フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月26日(月) 晴れ

2024-02-27 10:46:25 | Weblog

8時、起床。

チーズトースト、ソーセージ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。目玉焼きを抜いたのは体重コントロールのため。キロ単位の体重コントロールは大変だが、100グラム単位の体重コントロールは容易である。そのために毎朝、体重計に乗っているのである。

9時20分に家を出る。東口のバス停(3番乗り場)から9時30分に出るバスに乗るためである。

南蒲田二丁目のバス停で降りて、東京蒲田医療センターに行く。術前の検査のためである。採尿、採血、心電図、心エコー(これが一番時間がかかった)、肺活量、胸部・腹部レントゲンの順序で、それほど待ち時間もなく、1時間ほどで終わる。今日は検査のみ(8750円)。

電車と違ってバスは時刻表通りには来ない。時刻表では11時8分のバスだが、やってきたのは11時15分頃。10分ほど待った。晴れているが、風は冷たい。

帰宅せずに、その足で大学へ。「たかはし」で昼食をとる。

煮魚(銀むつ)定食にする。

大根がいい。

支払いのとき千円札を出したのだが、女将さんとの間で妙な間ができてしまった。煮魚定食はめったに注文しないので、千円札でお釣りがくると勘違いしていたのだ(笑)。

スロープのところで千野先生(中国語・中国文学コース)と立ち話。先生は私より一年早く定年退職される。同年配だろうと思ってはいたが、はっきりとお互いの年齢を知っているわけではない。最終講義の立て看板に先生の名前を見て、わたしより一つ年上であることを知ったのである。

千野先生の最終講義「文学研究を超えて」は3月9日(土)の15時5分から16時45分(4限の時間である)、36号館581教室で。

ゼミ論集の印刷・製本の業者の人が来て、データを渡し、表紙の色決めをする。バックナンバーはすべて違う色である。

現代人間論系の同僚の村松先生から新著をいただく。『つなわたりの倫理学ー相対主義・普遍主義を超えて』(角川新書)。「つなわたり」というタイトルは面白い。「危なっかしい」という意味ではなく、「バランスが大切」の意味だろう(たぶん)。とすれば、私の常々考えている、液状化した社会におけるライフスタイルに通じるものがある。

こんな書き出しで始まる。

 「倫理学ときくと、「しなければならない」あるいは「してはならない」と考えたくなるが、倫理思想の長い歴史のうちでこれはあまりまえの発想ではない。その発端において、倫理は「しなければならない」ことを意味したわけではなかった。「したい」ことを探そうとしていた。現代の問題に即して言えば、たとえばヒト・クローン問題で、「ヒト・クローンを作っていいのか、あるいは作ってはならないのか」を考えたのではなく、「ヒト・クローンを私たちは本当に作りたいのか」を問うていた。
 「したい」倫理を決定的に覆して、近現代の「しなければならない」倫理観を作り上げたのは近代思想に決定的な影響を与えたカントであり、カント以降、すべきか、すべきでないか、を問う倫理が定着してしまった。義務倫理が倫理思想の中核に座るようになった。
 この章では、倫理思想の発端にある古代ギリシャの倫理観へ立ち返って、「しなければならない」倫理ではなく、「したい倫理」への転換、原点回帰をはかりたい。そこから私たちが忘れている大きな問題、自愛についても焦点を当てたいと思っている。」

 面白い、と思った。そう思ったのは、テーマそのものが面白いのはもちろんだが、現代人間論系の同僚である御子柴先生がカント研究の専門家であるからだ。これは面白いことになってきた(笑)。

 夕方まで研究室で仕事。5時に大学を出る。この時間を過ぎると、電車で座って本(キンドル)を読むことが難しくなる。

6時、帰宅。夕食まで仕事の続き。

夕食はジャーマンポテト。

食事をしながら『さよならマエストロ』(録画)を観る。

『つなわたりの倫理学』のキンドル本を購入する。読むのはこちらで。いただいた紙の本は読みたい学生がいればさしあげますよ。本は天下の回りもの。

『村上RADIO』をタイムフリーで聴きながら今日のブログを書く。

風呂から出て、劇団獣の仕業の『サロメ』脚色・演出をした立夏が舞台裏の話をするのをSNS(Xのスペースの録音)で聴きながら、今日の日記を付ける。長いので(約2時間)途中までしか聞けなかったが、これってラジコみたいに中断したところから再開できるのかしら。

2時、就寝。