今日は尾道市因島中庄町にある因島市史料館を取り上げてみます。
戦国時代に村上水軍の拠点になるなど、水運業で栄えた因島に暮らす人々の生活、郷土文化を伝える史料館です。因島の主要産業である漁業・農業用具、生活用具、生産用具なども展示・紹介しています。
因島市史料館の横にある「盃状穴のある灯明台」です。元重井町一本松にあったものだそうです。この穴の発生は古代からで再生、子宝、安産、豊作、病気平癒などを願って彫ったそうです。庶民の呪術、信仰を知る重要な民俗文化財なのです。
隣り合わせの海の歴史民俗資料館の前には作家村上元三の句が詠まれていました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
戦国時代に村上水軍の拠点になるなど、水運業で栄えた因島に暮らす人々の生活、郷土文化を伝える史料館です。因島の主要産業である漁業・農業用具、生活用具、生産用具なども展示・紹介しています。
因島市史料館の横にある「盃状穴のある灯明台」です。元重井町一本松にあったものだそうです。この穴の発生は古代からで再生、子宝、安産、豊作、病気平癒などを願って彫ったそうです。庶民の呪術、信仰を知る重要な民俗文化財なのです。
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今日は広島県廿日市市宮島町にある大聖院です。
大聖院は多喜山水精寺大聖院といい、弥山の麓にある真言宗御室派の大本山です。宮島で最古の歴史を持つお寺て゛天下統一を果たした豊臣秀吉がこの大聖院で細川幽斎らを招いて盛大な歌会を催しました。
大聖院は、明治の神仏分離令が出るまでは十二の坊の末寺をもっていて、厳島神社の別当職として祭祀を司ってきた宮島の総本坊でもあったのです。
本堂は勅願堂(ちょくがんどう)とも呼ばれています。鳥羽天皇勅願道場として創建されたことにより、この名がつけられたそうです。そのようないきさつで鳥羽天皇の第五皇子である覚性法親王が門跡を務めた京都・仁和寺や歴代皇室との結びつきが深いお寺です。
本堂には豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、海上安全を祈願して奉納した波切不動明王が祀られています。
観音堂は大聖院の中でで最も大きな建物です。もとは厳島神社の御本地仏で行基菩薩の作と伝えられる十一面観世音菩薩が祀られています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
大聖院は多喜山水精寺大聖院といい、弥山の麓にある真言宗御室派の大本山です。宮島で最古の歴史を持つお寺て゛天下統一を果たした豊臣秀吉がこの大聖院で細川幽斎らを招いて盛大な歌会を催しました。
大聖院は、明治の神仏分離令が出るまでは十二の坊の末寺をもっていて、厳島神社の別当職として祭祀を司ってきた宮島の総本坊でもあったのです。
本堂は勅願堂(ちょくがんどう)とも呼ばれています。鳥羽天皇勅願道場として創建されたことにより、この名がつけられたそうです。そのようないきさつで鳥羽天皇の第五皇子である覚性法親王が門跡を務めた京都・仁和寺や歴代皇室との結びつきが深いお寺です。
本堂には豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、海上安全を祈願して奉納した波切不動明王が祀られています。
観音堂は大聖院の中でで最も大きな建物です。もとは厳島神社の御本地仏で行基菩薩の作と伝えられる十一面観世音菩薩が祀られています。
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今日は広島県尾道市因島~向島にある因島大橋を紹介します。
布刈瀬戸(めかりせと)に架かり、向島と因島をつなぐ端正な美しさを持った橋です。昭和58年(1983)東洋一のつり橋として完成しました。橋長1270mの吊橋です。
海面から主塔までの高さは145mあり、上部は自動車専用道路になっていて下部は歩行者・自転車用道路という上下二段構造になっています。
因島大橋ケーブルアンカーフレームです。総重量は4基合わせて1935トンもあります。ストランド定着部には1本定着の場合35本のものが4基あり、一本当り150トンの張力が働くそうです。
因島大橋のケーブルです。ケーブルの長さは1360m、直径は61cmだそうです。ケーブルのストランド数は91本、ストランドの素線数は127本、ケーブルの素線数は11557本、ケーブルの全重量は5200トンもあるそうです。
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海面から主塔までの高さは145mあり、上部は自動車専用道路になっていて下部は歩行者・自転車用道路という上下二段構造になっています。
