天正13年(1585)8月、徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世らを将とし、信濃・甲斐などの軍勢もあわせ総勢7千の大軍を真田昌幸の居城上田城攻撃に向かわせました。これが第一次上田合戦です。徳川家康は羽柴秀吉と対立している時でした。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いがあり北条氏と組む必要がありました。北条との講和の条件に、真田昌幸が治めていた沼田を北条に渡す一項があったのです。
この時、真田昌幸は徳川家に臣従していましたが「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」沼田の引渡しを拒絶したのです。 昌幸の計略で徳川軍を城下に入れ、町屋に火を放ったのです。折からの風にあおられ、火は徳川軍を襲いました。柵を随所に設けてあったので動きが取れない大軍に向かって鉄砲が一斉に放たれ総崩れとなり撤退することになったのです。科野(信濃)大宮社一帯はその戦いの激戦地になり焼失しました。
この時、真田昌幸は徳川家に臣従していましたが「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」沼田の引渡しを拒絶したのです。 昌幸の計略で徳川軍を城下に入れ、町屋に火を放ったのです。折からの風にあおられ、火は徳川軍を襲いました。柵を随所に設けてあったので動きが取れない大軍に向かって鉄砲が一斉に放たれ総崩れとなり撤退することになったのです。科野(信濃)大宮社一帯はその戦いの激戦地になり焼失しました。