フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月22日(土) 晴れ

2007-09-23 07:17:45 | Weblog
  残暑のきびしい一日だった。しかし、明日以降は涼しくなるそうだから、最後の真夏日かもしれないと思うと、残暑も愛おしい気持ちになる。
  午前、横浜の三ツ沢墓地へ義父の墓参りに行く。墓石の上から水をかけるのはいけないという人もいるが、今日の暑さは、それをせずにはおれない。墓参りをすませ、横浜で食事をし、妻、義母、義姉らとはここで別れ、高島屋6Fの伊東屋を覗く。秋のデザインの絵葉書を数枚購入。ノートと同じで、さしあたり使い途があるかどうかは考えないで、気に入ったデザインのものはついつい買ってしまうのだ。

           

  いったん自宅に戻って、昼寝などをしてから、夕方から再び外出。早稲田大学交響楽団の秋季演奏会が文京シビックホールであるのだ。駅までの道が午前中とは違って、どこかしら秋めいている。明日は秋分。これからは昼よりも夜が長くなっていくのだ。

           

  都営三田線の春日駅を降りて、地下道を歩いてシビックホールの地階に出る。前回(6月3日)同様、吹き抜けを見上げると長蛇の列が出来ている。ただしこれは自由席や当日券を求める人たちの列で、指定席のチケットを持っている人の列は20メートルくらい。前回、私はこれを知らないで、長蛇の列の末端に並んでしまって、入場までにだいぶ時間がかかった。開場までまだ時間があるようなので、館内の喫茶店で喉を潤そうかと思ったが、混んでいたので、外に出て、路上の自販機のグレープフルーツジュースを飲む。時刻は5時半になろうとするところ。暮れなずむ街の風景の中でシビックホールはずいぶんと大きく見えた。

           

  予定の6時を少し遅れて開演。本日の演目は以下の通り。

  ベートーヴェン バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲 作品43
  ベートーヴェン 劇音楽「エグモント」序曲 作品84
  ベートーヴェン 序曲「レオノーレ」第3番 作品72
  ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲 作品77
  ワーグナー 歌劇「タンホイザー」序曲
  ヴェルディ 歌劇「運命の力」序曲
  ロッシーニ 歌劇「セミラーミデ」序曲
  ヴェルディ 歌劇「アイダー」より凱旋行進曲

  冒頭の曲(ベートーヴェンのバレエ音楽は珍しい)以外は、すべて歌劇の曲である。必然的に劇的(ドラマッチック)な構成の曲が多い。前回は「白鳥の湖」から抜粋されたいくつかの曲を聴いて、ぜひバレエ音楽をバレエと切り離されていない状態で聴いてみたいと思い、それから2週間後の牧阿佐美バレエ団の公演(眠れる森の美女)に出かけていったわけだが、歌劇の曲の場合は、バレエの曲と比べて、音楽作品としての独立性が高いように感じられる。私は歌劇の公演に出かけて行ったことがないので、まったくの憶測でしかないわけだが、歌劇の曲は歌手の歌声なしでも十分にやっていける。別の言い方をすると、10月8日に新国立劇場で歌劇「タンホイザー」全3幕があるのだが、今日の「タンポイザー」序曲を聴いてもそれに行こうという気持ちは起こらない。もっとも、ここには歌劇のチケットは高いという別の要因も働いてはいるとは思う。牧阿佐美バレエ団の公演チケットは一番いい席でも1万円前後だが、10月8日の「タンホイザー」を一番いい席で観よう(聴こう)と思ったら2万5千円も出さねばならないのである。だから、歌劇の曲は独立性が高い云々という私の感想は、「すっぱい葡萄」の心理が働いたものかもしれない。
  帰りの地下鉄の車内から、今日の最後の曲でトランペットを吹いていたO君(私の演習の学生である)にメールを打つ。彼の演奏そのものももちろんよかったが、私が感心したのは、彼がトランペットを吹いて「いない」ときの姿勢である。毅然として凛々しかった。トランペット奏者は何人もいたが、彼はその姿勢において、一段秀でていた。音を出していないときの奏者はレコードやCDでは存在していないのと同じであるが、演奏会ではそうではない。演奏会では視覚も大切なのだ。