7時、起床。ブログの更新。昨日の現代人間論系卒業パーティーの写真をアップする。
9時半に家を出て、大学へ。10時半から人事審査委員会(合同)。引き続き12時から人事委員会。
会議を終えて、カフェテリアで開催中の卒業一周年のパーティーに顔を出す。これは震災で卒業式が中止となった去年の卒業生のためのパーティー。約100人の文・文構・一文・二文の卒業生が来てくれた。
2時半から学部の卒業証書授与式。現代人間論系ではゼミごとに担当の教員から卒業証書を手渡す方式。私もゼミ生17名一人一人に卒業証書を読み上げて(「以下同文」の省略はしないで)手渡す。その後、建物(39号館)の外に出て、全員揃っての記念撮影。
大久保ゼミ
大久保ゼミ5人衆
中原君、じっとしていなさい!
あれこれの儀式を終えて、教務室に戻る。さきほどまでの喧騒が嘘のような静けさ。祭りの後の寂しさのようなものがジワリとこみ上げてくる。明日はそれがさらに増すことだろう。だが、少しすればまた新しい学生たちとの騒がしい日々が始まる。だから束の間の寂しさに浸るのも悪くはあるまい。出会いと別れの繰り返し、それが教師という仕事だ。
5時に研究室に去年のゼミの卒業生たちがやってきた。教師という仕事は出会いと別れの繰り返しだが、もうひとつ、再会ということがある。もし出会って別れて、それっきりということであれば、それはそれで潔いといえないこともないが、空虚な思いはぬぐえないだろう。再会は教師の人生を重層的かつ動的なものにしてくれる。
今年度の卒業生がひとり混じっています。
焼肉屋「ホドリ」で食事をし、「カフェゴトー」でお茶をした。彼女たちのおしゃべりは仕事と恋愛を2大要素とする。仕事に関しては私も何がしかの発言ができるが、恋愛に関しては聞き役に回るほかはない。ときおり、「先生、どう思います?」と質問されるが、「わからないな」と答える。『最後から二番目の恋』の最終回で、和平(中井貴一)が千明(小泉今日子)にこんなことを言っていた。
「齢をとっても、何もわかってるわけじゃない・・・・むしろ、どんどんわかんなくなってるような気がします・・・・特に恋とか女性はわからない・・・わかったつもりでいたことが、齢をとると、わからなくなってくる・・・・でも、わかったふりはしていたい・・・・わかったようなことはいいたい・・・・何なんだろうな」
大人一般もそうなのだろうが、とくに教師には「わかったようなことを言う」癖があるのではないかと思う。何かわかったようなことを言ってしまった直後に、そのことに気づいて、しばしば自己嫌悪に陥るので、わからない話題に関しては、正直に「わかならい」と言うようにしている。話題によっては彼女たちの方が先生なのである。
今日、彼女たちに私が先生として話したのは、日記の効用である。ブログでなくて(ブログであってもいいんのだが)、普通の日記である。日記の効用とは日々を構成主義的に生きることの効用である。一日の出来事、考えたこと、感じたこと、それらの中から特定の出来事や考えや感情にスポットライトを当てて、編集室のデスクのように、「よし、今日のトップニュースはこれでいこう。これはコラムにしよう」と判断して、毎日、一定の紙面を構成する。文章だけで紙面を埋める必要はない。デジカメの写真、イラスト、映画のチケットの半券、新聞の切り抜き、誰かからのメール・・・そうしたあれこれの素材を使って、紙面を編集する。そうすることで流されるように生きている毎日に主体的にかかわっていく姿勢が生まれてくる。一種の作業療法だ。何も書くことがない・・・のであれば、何か書くことがあるような生活を心がければいい。特別なことをしなくても、ちょっと立ち止まって考えるだけで、書くことは生まれるものである。何かについて書くためにはその何かについて考えなくてはならない。考えることがめんどくさいという日もあるだろうが、それは結局、生きることがめんどくさいと言っているのと近似である。誰の中にもそういう気分はあると思うが、その気分にずっと浸っていては、自分が腐ってしまう。・・・また、わかったようなことを言ってしまった。
9時、「カフェゴトー」を出て、それぞれの家路に着く。明日は月曜日。サラリーマンにとっては一週間の中で一番憂鬱な曜日だろう。でも、お天気はよさそうだ。