因島大橋ケーブルアンカーフレームです。総重量は4基合わせて1935トンもあります。ストランド定着部には1本定着の場合35本のものが4基あり、一本当り150トンの張力が働くそうです。
因島大橋のケーブルです。ケーブルの長さは1360m、直径は61cmだそうです。ケーブルのストランド数は91本、ストランドの素線数は127本、ケーブルの素線数は11557本、ケーブルの全重量は5200トンもあるそうです。
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今日は広島県広島市中区中島町にある原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)を取り上げます。
平和記念公園の中央に立つこの碑は昭和20年8月6日、世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を平和都市として再建することを祈念して建てられたものです。中央の石室には原爆死没者名簿が納められています。
埴輪の家型の慰霊碑は昭和27年(1952)8月6日に除幕されました。石室には23万7千人以上の原爆死没者の名簿が納められ、毎年増え続けています。正面には「安らかに眠って下さい過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。
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平和記念公園の中央に立つこの碑は昭和20年8月6日、世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を平和都市として再建することを祈念して建てられたものです。中央の石室には原爆死没者名簿が納められています。
埴輪の家型の慰霊碑は昭和27年(1952)8月6日に除幕されました。石室には23万7千人以上の原爆死没者の名簿が納められ、毎年増え続けています。正面には「安らかに眠って下さい過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。
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今日は広島県広島市中区中島町~大手町にある平和記念公園を紹介します。
昭和20年(1945)8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾が広島のこの地区の頭上で炸裂しました。ここの住民や疎開作業に従事していた国民義勇隊や動員学徒など多く人が一瞬のうちに消え去ってしまったのです。
昭和24年(1949)8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設として整備されることとなり、現在の平和記念公園に生まれ変わったのです。
公園の面積は約12万2千平方メートル(約3万7千坪)あり、設計は、丹下健三氏が担当しました。園内には多くの樹木や花が植えられ緑豊かな公園になっています。
広島平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑、平和記念館、原爆の子の像など平和を祈る数々の施設やモニュメントが点在しています。
毎年8月6日には平和記念式典が催されています。その日の夜は元安川をはじめ市内を流れる6つの川で犠牲者への慰霊のとうろう流しが行われます。
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昭和20年(1945)8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾が広島のこの地区の頭上で炸裂しました。ここの住民や疎開作業に従事していた国民義勇隊や動員学徒など多く人が一瞬のうちに消え去ってしまったのです。
昭和24年(1949)8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設として整備されることとなり、現在の平和記念公園に生まれ変わったのです。
公園の面積は約12万2千平方メートル(約3万7千坪)あり、設計は、丹下健三氏が担当しました。園内には多くの樹木や花が植えられ緑豊かな公園になっています。
広島平和記念資料館、原爆死没者慰霊碑、平和記念館、原爆の子の像など平和を祈る数々の施設やモニュメントが点在しています。
毎年8月6日には平和記念式典が催されています。その日の夜は元安川をはじめ市内を流れる6つの川で犠牲者への慰霊のとうろう流しが行われます。
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今日は広島県廿日市市宮島町にある厳島神社を取り上げます。
