帯はその戦いの激戦地になり焼失しました。
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信州上田大花火大会

2006年08月10日 | 旅 歴史
 今日行なわれた上田の花火です。大勢の人が千曲川の土手に集まっていました。帰りは人混みでなかなか前に進めませんでした。
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稲倉棚田です。

2006年08月09日 | 旅 歴史
 上田市殿城付近にある稲倉棚田です。棚田100選に選ばれています。
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川中島古戦場です。

2006年08月08日 | 旅 歴史
ここ川中島の八幡原は、永禄4年に越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄が戦った場所です。 今まさに斬り付けようとする上杉謙信、不意を突かれあわてて軍配で太刀を受けようとする武田信玄の像が建っています。信玄は軍配で謙信の太刀を受けましたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったといわれています。後に、この軍配を調べたところ三太刀だと思われた謙信の太刀痕は7ヶ所もあったことがわかり、この一騎打ちの跡を「三太刀七太刀」(みたちななたち)の跡と言われるようになりました。   
 武田軍の原大隅がそばにあった信玄の槍を馬上の上杉謙信めがけて付き出し、はずれ槍が馬に当たり、馬は驚いて跳ねたので上杉謙信は本懐を遂げられず、武田信玄は九死に一生を得ることできたということです。
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上杉謙信の居城・春日山城です。

2006年08月07日 | 旅 歴史
春日山城は標高180mの鉢ヶ峯に築かれた山城です。現在、建物は残っていませんが、今も空堀や郭跡、大井戸、土塁などが残り、典型的な山城の姿をとどめています。守護上杉氏が「詰めの城」として築き、守護代の長尾氏が代々在城していました。景虎(謙信)は19歳で家督を継ぎ春日山城に入城、春日山城を強化しました。天文十九年に守護家の上杉氏が滅亡し、その翌年には北条氏の追放された関東管領の上杉憲政を城に迎え入れました。その後名跡を譲られて名を上杉謙信と改めました。謙信の死後に家督を継いだ上杉景勝は二十年在城後会津へ転封となり、その後に入った堀氏は新たに平城の福島城を築城したため春日山城は廃城となりました。
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上田の七夕です。

2006年08月06日 | 旅 歴史
 上田の海野町で七夕が始まりました。中央一番街ではお化け屋敷が好評のようです。
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ジャズの上田ジョイント開催中

2006年08月05日 | 旅 歴史
 昨日行なわれたジャズの祭典上田ジョイントが上田城の下で行なわれました。今日、明日も引き続き行なわれます。
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幸福の黄色いハンカチ想い出ひろばです。

2006年08月04日 | 旅 歴史
夕張市日吉にある幸福の黄色いハンカチ想い出ひろばです。昨晩NHKのBSで放映されてなつかしく見ました。山田洋次監督が昭和52年(1977)作った名作映画「幸福の黄色いハンカチ」のロケ現場跡地が広場になって残されています。この映画は数々のグランプリを獲得し、全国の映画ファンの感動を誘いました。
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「あやめ城」とも呼ばれる新潟県の新発田城です。

2006年08月03日 | 旅 歴史
新発田重家により築城されました。重家は謙信に仕えていました。景勝時代に織田信長に内通したことにより、天正15年、直江兼続によって攻められ落城し、重家は切腹しました。新発田藩、溝口秀勝が1598年に六万石を与えられて、この土地に今の新発田城を築いて400年余りになります。表門と旧二ノ丸隅櫓は国の重要文化財に指定されています。城の表門前に堀部安兵衛の像があります。溝口秀勝の曾孫にあたります。安兵衛は、新発田藩二百石どりの武士である中山弥次右衛門を父とし、家老を務めたこともある溝口四郎兵衛の娘を母にもつという由緒正しい血筋でした。ところが、母は産後すぐ亡くなり、父は安兵衛が13才のとき、部下の火の不始末の責任をとり、家は断絶となってしまいました。赤穂藩三百石どりの堀部弥兵衛の婿養子となって堀部安兵衛となりました。吉良上野介への仇討ちに加わり、義父ともに本懐を遂げました。
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白虎隊の飯盛山です。

2006年08月02日 | 旅 歴史
 戊辰戦争の際に、白虎隊が遠く鶴ヶ城を仰ぎながら、集団自決を遂げた場所として有名です。
 江戸時代の末期、鳥羽・伏見の戦いがありました。その後、薩摩・長州を中心とする討幕派が会津に押し寄せました。これが戊辰戦争です。
 その時に、白虎隊の少年20名が、落城したと思いこみ、全員自刃しました。その場所が飯盛山でした。  飯盛山には、白虎隊のお墓があり、その墓は鶴ヶ城の方を向いています。
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川越の時の鐘です。

2006年08月01日 | 旅 歴史
 蔵造りの町・川越の一番街にある、ひときわ高いやぐらのような建物が時の鐘です。現在の時の鐘は、明治26年(1893)の川越大火の翌年に建てられたもので、平成8年には「残したい日本の音風景百選」にも選ばれています。近所の人は、時の鐘とは呼ばずに、鐘撞堂と呼び、櫓の下には、目の病に効く薬師堂があります。
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