旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

千光寺公園

2009年06月09日 | 旅 歴史
 広島県尾道市東土堂町にある千光寺公園です。
 尾道市街の背後にある千光寺山南山腹に広がる公園です。隣の千光寺の多田住職が明治36年(1903)公園にと約1350坪を尾道市へ寄付したことから誕生したそうです。
 古くから山陽道の景勝地として知られていました。ここから瀬戸内海の風光をめでるために多くの文人、墨客が訪ねました。志賀直哉、林芙美子、十返舎一九、頼山陽、正岡子規など尾道にゆかりの深い人の詩歌が刻まれています。
 文学のこみちの中ほどには、林芙美子の「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。・・・」という放浪記の一文が刻まれています。
 頼山陽の像です。「盤石座す可く松拠る可し 松翠缺くる処海光露わる 六年重ねて来たる千光寺 山紫水明指顧に在り・・・」文政12年千光寺山に登ったときの作だそうです。山陽は広島県竹原市の出身で「日本外史」「日政記」などを著わしています。
 尾道大菊人形展が千光寺公園で行なわれていました。春は一万本の桜が咲き乱れるそうです。この千光寺公園は桜百選にも選ばれているそうです。この桜は尾道の市の木、花に指定されているのだそうです。
 千光グリーンランドが園内にあります。ほんとに小さな遊園地で小さな子が楽しめます。メリーゴーランドや、観覧車、汽車、サイクルモノレール、ジェットコースターなどあります。

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千光寺

2009年06月09日 | 旅 歴史
 広島県尾道市東土堂町にある千光寺です。
 千光寺山(大宝山)の南腹に建つ大宝山千光寺です。本尊は千手観世音菩薩で伝聖太子が創られたものだといわれています。火伏せの観音さまとして有名です。
 大同元年(806)開基の名刹です。源(多田)満仲の中興といわれる古寺です。満仲は源氏興隆の祖先になります。
 朱塗りの本堂は懸崖造りで「赤堂」と呼ばれています。左は地蔵堂です。本堂の横には巨大な奇岩「三重岩」(みかさねいわ)が迫っています。その下にはお地蔵様が鎮座していました。
 古来伝説によると、昔、夜になると港町の尾道の海上や町を照らし、船の安全に一役かったと伝えられる巨岩・玉の岩(宝珠岩)が岩のてっぺんにあったそうです。
 玉の岩の他にも千光寺には「ポンポン岩」、「梵字岩」、「鏡岩」、「夫婦岩」など、たくさんの不思議な岩があります。
 崖上に張り出した舞台造の本堂からは尾道市街や尾道水道が一望できます。尾道水道は狭い海峡です。渡船の航路は4本もあるそうです。対岸は向島町です。
 境内の前面には除夜の鐘でおなじみの竜宮造の鐘堂「驚音楼」があります。「残したい“日本の音風景100選”」にも選ばれています。
 千光寺山の中腹から、尾道の町に、驚音楼の美しい音色を響かせています。ここからも風光明媚な瀬戸の島々と尾道市街を一望できます。
 「岩割の松」がありました。松の根が岩を割って張り付いています。それにしても、この千光寺には不思議な岩や奇岩が数多く見受けられました。
 滑車が上にあり数珠を引っ張り回しています。回すと、コトンと大きな音を出します。数珠は108個あり1つ1つ回しながら、煩悩を落としていくのです。

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ふくやま美術館

2009年06月09日 | 旅 歴史

 広島県福山市西町にあるふくやま美術館です。
 ふくやま美術館は福山城と隣接した公園型美術館です。広い敷地には真っ赤なアーチ型のオブジェや噴水、彫刻があり憩いの場ともなっています。

 デ・キリコなどイタリアの現代画家の作品や日本の現代抽象画家、瀬戸内海ゆかりの画家の作品も紹介しています。
 島村抱月、松井須磨子により設立された劇団「芸術座」の舞台主任でもあった福山市出身の小林徳三郎の作品などもあります。
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福山城

2009年06月09日 | 旅 歴史
 今日からは山陽山陰地方の紹介です。初めに広島県福山市丸之内にある福山城をお送りします。
 元和5年(1619)徳川家康の従兄弟・水野勝成(かつなり)が福山十万石の領主となって築城しました。父の水野忠重が徳川家康の母伝通院の弟であるので家康とは母方の従兄弟にあたる関係です。
 天守閣は昭和41年(1966)の再建されたものです。現在内部は博物館になっています。歴代藩主の遺品や福山を中心とした備後地方の歴史と文化に関する貴重な資料が公開されています。
 京都の伏見城から移築されたという伏見櫓と筋鉄御門(すじがねごもん)は昔の姿を残す遺構となっていて国の重要文化財に指定されています。
 元和5年(1619)安芸、備後を治めていた福島正則が改易となりました。そのため安芸に浅野長晟、備後に水野勝成が入封しました。
 水野勝成は当初、神辺城に入城しました。神辺は山間地で城下町の発展が見込めなかったためこの場所に城郭を築こうとしたのでした。
 元和6年(1620)に大水害が襲い築城工事は困難を極め、人柱伝説もうまれたそうです。城を完成させるため神辺城の築材を使い、幕府からも伏見城の遺材も下賜されました。この時、移築されたのが伏見櫓なのです。
 山陽道の要衝を守る地として幕府は重要視しており、建築資金として幕府公金から金12600両・銀380貫が貸与されたそうです。苦難の末、4年がかりで、元和8年(1622)ようやく5層6階の天守閣が完成しました。そしてこの地も福山と名付けられたのです。
 福山城は、敵追山(てきおい)(鉄覆山)朱雀院久松城、またの名を葦陽(いよう)城ともいわれています。当時は、福山城の外堀と海は入江で結ばれ、すぐ近くまで船が来れたようです。
 元禄10年(1697)水野家は勝成のあと、勝俊、勝貞、勝種、勝岑と続きましたが5代にして断絶してしまいました。
 そのあとに松平忠雅が入りましたが水野遺領15万石のうち 再検地が行われ約5万石は天領となったそうです。下野宇都宮より阿部正邦が入封しました。これ以後は阿部家が支配しました。徳川幕府の幕閣の参政者を出し幕府を支えました。
 三代正右、四代正倫、五代正精、七代正弘は徳川幕府の老中となっています。なかでも阿部正弘は切れ者として有名で幕末の困難な政局を背負い、日米和親条約を結びました。
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