楠の四脚造の鳥居は海中に自重で立っています。本社拝殿から200m先の海中にあり、干潮時は歩いて渡れます。この鳥居は明治8年に建てられたものだそうです。
6世紀末の創建で、平清盛の時には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168)頃に今日のような社殿が造営されたようです。平家一門の権勢が増大するにつれ、厳島神社の名声も高まり、多くの貴族も崇拝し、社運はますます盛大になりました。
本殿は桁行正面8間、背面9間、梁間4間、一重両流れ造りで国宝に指定されています。現在の建物は元亀2年(1571)毛利元就によって改築されたものです。拝殿には幣殿で本殿と結ばれています。拝殿、幣殿も国宝です。
屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たず、寝殿造りの様式である桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れているところが大きな特徴です。
祓殿は拝殿の前方に続く建物です。桁行正面6間、梁間3間、一重の入母屋造で背面は拝殿の屋根に接続しています。これも国宝に指定されています。
祓殿の正面前方に167坪の平舞台が付いています。この中央に天文15年(1546)に造営された高舞台があり、ここで舞楽が演じられます。
厳島神社は平家滅亡後も、源氏一門、足利氏らに厚遇されました。社殿は、承元元年(1207)と貞応2年(1223)に火災にあいましたが修復されました。
能舞台は国の重要文化財です。桁行1間、梁間1間、一重切妻造り、妻正面、桧皮葺の能舞台は、海上に建っているため、通常能舞台の床下に置かれている共鳴させるための甕がなく、床は響きをよくするため一枚の板のようになっています。
足拍子のたびに大きく共鳴して響きます。また、潮の満ち引きによっても響きの音色が変わるといいます。全国で唯一の海に浮かぶ能舞台なのです。平成3年(1991)の台風で倒壊しましたが3年後に同じ古材を可能な限り使って再建されました。
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6世紀末の創建で、平清盛の時には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168)頃に今日のような社殿が造営されたようです。平家一門の権勢が増大するにつれ、厳島神社の名声も高まり、多くの貴族も崇拝し、社運はますます盛大になりました。
本殿は桁行正面8間、背面9間、梁間4間、一重両流れ造りで国宝に指定されています。現在の建物は元亀2年(1571)毛利元就によって改築されたものです。拝殿には幣殿で本殿と結ばれています。拝殿、幣殿も国宝です。
屋根に神社の定番とも言える千木と鰹木を持たず、寝殿造りの様式である桧皮葺の屋根に瓦を積んだ化粧棟のスタイルを取り入れているところが大きな特徴です。
祓殿は拝殿の前方に続く建物です。桁行正面6間、梁間3間、一重の入母屋造で背面は拝殿の屋根に接続しています。これも国宝に指定されています。
祓殿の正面前方に167坪の平舞台が付いています。この中央に天文15年(1546)に造営された高舞台があり、ここで舞楽が演じられます。
厳島神社は平家滅亡後も、源氏一門、足利氏らに厚遇されました。社殿は、承元元年(1207)と貞応2年(1223)に火災にあいましたが修復されました。
能舞台は国の重要文化財です。桁行1間、梁間1間、一重切妻造り、妻正面、桧皮葺の能舞台は、海上に建っているため、通常能舞台の床下に置かれている共鳴させるための甕がなく、床は響きをよくするため一枚の板のようになっています。
足拍子のたびに大きく共鳴して響きます。また、潮の満ち引きによっても響きの音色が変わるといいます。全国で唯一の海に浮かぶ能舞台なのです。平成3年(1991)の台風で倒壊しましたが3年後に同じ古材を可能な限り使って再建されました。
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今日は広島県尾道市瀬戸田町沢にある平山郁夫美術館を紹介します。
仏教伝来や、シルクロードを描いたシリーズで知られる日本を代表する人間国宝の画家平山郁夫氏の美術館です。平成9年(1997)に開館しています。
平山郁夫氏は昭和5年(1930)この瀬戸田町の生口島で生まれたそうです。故郷を描いた作品には「しまなみ海道五十三次」があります。しまなみ街道に沿って約60点の水彩素描画が描かれています。
新作の展示のほかに生い立ちや少年時代の絵画、取材アルバムや書簡、東京美術学校時代のスケッチ、ふるさと瀬戸田の作品など貴重な作品を多数収蔵しています。
平山郁夫氏は昭和20年(1945)旧制中学3年の時、広島で被爆し後遺症にも悩まされたそうです。まさにここは平山芸術の原点に戻れる美術館なのです。
