7時半、起床。
トースト、目玉焼き、サラダ、紅茶の朝食。
午前中は原稿書き。
昼から神楽坂へ。夏の陽気である。
「SKIPA」で「いろは句会」(第16回)。
本日の参加者は主宰の紀本さん以下、蚕豆さん、恵美子さん、低郎さん、明子さん、こかよさん、餃子家さん(小原さん改め)、あゆみさん、私の9名である。
恵美子さんだけがカメラ目線である。これは私に青木繁の名作「海の幸」を連想させる。
後ろから4人目、顔を白塗りにした人物(たぶん唯一の女性)だけがこちらを見ている。
9名×3句=27句が書かれた(作者名は書かれていない)紙が配られる。
いつもは一人が3句ずつ選ぶ(天=5点、地=3点、人=1点の順序を付けて)のだが、いつもより作品が多いので順位付なして一人5句ないし6句を選ぶことにしましょうかと紀本さんが提案した。主宰の提案だから従ってもいいのだが、ちょっと違和感があったので、いつも通りでよいのではないでしょうかと私は異見を述べた。おそらく紀本さんは入選作なし(ボウズという)の人が出るリスクを小さくしたかったのだと思うが、入選作のインフレは句会のいい意味での緊張感を薄れさせるように思えた。また、選考において順位付をしないというのも、作品を吟味する力を脆弱なものにするように思えた。句会において問われるのは作品の出来だけでなく、作品を選び、それにどういう順位を付けるのかという、選者の鑑賞眼でもあるからだ。
結局、いつも通りでいくことになった。(結果的に今日はボウズの人はいなかった)
いつもであれば、紀本さんが全作品を読み上げるのだが、今日はそれがなかなか始まらなかった。読み間違いのないように辞書で読みを確認しているためだが、その間に各自が黙読で作品に目を通すことになった。次回からメールで投句の際に「読み」(オール平仮名)も付けるようにしたらどうだろう。
私は次の3句を選んだ。
天 蒲鉾のピンクみたいな春来る
一見、子どもが作った俳句みたいだが、そうではないことは「春が来た」ではなく「春来(きた)る」と文語調になっていることからわかる(そもそも出席者の中に子どもはいない)。童心をもった大人の女(たぶん)の俳句である。ポイントは「蒲鉾のピンクみたいな」であることは言うまでもない。蒲鉾の色のことはみんな知っているが、それを「春」と結びつけたところがお手柄である。「AみたいなB」つまり比喩表現というのは「A」と「B」があまりにかけ離れすぎていても技巧が鼻についてしまうのだが、「蒲鉾のピンク」と「春」は「そうか、言われてみれば」という感じで受け入れられる。「ピンクみたいな」という軽い(やや軽薄な)表現も肝心なところで、たとえば「蒲鉾の薄紅色の」では童心が失われてしまう。はたしてそいうところまで計算に入れた作品なのか、たんに天然なのかはわからないが、今回はこれを天として選んだ。
地 波うちて原画タッチの夏木立
実は私も「夏木立」という好きな季語で句を作りたかったのだが、うまくいかずに諦めたので、この作品には「やられた」と思った。「原画タッチ」というのはどんなタッチなのかはよくわからないのだが(〈劇画タッチ」というのなら分かるが)、「原」は今回の兼題であり、「タッチ」は「木立」と韻を踏んでいるので、よしとしよう。あのゴッホが描いた糸杉みたいに油絵絵具がキャンバスでうねっている感じがする。その感じは「原画タッチ」に由来するというよりも、「波うちて」の効果だと思う。
人 春雷のつらぬく夜はなお深く
「夜が深い(深まる」という感覚は一般には秋の感覚なのだが(「秋の夜長」という)、それを「春雷」という「ほのぼのとした春」のイメージからは外れた激しい季語をもってくることで春の夜にも当てはめたところがこの句の魅力である。たしかに春の夜だからといって、誰もがほのぼのしているわけではない。そこには苦悩もあり、激情もあるだろう。人生の句だと思った。
