フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月20日(火) 晴れ

2012-03-21 06:24:57 | Weblog

  7時、起床。ポテトサラダ、トースト、紅茶の朝食。

  新年度の秋学期の新設科目である「社会理論と社会システム」はフルオンデマンド科目で、現在、収録中なのだが、私が担当する3回分はすでに収録が終っている。今朝、収録したコンテンツを改めてチェックしたら、口の動きと音声が若干ずれていて、まるでアフレコみたいに見える。収録直後にチェックしたときは気づかなかった。おかしいな。担当のYさんにメールを送り、調整をお願いする。

  10時半に母、妻、息子と家を出て、下谷の菩提寺に墓参りに行く。現地で妹夫婦と合流。暮れの墓参りのときと同じく昼食を上野広小路の「人形町今半」の支店(鈴乃家ビル6F)で食べようと思ったが、彼岸の中日だけあって満席だった。それではと上野松坂屋南館地下2Fの「浅草今半」の支店へ行く。こちらは少し待って入ることができた。全員がすき焼重(1500円)を注文。名前はすき焼重だが、「人形町今半」の支店のすき焼弁当(1500円)と基本的に同じ構成。同じ価格であれば、店構えが立派でゆったりした気分で食べられる分、「人形町今半」の支店のすき焼弁当の方がお徳と思う。 


「人形町今半」上野広小路店のすき焼弁当(お重の下の段がお櫃になっている)

   食後、みんなと別れ、上野広小路から銀座線に乗って、溜池山王へ。サントリーホールで開かれる早稲田交響楽団の定期演奏会を聴きに行くためである。予定されていた曲目は3つで、すべてR.シュトラウスだったが、1つが油谷一機の「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」に変更になっていた。2月中旬から3月中旬まで行っていたヨーロッパ公演のときのAプログラムと同じにしたわけだ。

  この変更は私にとっては、おそらくは大部分の聴衆にとっても、よい結果をもたらした。R.シュトラウスが大好きという人もいるとは思うが、私は今日の最初の曲(予定では最後の曲)「アルプス交響曲」だけでもう十分、お腹がいっぱいになった。いわゆる後期ロマン派の交響曲らしい交響曲で、本来のタイトルが「アンチクリストーアルプス交響曲」であったことに示されているように、神を介在しない、人間(自己)と大自然との直接的な対峙という、大仰といっていいくらいのスケールの大きな曲で、50分という演奏時間の終盤近くまでずっと緊張感が持続していて、終ったときは一仕事終えたときのような気分だった。音楽と格闘したような感じがしたのは、その音楽が外来のもの、外部で響いていて、それが私の内部に侵入して来るものであったからである。私はそれに圧倒されながら、同時に拒絶しているようなところがあった。終盤で和解できたのは、人間(自己)と自然との対峙が、自然との穏やかな融和で終ったからだろう。

  これに対して、「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」は、音楽が私の内部から湧き上がって来る感覚があった。太鼓だから旋律はなくリズムを奏でるわけだが、大中小三台(三張り)の和太鼓の掛け合いには本当にワクワクした。洒落ではないが太古のリズム。われわれの内部に眠っていた生命のリズムに息を吹きかけらたような気がした。もちろん「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」は雅楽でない。雅楽と洋楽のコラボだ。和的要素がすべて私の内部にあるわけではないし、洋的要素がすべて私の外部にあるわけでもない。戦後生まれの私は、そもそもが和と洋の雑種的な人間である。コラボ的人間なのである。そのことを「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」は改めて私に認識させた。

  演奏会が終り、再び銀座線で溜池山王から銀座に出る。伊東屋で買物をするためだが、身体の内部にまだ残っている音楽の響きをもう少し感じていたい気分もあった。買物をすませて、9階のティーラウンジで一服する。 

 

  「玉屋」で苺大福とみたらし団子を家族への土産に買って帰る。夕食はサーモンとイクラの海鮮丼。ご飯は酢飯でさっぱりと。 

  眠くなったので、10時前に就寝。「ハングリー!」の最終回は録画して明日観ることにする。


3月19日(月) 晴れ

2012-03-20 01:49:50 | Weblog

  8時、起床。青空が戻った。焼きソーセージ、レタス、トースト、ジャム、蜂蜜、紅茶の朝食。

  会議で報告する資料を作成し、担当者にメールで送ってから家を出る。

  早稲田に着いて、1時からの会議にはまだ時間があるので、「フェニックス」で昼食をとる。チキンカレーとコーヒーを注文したところで昼休み研究室に学生が来ることになっているのを思い出す。あらら。教員ロビーに電話をして、申し訳ありませんが研究室のドアのところに「遅刻します。教員ロビーで待っていてください」と貼紙をしておいてくれるように依頼する。カレーとコーヒーを胃に流し込み、教員ロビーへ。ゼミ新3年生のIさんが待っていた。彼女は先日の論系ガイダンスを休んだので、そのとき渡すはずだったテキストとゼミ論集を渡す。