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平山郁夫氏は昭和5年(1930)この瀬戸田町の生口島で生まれたそうです。故郷を描いた作品には「しまなみ海道五十三次」があります。しまなみ街道に沿って約60点の水彩素描画が描かれています。
新作の展示のほかに生い立ちや少年時代の絵画、取材アルバムや書簡、東京美術学校時代のスケッチ、ふるさと瀬戸田の作品など貴重な作品を多数収蔵しています。
平山郁夫氏は昭和20年(1945)旧制中学3年の時、広島で被爆し後遺症にも悩まされたそうです。まさにここは平山芸術の原点に戻れる美術館なのです。
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広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田にある向上寺三重塔を取り上げてみます。
平山郁夫氏は少年の頃、この向上寺の裏山で遊んだそうです。そしてこの三重塔を中心とする構図で写生したそうです。国宝の向上寺の前身は応永10年(1403)三原仏通寺の開祖、愚中周及により開山したといわれています。
その後、生口隆平・守平親子や生口氏と深い関係にあった小早川元信・信昌らによって、建物の増改築が行われ応永21年(1414)に向上寺と改名したそうです。
向上寺内にある三重塔は、永享4年(1432)当時の生口島の領主である小早川元信・信昌によって建立されたそうです。昭和33年(1958)に国宝に指定されています。
高さ19m、室町時代の禅僧建築の粋を集めた唐様式と和様式の折衷となっています。各層高欄を支える四隅の親柱の飾り付けが逆蓮華になっているのが特徴です。須弥壇高欄親柱が唐様で二重開花蓮の上に宝珠がある珍しい建築方法だそうです。
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その後、生口隆平・守平親子や生口氏と深い関係にあった小早川元信・信昌らによって、建物の増改築が行われ応永21年(1414)に向上寺と改名したそうです。
向上寺内にある三重塔は、永享4年(1432)当時の生口島の領主である小早川元信・信昌によって建立されたそうです。昭和33年(1958)に国宝に指定されています。
高さ19m、室町時代の禅僧建築の粋を集めた唐様式と和様式の折衷となっています。各層高欄を支える四隅の親柱の飾り付けが逆蓮華になっているのが特徴です。須弥壇高欄親柱が唐様で二重開花蓮の上に宝珠がある珍しい建築方法だそうです。
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今日は広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田にある耕三寺を紹介します。
母の寺として有名な耕三寺はもと実業家で初代住職の耕三寺耕三和上が母の菩提寺として建立した浄土真宗本願寺派の寺です。
昭和11年(1936)から30年あまりの歳月をかけて造られた堂塔は、国宝建造物を手本として建てられています。山門は京都御所の紫宸殿と同じ様式で、ここをくぐると奈良法隆寺の楼門と同じ様式の中門に出会えます。
堂塔は飛鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸など各時代の建築様式を取り入れています。その内の15棟は国登録有形文化財に指定されています。
約1万5千坪の寺域の伽藍の配置の特徴は上・中・下三段から構成されています。南北を貫く軸線を中心として左右対称に堂塔が配置されているのです。
中門を抜けると右側に鼓楼、左側に奈良新薬師寺を真似た鐘楼があります。そのまま中心線の先の本堂に向かって石段を登ると中心に五重の塔がそびえています。室生寺の五重塔をコピーしたものだそうです。色が鮮やかすぎて同じようには見えませんでした。
五重塔の右側には近代美術展示館を兼ねた法宝蔵が建っています。大阪四天王寺の金堂を真似たものだそうです。金堂は江戸時代に再建されましたが大阪空襲の際焼失したそうです。
この法宝蔵の中には耕三寺耕三が蒐集した潮聲閣コレクションの近代美術部門の名品が展示されています。
五重塔の左側には茶道美術展示館を兼ねた僧宝蔵があります。これも大阪四天王寺の金堂を真似ていますが鴟尾のかわりに獅子口を乗せています。
僧宝蔵には耕三寺耕三が蒐集した潮聲閣コレクションの茶道関係の器とか茶器などが展示されています。
五重塔から本堂に向かって石段を登ると孝養門という見たことのある門があります。日光東照宮の陽明門のコピーです。その左右には日野法界寺の阿弥陀堂のコピーの至心殿、信楽殿があります。
孝養門は耕三寺に参拝にきた人々が極彩色の堂塔を見て「日光のようだ」と言っていたのを耕三寺耕三和上が心に留め、昭和28年(1953)9月に日光陽明門の原寸復元を心に決めたそうです。
