8時、起床。目玉焼き、トースト、牛乳の朝食。10時から歯科の予約を入れていて・・・というのは勘違いで、予約は金曜日だった。なんかだ時間を得した気分で読書。昼から大学へ。
数日前から、急に寒くなったので、少し厚手のズボンを穿いている。それから少し厚手のシャツに、少し厚手の上着。晩秋から初冬にかけてはこれでいい。本当に厚手のズボン、厚手のシャツ、厚手の上着を着るのはもう少し先だ。でも、問題は研究室が寒いこと。今日は午後1時から6時までずっと学生の面談(7人)で研究室にいた。身体が冷える、冷える。まるで保冷室の中にいるようである。途中から電気ストーブで足元を温める。
生協の書店で以下の本を購入。
ジグムント・バウマン『幸福論〝生きづらい〟時代の社会学』(作品社)
宮台真司、辻泉、岡井崇之『「男らしさ」の快楽 ポピュラー文化からみたその実態』(勁草書房)
山田昌弘さんが『幸福論』の解説の中で言っているが、バウマンとギデンズは、後期近代(1980年代以降)の評価において対照的である(ベックは両者の中間に位置する)。
「近代社会になってアイデンティティを「作品」のように自分で構築しなくてはならなくなったことを述べたのはギデンズであり、それを従来の強制的に与えられたアイデンティティからの解放というプラスの側面として描く。それに対して、バウマンは、自分で「人生という作品」を構築しなければならない側面として強調する。それも、職業的アイデンティティにしろ、家族的アイデンティティにしろ、一度構築したら安定的に存続できた固定的近代の時代なら、著名なアメリカの心理学者エリクソンが言うような一回きりの青春時代の危機ですむ。しかし、液状化している近代Ⅱでは、アイデンティティは作ったそばから解体される運命にある。それでも、人は、アイデンティティを作り続けなくてはならない。まるで、地獄の石積みのようである。/このように、制度的束縛から解放された愛情、自分で構築できるアイデンティティなど、近代において当然のように賞賛される価値(多分、ギデンズによっても肯定される価値)が、近代に生きる人々に、いかに苦難を生み出すかを明らかにしていくのがバウマンの特徴である。/そして、本書において、「幸福の追求」というこれこそ誰も疑いようのない価値が遡上に載せられる。近代社会は、幸福を追求することを強制される社会となった。しかし、幸福追求が消費社会と結びつくとき、それが一般の人々にとって、かえって幸福からの乖離をもたらしてしまう。端的に言えば、本書は、「幸福を追求することの不幸」のメカニズムについての考察なのである。」(269-270頁)
実は、来年度、私は演習「現代人のアイデンティティの心理」(今年度、織田先生がご担当の科目)を引き継ぐ予定なのだが、そこでは、ギデンズ流のアイデンティティ論とバウマン流のアイデンティティ論を比較検討しながら、オルタナティブなアイデンティティ論(それがアイデンティティ論なのか脱アイデンティティ論なのかはひとまずおくとして)を模索してみようと考えている。本書はその演習のテキストの1冊にたぶんなるだろう。
数日前から、急に寒くなったので、少し厚手のズボンを穿いている。それから少し厚手のシャツに、少し厚手の上着。晩秋から初冬にかけてはこれでいい。本当に厚手のズボン、厚手のシャツ、厚手の上着を着るのはもう少し先だ。でも、問題は研究室が寒いこと。今日は午後1時から6時までずっと学生の面談(7人)で研究室にいた。身体が冷える、冷える。まるで保冷室の中にいるようである。途中から電気ストーブで足元を温める。
生協の書店で以下の本を購入。
ジグムント・バウマン『幸福論〝生きづらい〟時代の社会学』(作品社)
宮台真司、辻泉、岡井崇之『「男らしさ」の快楽 ポピュラー文化からみたその実態』(勁草書房)
山田昌弘さんが『幸福論』の解説の中で言っているが、バウマンとギデンズは、後期近代(1980年代以降)の評価において対照的である(ベックは両者の中間に位置する)。
「近代社会になってアイデンティティを「作品」のように自分で構築しなくてはならなくなったことを述べたのはギデンズであり、それを従来の強制的に与えられたアイデンティティからの解放というプラスの側面として描く。それに対して、バウマンは、自分で「人生という作品」を構築しなければならない側面として強調する。それも、職業的アイデンティティにしろ、家族的アイデンティティにしろ、一度構築したら安定的に存続できた固定的近代の時代なら、著名なアメリカの心理学者エリクソンが言うような一回きりの青春時代の危機ですむ。しかし、液状化している近代Ⅱでは、アイデンティティは作ったそばから解体される運命にある。それでも、人は、アイデンティティを作り続けなくてはならない。まるで、地獄の石積みのようである。/このように、制度的束縛から解放された愛情、自分で構築できるアイデンティティなど、近代において当然のように賞賛される価値(多分、ギデンズによっても肯定される価値)が、近代に生きる人々に、いかに苦難を生み出すかを明らかにしていくのがバウマンの特徴である。/そして、本書において、「幸福の追求」というこれこそ誰も疑いようのない価値が遡上に載せられる。近代社会は、幸福を追求することを強制される社会となった。しかし、幸福追求が消費社会と結びつくとき、それが一般の人々にとって、かえって幸福からの乖離をもたらしてしまう。端的に言えば、本書は、「幸福を追求することの不幸」のメカニズムについての考察なのである。」(269-270頁)
実は、来年度、私は演習「現代人のアイデンティティの心理」(今年度、織田先生がご担当の科目)を引き継ぐ予定なのだが、そこでは、ギデンズ流のアイデンティティ論とバウマン流のアイデンティティ論を比較検討しながら、オルタナティブなアイデンティティ論(それがアイデンティティ論なのか脱アイデンティティ論なのかはひとまずおくとして)を模索してみようと考えている。本書はその演習のテキストの1冊にたぶんなるだろう。