フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月8日(土) 晴れ

2007-09-09 08:49:27 | Weblog
  台風一過の晴天。午前中に投稿論文の査読をお願いする最後のお一人であるT先生のご自宅に電話を入れ、ようやく先生をつかまえ、承諾を得る。これで心置きなく午後の芝居見物に出かけられる。
  私以下、母、妻、息子、妻の姉の5人で、儚組(はかなぐみ)第3回公演「カンブリアン・ムーン」(於.アイピット目白)を観に行く。開演は2時からで、30分前に劇場に到着。この回にはチケットを購入してくれた二文生のMさんも観に来ることになっているはずだが・・・と会場を見回したが、姿が見えない。都合が悪くなったのかもしれないと思っていたら、開演5分前に現れた。彼女の方でも私を見つけて、挨拶にやってきたので、隣の席を勧める。駅からの道で迷ってしまいましたとのこと。あわてて早足でやってきたのか、ハンカチをさかんにおでこにあてている。女子学生が一人観に来ることは家族に話しておいたのだが、後から妻が、「スラリとしたきれいな女性が入ってきて、女優さんかしら、モデルさんかしらと思っていたら、私たちのところへやってきて、孝治さん(私のことです)に挨拶をしたからびっくりした」と言っていた。妻の想像は当たらずといえども遠からずで、Mさんは以前演劇をやっていたそうだ。
  さて、今回の舞台の方だが、これまで見てきた学生演劇とははっきりと水準が違う。セミプロ級というか、中にはもうこれはプロでしょという人も混じっていた。ストーリーの説明を始めると煩雑になるので、それは割愛して、この舞台の一番の魅力は何かという話をする。それは声(語り)である。声という楽器を使ったコンサートのようであった。たとえば主人公の少年(女優)が独白を始めると、人魚の一人が少年に影のように寄り添って、同じ独白をする。まるで合唱をするように。かと思うと、少年と人魚の同じ独白に数秒の時間差をつけて、輪唱的な重層性をもたせてみたりする。さらにすごいのは、二人の生者の会話と一人の死者の独白を重ねて聴かせるという技法。しかも会話と独白がかぶることは決してない見事なコンビネーションで、よほど練習を積まないとこうはいくまい。結末近くで、少年に刺殺された雑誌記者の男が、生前にさまざまな他者と交わした会話を、人魚たちを相手にフラッシュバックのように再現するシーンは、男の人生への見事なレクイエムであったし、男の妻が退院をして新しい人生に一歩を踏み出すシーンでの独白、それから少年の死んだ母親(少年に殺されたのだ)が冥府から語る祈りにも似た独白は、会場全体が思わず息を呑んで聴き入るミサ曲のように美しかった。折々で歌われる人魚たちのスキャット・コーラスも、声を音楽として活用していて、ギリシャ悲劇の舞台を観ているような効果をあげていた。一方、生者たちの世界で繰り広げられるシリアスな会話やコミカルな会話は、現代演劇における語りの見本帳を見るようで、大いに楽しめた。とりわけ雑誌の編集長と地球環境の変化を研究する女性学者の二人の芸達者ぶりには舌を巻いた。娘もいい勉強をさせもらったに違いない。
  劇場から目白の駅に向かう途中で立ち寄った古本屋(夏目書店)で、岩城宏之の『棒ふりのカフェテラス』と『棒ふりの休日』(どちらも単行本)を購入したのは、たぶんコンサート帰りの気分のせいだろう。目白駅のホームから劇場のロビーに電話を入れ、夜の部を前に休憩中の娘を呼び出してもらう。明日の千秋楽の舞台のチケットがまだ余っていたら、一枚予約したいと告げる。今日の言葉のコンサートを、明日もう一度、今度は一人だけで聴いてみたいと思ったからである。