その際に実測図面が必要になり文部省に一組あった図面を申請して入手したそうです。工匠を日光に派遣して研究し、昭和29年(1954)1月に造営しました。
孝養門より本堂を見ると本当に極楽浄土のように映ります。中国の堂塔を真似て日本で建てられた当時はこんな感じではなかったと思われます。
本堂は宇治平等院の鳳凰堂のコピーです。入母屋、切妻、宝形などの屋根形、肘木、垂木の大面取や格天井、彩色など藤原時代の手法によっているそうです。
中堂の外陣柱を丸柱にして彫刻を施し、翼廊は御名号や絵像を安置するため一層と二層を同じ高さにしています。
本尊は方便法身阿弥陀如来立像です。耕三寺は昔、冷泉中納言卿の荘園があったところに建てられているそうです。
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堂塔は飛鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸など各時代の建築様式を取り入れています。その内の15棟は国登録有形文化財に指定されています。
約1万5千坪の寺域の伽藍の配置の特徴は上・中・下三段から構成されています。南北を貫く軸線を中心として左右対称に堂塔が配置されているのです。
中門を抜けると右側に鼓楼、左側に奈良新薬師寺を真似た鐘楼があります。そのまま中心線の先の本堂に向かって石段を登ると中心に五重の塔がそびえています。室生寺の五重塔をコピーしたものだそうです。色が鮮やかすぎて同じようには見えませんでした。
五重塔の右側には近代美術展示館を兼ねた法宝蔵が建っています。大阪四天王寺の金堂を真似たものだそうです。金堂は江戸時代に再建されましたが大阪空襲の際焼失したそうです。
この法宝蔵の中には耕三寺耕三が蒐集した潮聲閣コレクションの近代美術部門の名品が展示されています。
五重塔の左側には茶道美術展示館を兼ねた僧宝蔵があります。これも大阪四天王寺の金堂を真似ていますが鴟尾のかわりに獅子口を乗せています。
僧宝蔵には耕三寺耕三が蒐集した潮聲閣コレクションの茶道関係の器とか茶器などが展示されています。
五重塔から本堂に向かって石段を登ると孝養門という見たことのある門があります。日光東照宮の陽明門のコピーです。その左右には日野法界寺の阿弥陀堂のコピーの至心殿、信楽殿があります。
孝養門は耕三寺に参拝にきた人々が極彩色の堂塔を見て「日光のようだ」と言っていたのを耕三寺耕三和上が心に留め、昭和28年(1953)9月に日光陽明門の原寸復元を心に決めたそうです。
その際に実測図面が必要になり文部省に一組あった図面を申請して入手したそうです。工匠を日光に派遣して研究し、昭和29年(1954)1月に造営しました。
孝養門より本堂を見ると本当に極楽浄土のように映ります。中国の堂塔を真似て日本で建てられた当時はこんな感じではなかったと思われます。
本堂は宇治平等院の鳳凰堂のコピーです。入母屋、切妻、宝形などの屋根形、肘木、垂木の大面取や格天井、彩色など藤原時代の手法によっているそうです。
中堂の外陣柱を丸柱にして彫刻を施し、翼廊は御名号や絵像を安置するため一層と二層を同じ高さにしています。
本尊は方便法身阿弥陀如来立像です。耕三寺は昔、冷泉中納言卿の荘園があったところに建てられているそうです。
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広島県尾道市因島中庄町にある因島市史料館です。
戦国時代に村上水軍の拠点になるなど、水運業で栄えた因島に暮らす人々の生活、郷土文化を伝える史料館です。因島の主要産業である漁業・農業用具、生活用具、生産用具なども展示・紹介しています。
因島市史料館の横にある「盃状穴のある灯明台」です。元重井町一本松にあったものだそうです。この穴の発生は古代からで再生、子宝、安産、豊作、病気平癒などを願って彫ったそうです。庶民の呪術、信仰を知る重要な民俗文化財なのです。
隣り合わせの海の歴史民俗資料館の前には作家村上元三の句が詠まれていました。
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戦国時代に村上水軍の拠点になるなど、水運業で栄えた因島に暮らす人々の生活、郷土文化を伝える史料館です。因島の主要産業である漁業・農業用具、生活用具、生産用具なども展示・紹介しています。
因島市史料館の横にある「盃状穴のある灯明台」です。元重井町一本松にあったものだそうです。この穴の発生は古代からで再生、子宝、安産、豊作、病気平癒などを願って彫ったそうです。庶民の呪術、信仰を知る重要な民俗文化財なのです。
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今日は広島市尾道市因島中庄町にある因島水軍城を取り上げてみます。
