フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

11月2日(月) 晴れ

2009-11-03 01:51:06 | Weblog

  8時半、起床。大根の味噌汁に卵を落として半熟にしてご飯の朝食。今日は月曜日で授業も会議もないのだが、事務所に用事があって、午前中から大学へ。研究室で、来年度の新規非常勤の先生方の嘱任の手続きのための書類一式を作成し、事務所に提出する。本当は今日中に全員分を作成・提出し、スッキリしたかったのだが、必要な書類をまだ送ってきてくれていない方が何人かいて、積み残しとなった。
  銀座テアトルシネマで森田芳光監督の『わたし出すわ』を観る。舞台は函館。東京から故郷に帰ってきたマヤ(小雪)が高校時代の同級生5人(男3人、女2人)を訪ねて彼らが必要としていることのために気前よく資金援助を申し出る。なぜそんなことをしてくれるのか、そのお金はどうしたのか、彼らの当然の質問に彼女はみんなが納得のいく説明はしない。しかし同級生たちは彼女の好意を甘んじて受ける。その結果、悲喜こもごもの影響が彼らの人生に生じる。映画のテーマは「お金と幸福」である。資本主義社会における古典的なテーマである。『わたし出すわ』では、お金が手に入ったことで幸福になることもあれば、逆に、不幸になることもある、という至極当たり前のことが語られている。その分かれ目はどこにあるのか。その人の人間性・人生観にかかっている。これも至極当たり前のことである。つまり『わたし出すわ』は常識的なことが非日常的な状況の中で描かれる作品なのである。
  主演の小雪はこの非日常的な状況をかもし出すのに最適な女優である。彼女は大変美しく、とても知的であり、おまけに笑顔が優しい。この3つの条件のいずれかを備えた女性はたくさんいる。3つの条件の任意の2つを兼ね備えた女性も珍しくはない。しかし、3つの条件のすべてを同時に満たす女性はめったにいない。そのこと自体が非日常的なのだ。
  しかし、小雪とて最初からそうであったわけではない。小雪は一日にしてならず。私がはじめて彼女を見たのは、1998年春のテレビドラマ「恋はあせらず」(主演は織田裕二)であった。ハッとするほど美しかったが、それだけだった。ハリソン・フォード主演の映画『ブレードランナー』でレプリカントの女を演じたショーン・ヤングに似ていた。その彼女が、知的なものごしと優しい笑顔を身につけ、いまの小雪になったのは、2004年冬のドラマ「僕と彼女と彼女の生きる道」(主演は草剛)においてである。ときに小雪27歳であった。
  『わたし出すわ』は小雪のための作品である。小雪的世界に浸るための作品である。だから人に無闇に勧めることはしない。ちなみに小雪の本名は加藤小雪という。世俗的な苗字から切り離されたことは彼女にとって幸いであった。

  帰路、有隣堂で以下の本を購入。

  成田龍一『戦後思想家としての司馬遼太郎』(筑摩書房)
  津野海太郎『したくないことはしない 植草甚一の青春』(新潮社)
  『加藤周一自選集2』(岩波書店)
  ポール・オースター(柴田元幸訳)『ガラスの街』(新潮社)