旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

高知城

2009年06月03日 | 旅 歴史
高知県高知市丸ノ内にある高知城を紹介します。
 高知城は南北朝時代、南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、今の高知城がある大高坂山に城を構え、大高坂山城と称したのが最初です。
 その後、興国2年(1341)、松王丸は北朝方の細川禅定らと戦い敗れ落城し、廃城となりました。
  長宗我部元親が四国を制覇後、豊臣秀吉に敗れ土佐国一国のみを安堵されました。
 九州遠征の後の、天正15年(1587)に前の大高坂山城の地に築城しました。天正19年(1591)元親は、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築き、本拠を浦戸に移しました。
 慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで西軍についた元親の子の盛親は改易されました。
 新しく入封したのは、山内一豊でした。尾張黒田城主、山内盛豊の三男として誕生し、秀吉に仕え、目覚ましい働きを重ねてきました。
近江、長浜2万石の城主となった後、小田原攻めの武功により掛川5万石の城主になっていました。
 土佐国一国24万2千石を与えられた山内一豊は掛川城から入封し、浦戸城に入りました。
 慶長6年(1601)一豊は城下町としての浦戸は狭いため、百々綱家(どどつないえ)を総奉行に任じて、大高坂山城跡に本丸の造営を始めました。
 慶長8年(1603)本丸と二の丸が完成し、河中山城(こうちやまじょう)と改名されました。慶長15年(1610)2代藩主忠義の時、高智山城と改名されました。度重なる水害で、河中山城の名を忌み嫌い、竹林寺の空鏡によって名付けられたそうです。
 翌、慶長16年(1611)三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成しました。
 その後、高知城と呼ばれるようになり、城下も高知と呼ばれるようになりました。
 享保12年(1727)高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外のほとんどが焼失した。享保14年(1729)8代豊敷は、深尾帯刀(ふかお たてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手しました。
 寛延元年(1748)天守ほか櫓・門などが完成しました。宝暦3年(1753)高知城の再建が完了しました。現在見られる建造物の大半は、この時に再建されたものです。前の高知城を忠実に再現したといわれており、高欄を設けるなど復古型の形式をとっています。
 天守閣をはじめ、詰門や東西の多聞櫓、黒鉄門など15棟の建物が重要文化財に指定されています。天守閣のある本丸は、全国で唯一天守と御殿が両方残っています。
 明治6年(1873)廃城令に伴い、高知公園となりました。この際に、現存残されている建造物以外の建造物は破却されてしまいました。
 昭和9年(1934)天守など15棟の建造物が国宝に指定され、昭和25年(1950)それらは国の重要文化財に再指定されました。昭和34年(1959)国の史跡に指定され、平成18年(2006)日本100名城に選定されました。

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屋島神社

2009年06月03日 | 旅 歴史
香川県高松市屋島中町にある屋島神社を紹介します。
 慶安4年(1651)初代高松藩主松平頼重が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し祀りました。
 寛永19年(1642)生駒氏に代わって松平頼重が常陸下館5万石から入封しました。頼重は水戸光圀の実の兄になる人だそうです。頼重以降、松平氏が11代228年間藩主を務め明治を迎えました。
 文化元年(1804)高松藩8代藩主松平頼儀が、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手しました。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠態が、松平家の客分棟梁となり、文化12年(1815)に完成しました。
 明治4年(1871)には冠獄神社と改め、さらに明治7年(1874)には屋島神社と改称ました。同年県社に列せられました。
昭和48年(1973)火災のため、本殿、拝殿等を全焼しましたが、神門は無事でした。左利平忠能が彫上げた鳳凰、両側の柱の上り龍 下り龍の見事な彫刻は生き残ったのです。社殿は翌年再建され現在に至っています。

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