金蓮寺の右手にある小高い丘の上に建つ国内唯一の水軍城です。昭和58年に歴史家の奈良本辰也氏の監修で建てられました。丘の上に本丸、二の丸、隅櫓の三棟が蘇りました。
本丸は水軍資料館として小早川隆景から拝領した甲冑や武具などの歴史資料を展示しています。隅櫓は展望台と船の資料館になっています。
因島は室町時代から戦国時代を通して活躍した村上水軍の拠点として知られています。村上水軍には「因島村上」「能島村上」「来島村上」の三家があったそうです。
南北朝から戦国にかけては、村上水軍の威勢は大いにふるい布刈瀬戸(めかりせと)と尾道水道をおさえ、ここを通る船から帆別銭(通行税)を取ったのでした。
八幡大菩薩の旗をかかげ朝鮮、中国から遠く東南アジアまで航海・貿易と水軍の三位で押し渡り、「倭寇(わこう)」の名を海外にとどろかせました。
村上水軍は南朝の後醍醐天皇の懐良親王を助けた村上義弘が頭角を現し基盤を確立したと伝えられています。
本丸の水軍資料館には、純金家紋付鉄錆地色具足、村上家相伝の由緒ある白紫緋色段縅腹巻などの武具や村上家伝来の古文書を展示しています。
また重要美術品の大塔官令旨や源平合戦屏風、金蓮寺在銘瓦などもあります。水軍史がわかる水軍船の模型も復元され、水軍旗なども展示されています。
村上水軍が最大に勢力を拡大した頃は、西は山口の上関、東は香川の塩飽諸島とほぼ瀬戸内海全域を制海したといわれています。
能島村上家の村上武吉は毛利家の家臣となったそうです。織田水軍(九鬼)と2度戦いましたが、2度目の戦いで織田水軍が仕立てた鉄甲船の前に大敗し、次第に勢力を弱めていったそうです。
豊臣秀吉は海上の権力を警戒し海賊禁止令を出しました。村上武吉は毛利家を頼って山口の屋代島に移っていったそうです。
フルーツの島といわれるだけあってみかん畑が広がっていました。ハッサクは因島が原産だそうです。幕末に発見された突然変異種で、年間生産量3千トンは、県内の3分の1強を占めるそうです。
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本丸は水軍資料館として小早川隆景から拝領した甲冑や武具などの歴史資料を展示しています。隅櫓は展望台と船の資料館になっています。
因島は室町時代から戦国時代を通して活躍した村上水軍の拠点として知られています。村上水軍には「因島村上」「能島村上」「来島村上」の三家があったそうです。
南北朝から戦国にかけては、村上水軍の威勢は大いにふるい布刈瀬戸(めかりせと)と尾道水道をおさえ、ここを通る船から帆別銭(通行税)を取ったのでした。
八幡大菩薩の旗をかかげ朝鮮、中国から遠く東南アジアまで航海・貿易と水軍の三位で押し渡り、「倭寇(わこう)」の名を海外にとどろかせました。
村上水軍は南朝の後醍醐天皇の懐良親王を助けた村上義弘が頭角を現し基盤を確立したと伝えられています。
本丸の水軍資料館には、純金家紋付鉄錆地色具足、村上家相伝の由緒ある白紫緋色段縅腹巻などの武具や村上家伝来の古文書を展示しています。
また重要美術品の大塔官令旨や源平合戦屏風、金蓮寺在銘瓦などもあります。水軍史がわかる水軍船の模型も復元され、水軍旗なども展示されています。
村上水軍が最大に勢力を拡大した頃は、西は山口の上関、東は香川の塩飽諸島とほぼ瀬戸内海全域を制海したといわれています。
能島村上家の村上武吉は毛利家の家臣となったそうです。織田水軍(九鬼)と2度戦いましたが、2度目の戦いで織田水軍が仕立てた鉄甲船の前に大敗し、次第に勢力を弱めていったそうです。
豊臣秀吉は海上の権力を警戒し海賊禁止令を出しました。村上武吉は毛利家を頼って山口の屋代島に移っていったそうです。
フルーツの島といわれるだけあってみかん畑が広がっていました。ハッサクは因島が原産だそうです。幕末に発見された突然変異種で、年間生産量3千トンは、県内の3分の1強を占めるそうです。
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今日は広島県尾道市東久保町にある浄土寺を紹介します。
尾道市街の東端、浄土寺山の南麓に建つ浄土寺は616年に聖徳太子によって開創されたといわれる中国地方屈指の名刹です。足利尊氏ゆかりの寺としても有名です。境内入口の山門は国の重要文化財に指定され1330年頃再建された建物です。
山門を入ったところにある本堂は国宝です。嘉暦2年(1327)建立されています。和様を基調にしながら細部には桟唐戸などを用いた折衷型の鎌倉末期の遺構です。本堂本尊は秘仏の木造十一面観音菩薩立像でこれも重要文化財です。
1345年に再建された阿弥陀堂は室町初期の建築で国の重要文化財です。均整の取れた美しい和様の建物で、質素ながら優美さを感じさせます。奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室「露滴庵」があります。これも国の重要文化財です。