各自が自分の選んだ3句を発表していく。選考=集計結果は以下の通り(複数の人が選んだ上位作)。
14点(特選) 波うちて原画タッチの夏木立 あゆみ
蚕豆さんと恵美子さんが「天」、私が「地」、餃子家さんが「人」を付けた。(感想はすでに述べた)
11点 風薫るスープカレーの長い列 紀本直美
明子さんと低郎さんが「天」、あゆみさんが「人」を付けた。初夏の都会のビジネス街のお昼時の風景である。「風薫る」中にスープカレーの「香り」も重なっている。スープカレーのようにさらさらとした味わいの句である。
9点 ひとつずつ豆らしくいる空豆かな 恵美子
あゆみさんが「天」、蚕豆さんが「地」、明子さんが「人」を付けた。目の前の空豆を即物的に詠んだ句である。豆なのだから「豆らしく」というのは変な言い方なのだが、われわれが豆に対して持っている「豆らしさ」のイメージを具現しているということだろう。なにやら悟りの境地のような雰囲気も漂っていて、その意味では、寺の住職であった尾崎放哉や漂泊の俳人種田山頭火の句を思わせるところもある(彼らなら「いる」ではなく「おる」とすると思うが)。残念なのは「かな」の使い方が無造作である点。もちろん本人は切れ字の「かな」のつもりであろうが、紀本さんは読み上げのとき「・・・かな?」の疑問の「かな」の調子で読んだ。そういう誤解を招いてしまうことろがある。「空豆かな」では字余りで、しかもその破調が何かしらの効果をもたらしているということはない。「いっそのこと「かな」はないほうがいい」と蚕豆さんが言ったが、私も同感である。そうした欠陥にもかかわらず蚕豆さんが「地」を付けたのはおそらく「豆」の仲間意識だろう(笑)。
8点 蒲鉾のピンクみたいな春来る 明子
私が「天」、紀本さんが「地」を付けた。(感想はすでに述べた)
7点 こどもの日「期間従業員募集」 蚕豆
低郎さんが「天」、恵美子さんと紀本さんが「人」を付けた。俳句の技法のひとつに「言葉の取り合わせ」というのがある。「AとB」の言葉のコントラストで「ハッ」とさせるのである。ここでは、「こどもの日」という夢のある言葉と街角に貼られた(あるいは新聞の求人広告の)「期間従業員募集」という厳しい労働市場の現実を感じさせる言葉のコントラストである。いま、被雇用者の5人に2人が非正規雇用の時代である。大人が子どもに「大きくなったらなんになる?」と質問して、子どもが「正社員になりたい」と答える時代が来るかもしれない。
6点 薔薇の海溺れ纏うや様式美 低郎
餃子屋さんが「天」、あゆみさんが「人」を付けた。何やら画数の多い漢字が多用されているなと思ったら、作者曰く、「画数の多い漢字を使ってみたかった」とのこと。な、なるほどね・・・。「歌舞伎」という言葉は「かぶく」=「変わった格好をする」に由来するそうだが、低郎さんの句は「傾奇者(かぶきもの)」の句である。もしかしたら前衛的なのかもしれないが、私にはわかりません(笑)。
選評が終わったところで食事にする。
次回は7月24日(日)。兼題は「味」(あゆみさん出題)。
2時半ごろ散会。
蒲田に着いて、東急の「くまざわ書店」で、片岡義男『と、彼女は言った』(講談社)を購入。
帰宅してさっそく冒頭の「おでんの卵を半分こ」を読んだ。片岡義男は1940年生まれだから今年で76歳のはずだが、「ほんとかよ?!」という感じである。
夕食はすき焼き。なんらかの理由がないとわが家ですき焼きが食卓に出ることはないが、今回は名古屋にいる息子が出張で東京に出てきたからである。
デザートは今年最初のスイカである。