8時、起床。
トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
9時に家を出て、大学へ。今日も秋晴れである。
明日、明後日の二日間、戸山キャンパスで日本家族社会学会の大会が開かれる。今日はスタッフ(実行委員)およびアルバイトの大学院生でその会場の設営を行う。
10時からスタッフ打ち合わせ。
昼食は「五郎八」で天丼とせいろのセット。
「たかはし」の向かいはいまや大学街でも絶滅危惧種となった雀荘「早苗」だったが、それがリニューアルされていた。1階がカフェ・バーで、2階が雀荘だ。カフェは普通のカフェなのだろうか。それとも雀荘併設ということで、「チーズケーキ」とか「フルーツポンチ」とか「ウーロン茶」とか「ドラ焼き」とか麻雀にちなんだメニューなのだろうか(まさかね)。
12時半からアルバイトの院生も交えての作業マニュアルの最終確認。
その後、各パートごとに作業に入る。
5時半ごろ作業を終了し、今日は解散。
私は今夜これから用事がある。明日、明後日と娘が出演する芝居があるのだが、ぴったり学会大会日程とかぶてってしまい観に行くことができない。これまで娘の芝居(女優として出演するもの、脚本・演出を手掛けたもの)はほぼすべて観てきたので、残念と思っていたら、前夜の通し稽古を見せて観せてもらえることになったのである。
場所は西武新宿線新井薬師前駅から徒歩3分の「スペシャルカラーズ」。大学からは30分かからずに着ける。
妻と新井薬師前駅で6時に待ち合わせ、見物の前にどこかで夕食をとることにする。
「豊年屋」という蕎麦屋に入る。
入って右手に小上がりがある。蕎麦屋としてのあるべき構えである。
ミニカツ丼とかけうどんのセットを注文。うどんの汁の色の濃さに江戸っ子ながらたじろいだが、味はみかけほど濃くはない。
カツ丼は「ミニ」なのでもっと小ぶりかと思っていたらが、肉厚のしっかりしたカツ丼だった。ごま油を使って揚げているのだろう、香ばしい匂いがする。汁も卵の綴じ加減もよいおいしいカツ丼だった。
通し稽古は7時開始とのこと。あと10分ほどである。
「スペシャルカラーズ」は地下にある。
入口を入ると、そこはカフェスペースになっていて、左手に舞台と客席がある。
今回の芝居『蛍』は、脚本・演出が左観哉子、出演は立夏、きえる、小林龍二である。
公演パンフレットにはこう書かれている。
「この夢がいつまで続くのか。これは悪夢なのか、ちがうのか、わたしたちにはわからない。ただ、ただ夜が、・・・夜が明けないことだけを祈っていた・・・。」
舞台はある港町。元々その町の住人なのか、あるいは別の街から駆け落ちをするように移り住んだのか、若い男女が暮らしていた。二人は幸せだった。しかし、ある晩、事故で女は岸壁から海に落ちて死んだ。男は悲しみ、毎日、女の思い出と(あるいは女の霊と)寄り添って、生きるようになった。いや、生きているのか、死んでいるのか、わかならいような毎日を送っていた。現実から離れ、彼にとっての追憶と虚構の世界で生きていた。ある日、別の女が港町に流れ着くようにやってくる。震災で家族全員を失い、一人きりになった女だった。女は男に語りかける。女は男と新しい人生を始めることを望む。男は逡巡し、苦悩する。死んだ女(の霊)、男、女がそれぞれに思いを語る。どれほどの時間が経過したのかはわからない。男は失われた世界から新しい世界への歩みを始める。
あの震災の年の秋の公演『灰』以来、左観哉子はわれわれの存在論的な不安や絶望とそこからの再生の希望や祈りをテーマとして芝居を書いてきた。それ以前の彼女の書く芝居は、家族や男女の情念のありようをジグソーパズルのような場面展開で、最初は物語の全貌がなかなかわかりにくく、観客に緊張の持続を強いながら、あたかもサスペンスのようにしだいしだいにそれが見えてくる(そこにはカタルシスが伴う)というようなスタイルのものだった。
それが『灰』以後は、抽象的ではあるが、決して難解ではない構成に変貌してきた。それは芝居のもつメッセージをストレートに、力強く、伝えるためには有効な方法である。今回の『蛍』の構成もシンプルであり、「何を言おうとしているのかわからない」というような感想は生まれようがないだろう。もちろんただメッセージを文字にするだけでは表現芸術としては不十分である。小説家だって、メッセージだけを書けば数行で済んでしまうような物語を、何頁も費やして小説に仕上げるのは、骨と皮だけのメッセージよりも豊かな肉体を伴ったメッセージの方が味わい深く読み手の胸に届くからであろう。
一時期、左観哉子は朗読劇の方向に向かいそうな気配があった。少し焦っているのではないか、気持ちにゆとりがないのでないか、と私は思った。しかし、今回の『蛍』は、物語の構成はシンプルであるが、舞台芸術としての芝居の諸要素(台詞、身体所作、衣装、舞台空間、照明、音楽)を総動員して、奥行きのある美しい作品に仕上がっていた。
今回出演した3人の役者についていえば、死んだ女(立夏)と震災で家族を亡くした女(きえる)はそれぞれに強い引力をもった演技で、これがもし引力に大きな差があれば、男は引きこもったまま動かないか、簡単に一方から他方に動くかで、物語が展開しないか、あっさり展開してものたりなくなる。男(小林龍二)は死んだ女を忘れられず、しかし、新しい女にも心を開ていくという、下手をすると「男ってそういうものよね」というふうになる恐れのあるところを、そういうふうになることを回避しながらの演技を見せてくれた。
観客は私と妻の二人だけ。贅沢な時間だった。ありがとうございました。
10時頃、帰宅。