本堂と同じ時に建立された国宝の多宝塔があります。多宝塔としては規模が大きいうえに全体の釣り合いがよくとれています。ボタン、唐草に蝶の透かし彫りを施すなど細部の装飾も立派です。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
尾道市街の東端、浄土寺山の南麓に建つ浄土寺は616年に聖徳太子によって開創されたといわれる中国地方屈指の名刹です。足利尊氏ゆかりの寺としても有名です。境内入口の山門は国の重要文化財に指定され1330年頃再建された建物です。
山門を入ったところにある本堂は国宝です。嘉暦2年(1327)建立されています。和様を基調にしながら細部には桟唐戸などを用いた折衷型の鎌倉末期の遺構です。本堂本尊は秘仏の木造十一面観音菩薩立像でこれも重要文化財です。
1345年に再建された阿弥陀堂は室町初期の建築で国の重要文化財です。均整の取れた美しい和様の建物で、質素ながら優美さを感じさせます。奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室「露滴庵」があります。これも国の重要文化財です。
本堂と同じ時に建立された国宝の多宝塔があります。多宝塔としては規模が大きいうえに全体の釣り合いがよくとれています。ボタン、唐草に蝶の透かし彫りを施すなど細部の装飾も立派です。
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広島県尾道市西久保町にある西国寺です。
尾道市街の北側、愛宕山南腹にある西国寺です。真言宗西国寺派の巨刹として知られ西国寺派の本山になっています。
西国寺仁王門です。県下唯ーの本格的楼門形式で県の重要文化財に指定されています。軒先には大小さまざまなわらじが吊されています。
2mの大わらじは遠くからでもすぐ目に付きます。仁王様のような丈夫な足になるようにという願いが込められています。自分でわらじを編んで奉納すると足の病に効くという「大わらじの寺」として有名になっています。
西国寺は天平年間(729~749)に行基が開いたといわれています。大ぞうりのある仁王門をくぐると108段ある石段が待ち構えています。
西国寺三重塔です。国の重要文化財に指定されています。3間3面の3層塔婆で屋根は本瓦葺きです。純和風の室町前期の復古調建築です。
足利6代将軍足利義教が建寄進したものだそうです。永享元年(1429)宥尊によって塔建立の勧進が行なわれています。建築以来災禍に遭遇することなく550年の風雪をしのいで現在に至っているそうです。
西国寺金堂です。この建物も国の重要文化財に指定されています。桁行正面5間、梁間5間、一重、入母屋造で屋根は本瓦葺きです。
唐様を加味しながらも和風の風格が強く、古代に忠実な復古調の建築です。堂内の須弥壇、厨子も同時代のものです。
厨子の中には秘伝の薬師如来座像が安置されているそうです。弘仁年間(810-824)に空海が創ったものと伝わっているそうです。
境内は広大で護摩堂、大師堂、弥勒堂、毘沙門堂、客殿、庫裏などの諸堂宇があり、愛宕山をバックに甍を重ねています。
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尾道市街の北側、愛宕山南腹にある西国寺です。真言宗西国寺派の巨刹として知られ西国寺派の本山になっています。
西国寺仁王門です。県下唯ーの本格的楼門形式で県の重要文化財に指定されています。軒先には大小さまざまなわらじが吊されています。
2mの大わらじは遠くからでもすぐ目に付きます。仁王様のような丈夫な足になるようにという願いが込められています。自分でわらじを編んで奉納すると足の病に効くという「大わらじの寺」として有名になっています。
西国寺は天平年間(729~749)に行基が開いたといわれています。大ぞうりのある仁王門をくぐると108段ある石段が待ち構えています。
西国寺三重塔です。国の重要文化財に指定されています。3間3面の3層塔婆で屋根は本瓦葺きです。純和風の室町前期の復古調建築です。
足利6代将軍足利義教が建寄進したものだそうです。永享元年(1429)宥尊によって塔建立の勧進が行なわれています。建築以来災禍に遭遇することなく550年の風雪をしのいで現在に至っているそうです。
西国寺金堂です。この建物も国の重要文化財に指定されています。桁行正面5間、梁間5間、一重、入母屋造で屋根は本瓦葺きです。
唐様を加味しながらも和風の風格が強く、古代に忠実な復古調の建築です。堂内の須弥壇、厨子も同時代のものです。
厨子の中には秘伝の薬師如来座像が安置されているそうです。弘仁年間(810-824)に空海が創ったものと伝わっているそうです。
境内は広大で護摩堂、大師堂、弥勒堂、毘沙門堂、客殿、庫裏などの諸堂宇があり、愛宕山をバックに甍を重ねています。
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