8時半、起床。残暑がぶり返している気配がする。目玉焼き、ベーコン、レタス、トースト、オレンジジュースの朝食。
11時過ぎに妻と家を出る。娘の芝居を観に西荻窪まで行く。劇団獣の仕業第三回公演「雷魚、青街灯、暗闇坂、あるいはうしなわれたものたち」(於・西荻窪遊空間がざびい)。
海とともに・潮のにおいの染みる小さな町
その町の外れには低い崖・崖の奥には深い森が、
その崖と森の緩やかに変わる境目に・ひっそりとその図書館は建っていた
来週取り壊しとなるそこには壁一面の本棚・アップライトの古ピアノ
老いた男は静かにページを開き、遠くの青い島でのある青年たちの物語を語り始める
「おれ・ともだち・を・ころして・しまったよ」
*パンフレットより
『雷魚、青街灯、暗闇坂、あるいはうしなわれたものたち』というのは老人が手にしている本のタイトルである。語られるのはある殺人の追憶。しかし、ストーリーはわかりずらい。それはいつものことだ。舞台は暗転することなく、さまざまな場面が、時間の順序とは関係なく、息継ぐ間もなく繰り広げられる。人物(雷魚や犬を含む)同士の関係も明瞭ではない。ストーリーは解体され、ギクシャクした形に再編集され、観客に提示される。観客は人物同士の関係やストーリーをそこから読みとろうとするが、それはかなり骨の折れる作業で、たいていの観客は途中でその作業を放棄する。ストーリーを辿る作業を放棄した観客が、もし居眠りを始めれば、不毛な出会いでしかなかったことになるが、今日の舞台にはそうはさせない力があった。語りの力、身体の動きの力、音響の力、照明の力、それらの諸力が綿密な計算の下に見事に合成されて、舞台空間は最後まで尋常でない緊張感に満たされていた。確かにストーリーは少々わかりずらい。しかし寝てなんかいられない。そういう舞台だった。ストーリーに依存しない総合芸術としての演劇を大いに堪能した。なお、ストーリーは芝居の終盤で明らかになる仕掛けになっている。
役者は7人。おなじみの役者にまじって、新顔が2人、菊地綵有と胡桃ヨウ。2人とも個性があり、これからの活躍が楽しみだ。
娘は今回は役者としての出演はなく、脚本と演出を担当していたが、おそらく利賀村で鈴木忠志の稽古風景を間近に見る機会をもったことが、直接・間接に今回の作品に影響を与えているように感じられた。