旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

京都の八坂神社です。

2006年10月16日 | 旅 歴史
 薬作り職人さんコメント有り難うございました。清水寺のライトアップは本当に感動物です。今後とも見てください!
 京都の八坂神社は「八坂さん」「祇園さん」の名で親しまれ、古くから厄除けの神さまとして有名です。花街の祇園がすぐそばにあるせいか、たたずまい、雰囲気とも艶やかで独特の香気をただよわせています。
 創建には諸説ありますが、上代に高麗からの帰化人・八坂氏が牛頭天王を祀ったのが初めという説もあります。八坂神社の祭神は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこかみ)です。
 斉明天皇2年(656)に素戔嗚尊を祀ったのが起源で、素戔嗚尊は祇園精舎の守護神である牛頭(ごず)天王と一体視され、長らく祇園社と呼ばれていました。明治初期に八坂神社と改称されたということです。。
 重文の本殿は祇園造りと言われる独特の形式で、1654年に再建されたものを平成14年(2002)に40年ぶりに修復しました。本殿の下に竜穴があり、神泉苑や東寺まで通じているという言い伝えも残っています。
 それほど広くはないが、四方に出入り口のある開放的な明るい境内です。全国各地に約三千もの分社を持っています。
 楼門には、蜘蛛の巣が張る事がなく、また雨だれの跡も付かないといわれています。八坂神社の七不思議のひとつです。重文の鳥居は石造のものとしてはわが国最大のものです。
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清水寺です。

2006年10月15日 | 旅 歴史
 清水寺の本堂(国宝)は寛永10年(1633)再建されました。清水寺本尊十一面千手観音を祀り、「大悲閣」ともいいます。正面十一間(約36m)側面九間(約30m)高さ18mの堂々たる仏殿で、優美な起り 反り曲線を見せる寄棟造り・檜皮葺きの屋根や軒下に吊る蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝え、音羽山と見事に調和しています。 堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣と内々陣に三分され、外陣内奥の正面欄間に本尊と両脇寺の懸仏(御正体)を掲げ、最奥の内々陣に本尊を祀っています。そして本尊南正面に懸造り・総檜板張りの「舞台」を錦雲渓に張り出しています。 
 清水寺の住職で歌人の月照と弟信海は幕末勤王僧として活躍しました。月照は西郷隆盛とともに薩摩に逃れ、入水自殺したことは有名です。
 奈良時代の末778年。大和・子島寺の延鎮上人が音羽の滝の行叡居士に逢い、霊木を授けられ観音像を彫造して、滝上の草庵に祀ったのが創建にあたります。
 そして間もなく、坂ノ上田村麻呂公が、滝の清水と上人の観音信仰に導かれて本堂を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置しました。
 御本尊(秘仏)は、本堂に祀られ、"清水型観音"といわれる四十二臂の最上の両手を頭上にあげて化仏をいただく清水寺独特の観音像をしています。
 現在の建物の多くは、寛永8~10(1631~1633)年、徳川家光の寄進によって再建されたものです
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高台寺です。

2006年10月14日 | 旅 歴史
 北の政所で有名な高台寺です。慶長八年(1603)、北政所は後陽成天皇より、「高台院」の号を賜りました。北政所の兄家定は臨済宗建仁寺の塔頭常光院を改修建立されました。家定に触発された北政所は、寺院の建立に向けて動き出され号にちなんで高台寺と決められました。慶長10年、この動きを知った家康は、酒井忠世・土井利勝を高台寺造営御用掛、京都所司代板倉勝重を普請奉行、堀監物直政を普請掛に任じ、財を惜しまず協力したといわれています。北政所の存在を家康は非常に重要視しており、福島正則・加藤清正・浅野長政等の北政所の子飼いの大名たちも働いたようです。高台寺は、伏見城から運び込んだもの、北政所在世中に築き上げられたもの、その後追悼のために加えられたもので完成に至ったと考えられています。
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あの有名な三千院です。

2006年10月12日 | 旅 歴史
「京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり~ ♪」で大ヒットした京都市左京区大原来迎院町の三千院です。洛北大原にある有名な三千院は、伝教大師・最澄が比叡山の東塔にあった梨の木の下に一院を開いたのが始まりとされています。
 平安初期、慈覚大師円仁が天台声明の根本道場として魚山大原寺を開いて以来、三千院のある大原の地は、比叡山を取り囲む天台仏教の中心地のひとつとなりました。 三千院は別名を「梶井門跡」「梨本門跡」「円融院門跡」とも呼ばれる「天台宗五箇室門跡」のひとつです。平安時代後期以降は、皇族の僧が住んでいたそうで、優美な雰囲気です。 958年に建てられた本堂の往生極楽院には弥陀の来迎を表わす阿弥陀三尊の座像があります。重要文化財にも指定されていて穏やかな面持ちで来訪者を出迎えてくれます。
 妙法院、青蓮院と並ぶ天台宗三門跡の一つでもあり、最澄ゆかりの寺として有名です。後ろには小野山がひかえ、四方はまるで城のように高い石垣に囲まれています。杉の並木が境内を包んでいます。
 三千院内には「有清園」「聚碧園」の二つの地泉回遊式庭園が造られていてしっとりとしたたたずまいをみせています。「あじさい苑」のアジサイ、「有清園」のシャクナゲは人気です。
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大徳寺です。

