フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月9日(日) 晴れ

2007-09-10 03:06:37 | Weblog
  午後、儚組第3回公演「カンブリアン・ブルー」の千秋楽を観に行く。2回目、それも昨日の今日だから、自然と芝居の細部に目が行く。時間的・空間的に複雑な物語の構造もよくわかった。もっとも、そうした分析的な見方ができるようになったからといって、舞台から受ける感動のレベルが高くなるわけではない。ある場面を見ながら、次の場面への展開がわかっている分だけ、ハッとすることは少なくなる(なくなるわけではないのは、最初に観たときは気づかなかったことに気づいてハッとするからである)。気に入った映画を繰り返し観るのに似ていなくはないが、舞台の場合はその都度ライブであるから、一期一会的な面白さがある。船から海に落とされたカメラマンを襲うのは、昨日は大王イカであったが、今日は鮫であった。これは脚本の手直しというより、一種の遊びであろう(この遊びを面白がれる観客は昨日と今日両方の舞台を観た私くらいのものだろう)。昨日は台詞を噛んでいた役者が今日はなめらかだったり、その逆もあった。昨日はフロアーの左サイドの席から観たのだが、今日は中央の席で観た。だから舞台の全体をまんべんなく眺めることができたと思う。舞台左手で分子生物学の女性学者がカンブリアン爆発という現象について滔々と説明している間、舞台の右端で秘書が黙々とストレッチをしているのは昨日はまったく気付かなかった(目の前の女性学者を注目していたので)。
  ちなみにこの秘書を演じているが私の娘なのだが、秘書の終始テンションの高い台詞回しには、身内だからということを差し引いても、違和感があった。本来、年輩の女性学者のテンションの高い語り口と、若い秘書のクールな語り口が対比されるのところに面白さがあるはずで、それが稽古の過程で両方ともテンションの高い語り口になったは、穏やかな口調で台詞を言って存在感を示せるだけの力量がまだ娘にはないからだろう。小さな声では目立たないから大きな声を出す、普通の口調では目立たないからエキセントリックな口調でやるというのは、手っ取り早い処方箋だが、力量のある役者はつぶやくように語っても存在感を示せるものである。これが今回の舞台を観て思った娘の課題。基礎的な訓練を飽きずに反復することは、どんな場合も上達のためのポイントで、役者の場合、それは発声の練習であろう。精進して下さい。
  芝居が終わり、劇場を出たのが午後3時半。よく晴れた気持ちのよい日だ。急いで帰る理由はない。日向は暑いが、ビルが作る日陰をたどりながら、目白から早稲田、早稲田から神楽坂まで歩く(途中、コンビニでガリガリ君を買い求めて歩きながら囓る)。気持ちのよい疲れを感じつつ、神楽坂から地下鉄に乗った。