フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月11日(土) 晴れ

2010-09-12 09:28:12 | Weblog

  8時、起床。今日は昨日よりいくらか暑い。シャワーを浴びる。焼肉、レタス、トースト、オレンジジュースの朝食。

  朝刊を広げて、谷啓さんが亡くなったことを知る。自宅の階段から落ちての脳挫傷だった。不謹慎なので口には出さなかったが、「ガチョーン」と胸の中で思わず言ってしまった。子どもの頃、ハナ肇とクレージーキャッツが大好きだった。「大人のまんが」という10分枠の時事コントを毎日お昼頃にやっていた(当時は生放送だった)。小学生だった私は、平日は観ることは出来なかったが、土曜日は学校から帰って、お昼を食べながら必ず観ていた。漫才や落語とは違う、都会的なセンスの笑いというものがそこにはあった。俳優としての谷啓さんといえば、是枝裕和監督の映画『ワンダフルライフ』(私はこの作品を「ライフストーリーの社会学」の授業の初回で教材として使っている)の中で、この世とあの世の間にある或る施設の所長の役が印象に残っている。その施設に死者たちは1週間滞在し、その間に、人生で最良の思い出は何であったかを決めるのである。いま、谷啓さんはその施設に着いたところだろうか。初回の面接はもう始まっているだろうか。面接官から名前を聞かれ、「谷だ」と答えるのだろうか。私がそんなことを考えているとき、傍らにいた妻が新聞記事を見て、「ガチョーン」と声に出して言った。

  昼食はテイクアウトの寿司。昼寝をしてからジムへ行く。筋トレ2セットと有酸素運動35分。チェストプレスとバタフライの負荷を一段階上げる。20回はきつい。とりあえず15回いけばよしとする。
  ジムの帰り、「緑のコーヒー豆」に寄って一服。上田紀行『生きる意味』(岩波新書)を読む。

  「右肩上がりの時代、それは自分自身の個別の「生きる意味」を深く追い求めなくてもひとまずは幸せにやっていける時代だった。いまから考えれば冗談のように思えることだが、会社員なら自分の飲んでいるウィスキーで人生における現在地が分かってしまうような時代があった。貧乏学生の時代はレッドを飲み、新入社員になればトリス、角瓶を飲むころには「俺もいっぱしのサラリーマンになったなぁ」との感慨に浸り、それがオールドになればもうかなりの地位で、その勘定も交際費で落とせるかもしれない。リザーブが飲めるようになればもうキャリアの完成も近い。そして充実した会社生活を終え、悠々自適の年金生活の中で、楽しみに取っておいたジョニッ黒やらを取り出し、チビチビとやる。何と幸せな人生! 自分の「生きる意味」など自分自身で考えなくても、人生を真面目になってさえいれば、社会のほうからそれなりに安定し、充実した人生のプランを用意してくれていたのだ。」(21-22頁)

  よく出来た話だ。私はアルコールが飲めないので、リアリティには欠けるが、いわんとしていることはわかる。世間一般に認められたウィスキーの序列があり、立身出世とウィスキーの序列が呼応しているということだ。甘味に翻訳すれば、コンビニで売っているスイーツから始まって、「甘味あらい」の贅沢あんみつに至る階段ということになる(違うか?)。
  年齢層別の女性雑誌はその年齢層にふさわしい人生の意味(物語)を読者に提供している。加齢に伴って読む雑誌を替えていけばよいわけだ。その一方で、そうした生きる意味のお仕着せではなく、オーダーメードの生きる意味が求められてもいる。しかし、「自分が本当にほしいもの」などそう簡単にはわからない。自分がほしいと思っているものと、他人がほしいと思っているものの峻別は難しい。他者の欲求を自分の欲求として生きる生き方が子どもの頃から身についてしまっているからだ。「自分が本当にほしいもの」という観念は、容易に、「本当の自分」という観念と結びつき、「本当の自分とはなんだろう」という思考の迷宮に人を引きずりこむ。その迷宮から抜け出すことは自分ひとりでは困難である。どんな力持ちも外部の支点なくしては自分で自分の身体を持ち上げることはできない。ここで「外部の支点」に相当するものは他者である。自分に関心をもってくれてはいるが、「他者性のない他者」(自分の思い通りになる他者)ではない、他者らしい他者である。