2006年10月11日 | Weblog
重要文化財の京都市北区紫野大徳寺町にある大徳寺三門です。大徳寺最古の建造物です。応仁の乱で焼失後、一休が一層を再建しました。60年後千利休が二層に改修し利休木像を安置したため秀吉の逆鱗に触れ切腹させられました。
 元応元年(1319)大澄国師(宗峰妙超)が創建した禅寺です。花園・後醍醐両天皇の帰依を受け嘉暦元年(1326)に大徳寺と名付けられました。京都五山の上位に列せられましたが、足利氏の時代に入ると五山から除かれてしまいます。応仁の乱で焼失してしまいました。その後一休禅師が堺の豪商の援助を得て復興させました。茶の湯との関係も深く、千利休ら堺の茶人や茶の湯好きな大名などが次々に帰依しました。塔頭が建立され大いに隆盛しました。境内は広大で南北一直線上に典型的禅宗伽藍が配置されています。
 築地塀に囲まれた中に22もの塔頭があります。方丈など国宝の堂宇にはじまり、枯山水の庭園や茶室などがあります。秀吉が信長の葬儀をここで執行したことでも有名です。
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京都市左京区一乗寺の曼殊院です。

2006年10月10日 | Weblog
 曼殊院はまんしゅいんと読むそうです。延暦年間(782年~806年)最澄が比叡山上に一宇を設け、天慶年間(938年~947年)に是算が西塔北谷に移し、東尾坊と号したのが始まりです。天暦元年(945)に門跡寺院となりました。 平安後期の天仁年間(1108年~1110年)忠尋のとき曼殊院と名を改めました。後に北山へ移り、その後足利義満が御所のそばに移し、文明年間(1469年~1487年)のとき伏見宮貞常親王の子慈雲法親王が入寺し門跡寺院となり、以後竹内門跡と称されるようになりました。
現在地に移ったのは江戸初期の明暦2年(1656)で、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の次男、良尚法親王が住持となったときだそうです。そのため桂離宮の美意識が息づく江戸時代初期の代表的な書院建築です。
 豊臣、徳川の援助を受けつつも、桃山文化の華やかさを皇族流に洗練させた芸術がこの時代に花開いたようです。また良尚法親王は正保3年(1646)天台座主となったなかなかの人物だったそうです。
 虎の間、大書院、小書院、庫裡は重要文化財に指定されています。建築、庭園ともに創意に満ち、狩野永徳や探幽の襖絵があり、欄間、釘隠し、襖の引手など細部の意匠にも美意識が宿っています。
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京都市左京区一乗寺にある詩仙堂です。

2006年10月09日 | 旅 歴史
 詩仙堂(丈山寺)は京都市左京区一乗寺門口町にあります。漢詩の大家、煎茶の開祖として知られる石川丈山が寛永18年(1641)に造営しました。晩年の31年間をここで過ごし、90年の長い生涯を閉じました。徳川家康の家臣でしたが放遂され文人の世界に入った人です。 狩野探幽に描かせた中国の詩仙三十六人の肖像と詩があることから、いつからか詩仙堂と呼ばれるようになりました。快い竹の音をひびかせる「ししおどし」は実は丈山が考案したものだといわれています。この「ししおどし」の音が響き渡る唐様庭園も見事です。
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京都市左京区一乗寺にある圓光寺です。

2006年10月07日 | 旅 歴史
京都市左京区一乗寺にある瑞巌山圓光寺です。慶長6年(1601)、徳川家康が教学のために、足利学校の僧、閑室元佶(かんしつげんきつ)を招いて伏見に建立し、圓光寺学校としたのが起こりです。この足利学校の京分校で儒学を中心に武士や僧侶の教育をしたのです。将軍の家康が多くの文献や木製の活字を寄付し教科書となるたくさんの本が印刷されました。出版文化史上、非常に大切なものである最古の木製活字約5万字(重要文化財)の一部を見学できます。庭園は洛北ではもっとも古いとされる栖龍池(せいりゅうち)があり、十牛の庭と名づけられています。圓光寺には、村山たか女のお墓があります。
 村山たか女、石川丈山などの厄介者を受け入れる反骨の風土がここにはあります。徳川幕府は、土着の渡辺氏の動静を観察するため詩仙堂の北に圓光寺を開山させたともとられています。


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諏訪の万治の石仏です。

2006年10月06日 | 旅 歴史
万治の石仏は諏訪大社春宮の近くにあります。伝説によると・・・諏訪大社春宮の鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ、傷口から血が流れ出したので、石工たちは恐れをなし仕事をやめたそうです。ノミの跡は今でも残っているそうです。その夜、石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると教えられ、言われたとおり行ってみると良材を見つけることができたそうです。石工たちは先の霊の宿る石を敬い、この石に阿弥陀如来をまつったとのことです。
 参道入り口に、画家の岡本太郎氏による碑が立っています。岡本先生は「世界中でこんなおもしろいものは見たことがない」と惚れ込み、作家の新田次郎先生も南米イースター島から渡来した首という想定で小説を書き話題となりました。
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諏訪大社下社春宮です。

2006年10月05日 | 旅 歴史
諏訪大社下社春宮です。神様は二月から七月まではこちらに来られます。大門通りからまっすぐ伸びる参道(車道)の途中に太鼓橋と呼ばれる室町時代の建立が残っています。これより中は殿様でも籠や馬から降りなければならない場所でした。
 春宮参拝の折はこれより下乗下馬といわれたこの橋は元文年間(1730年代)に改修され、下社では最も古い建物です。現在この橋を通ることができるのは一年に二度の神行行事の神様がお乗りなった神輿だけとなっています。 鳥居をくぐると境内。秋宮より小ぶりの神楽殿の奥に、幣拝殿があり、瑞垣内に宝殿二棟があります。拝幣殿は1779(安永8)年竣工の柴宮長左衛門の名建築で、片拝殿とともに国の重要文化財に指定されています。 拝殿の両側に、太くて高い柱が立てられています。この拝殿、正式には「左右片拝殿」と呼ばれ、屋根が片切になっていて、秋宮のそれよりも幅が短くなっています 。
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諏訪大社下社秋宮です。

2006年10月04日 | 旅 歴史
 諏訪湖周辺にある4つの諏訪大社のなかで、もっともにぎわいをみせるのが、諏訪大社下社秋宮です。下社は春宮と秋宮の二社に分かれているのです。下社の祭神である八坂刀売命は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭りで秋宮に遷座し、翌二月一日に春宮に帰座されるといわれています。つまり夏は春宮に、冬は秋宮に住まわれるのです。諏訪大社下社秋宮には本殿がありません。ご神体は拝殿・御宝殿の奥のご神木「一位の木」です。拝殿中央に「御神鏡」が祀られています。拝殿は神楽殿の奥にあり国宝二重楼門造りです。左右の建物は片拝殿です。安永10年(1781)初代立川和四郎富棟棟領が建造しました。奥にはお宝殿があります。 下社秋宮は、日本一大きい青銅製の狛犬や注連縄があります。また宝物殿には国の重要文化財の売神祝印ほか多くの貴重な宝物資料があります。
 安永10年に建てられた幣拝殿・左右片拝殿、天保6年に建てられた神楽殿は、国の重要文化財に指定されています。
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諏訪大社です。

2006年10月03日 | 旅 歴史
諏訪大社は主に上社が狩猟神的で・下社が農耕神的だといわれております。江戸時代には、社嶺千五百石が与えられていました。諏訪大社は 上社と下社を合わせて一社を形作っているのです。諏訪大社では、天下の奇祭と呼ばれている「御柱祭」があります。この勇壮な木落とし川越しの難事を経て、独特の木遣唄(きやりうた)を歌いながら奉仕されるのです。伐採から洩建(ひきたて)まですべて昔は人力でした。
  御柱祭は、桓武天皇の御代から始まったと言われています。もちろん洩建は上社の山出しが四月の最初の寅・申の日の里洩(さとびき)は五月初めの寅・申の日の同じく前後二~三日間で、下社は、上社の一週間遅れで行われるのです。
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群馬県嬬恋村にある鎌原観音堂です。

2006年10月02日 | 旅 歴史
 嬬恋村にある鎌原観音堂です。天明3年の浅間山大噴火で鎌原村は時速100kmの火砕泥流に襲われました。この村には477人の村人が住んでいました。
 その時、この観音堂に逃れた93人だけが奇跡的に助かりました。以来、観音堂は厄除け観音として信奉されています。
 観音堂の前の石段は現在15段ですが本来は50段ありました。この石段を最後まで駆け上がった村人だけが火砕流から逃れることができました。わずか数段上りきれずに命を落とした人も発見されています。
 残った村人はそれぞれ縁を組み、新しい家族となって村を再建していった、という悲しい云われのある場所です。
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群馬県のみなかみ町の泰寧寺です。

2006年10月01日 | 旅 歴史
 写経とあじさいで有名な泰寧寺は延慶2年(1309)真改(しんかい)によって開基されたそうです。石段の上には県の重要文化財に指定されている山門が堂々と建てられています。間口3間、奥行2間の楼門(ろうもん)で、入母屋造の禅宗様式の山門です。泰寧寺山門の円柱12本のうち11本は1本の大ケヤキから取られたと言い伝えられているそうです。上層内部には釈迦三尊像、迦葉・阿難の二大弟子、十六羅漢像が安置されています。初層の天井は6間に区切られています。中央手前には龍が描かれています。
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