  1時から人事委員会の打ち合わせ。2時半まで。

  そのあと事務方と個別案件の相談を2つほど。5時に大学を出る。

  昼食がせわしなかったので、「maruharu」でお茶でも飲もうと立ち寄る。フレンチトーストとコーヒー(セットで600円)。フレンチトーストは定番のメープルシロップとシナモンの組み合わせではなく、蜂蜜とカルダモンの組み合わせを注文する。焼きたてにアイスクリームをのせて、溶けたところをフォークとナイフで食べる。温かくて冷たい。甘くて辛い。サクサクしてジューシー。ケーキを食べるのとはまた違った味わいである。

   蒲田に着いて、有隣堂と栄松堂で以下の本を購入。

    円城塔『これはペンです』(新潮社)

    三浦しをん『きみはポラリス』(新潮文庫)

    スティーグ・ラーソン『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』上(ハヤカワ文庫)

    久住昌之『ひとり家呑み通い呑み』(日本文芸社)

  7時半、帰宅。風呂を浴びてから夕食。今夜の献立は鰹のたたき(ネギとニンニクとポン酢で)と豚汁。 

   夕食後、購入したばかりの本を手に取る。

   『きみはポラリス』は短篇小説集で「最強の恋愛小説集」とカヴァーに書いてある。「最高の」ではなく「最強の」というところに惹かれて購入した。もちろん、『まほろ駅前多田便利軒』の三浦しをんの作であるから、信用はしている。まず表題作から読もうかと思ったら、「きみはポラリス」というタイトルの作品はない。小説集全体に付けられたタイトルのようである。一番それらしい作品である「冬の一等星」を読むことにした。ただし、ポラリス(北極星)は冬の星ではないし(一年中同じ場所にある)、一等星でもない(二等星)。

  若い(たぶん)女性が8歳の頃の誘拐事件を回想する話。誘拐事件といっても、本当は誘拐ではなく、家の車の後部座席に女の子が寝ていることに気付かずに若い男が車を盗み、大阪へと走る。途中で女の子に気付いたが、引き返す時間はなくて、たぶん私の想像ではこの若い男(文蔵という名前)はヤクザの鉄砲玉で、対抗する組の親分の命でも狙いに行くところなのだろう、無論のこと死を覚悟している。この若い男と8歳の女の子のつかのまの交流が描かれる。山中のパーキングエリアで二人が星空を眺める場面はとくにいい。女の子は大人になってからもこのときのことをくりかえし思い出す。いや、思い出すというよりも、ずっと忘れずにいるのだ。

 「文蔵は、どこへ行くかは言わなかった。
  だったら私は、文蔵が戻ってくるのを待ってみよう。いつかきっと、気づいたら車は走っていて、運転席には文蔵が座っているのだ。
  私は文蔵に、いろんな話をするだろう。
  スフィンクスを見に、実際にエジプトへ行ったことも、後部座席の想像の旅を、未だにやめられずにいることも。冬の夜空を見上げるたびに、オリオン座の下にあるうさぎ座を探さずにはいられないことも。文蔵の見た夢に似た野原に、私の夢の中で行ったことも。
  話はたくさんある。
  だけどなによりも文蔵に伝えたいのは、私を守ってくれてありがとう、ということだ。
  文蔵はたぶん、とても昏(くら)い場所へ行こうとしていた。でも、突然まぎれこんだ私を、そこへつれていこうとは決してしなかった。傷つくことがないように細心の注意を払って、私を暗がりから遠ざけた。
  信じる? と文蔵は聞いた。何度聞かれても、私は信じると答えるだろう。それを教えてくれたのは文蔵だ。
  細い線をつないで、だれかと夜空にうつくしい絵を描くこと。
  八歳の冬の日からずっと、強く耀くものが私の胸のうちに宿っている。夜空を照らす、ほの白い一等星のように、それは冷たいほど遠くから、不思議な引力をまとっていつまでも私を守っている。」(356-7頁)


3月18日(日) 小雨のち曇り

2012-03-19 01:20:59 | Weblog

  昨夜は9時頃に寝てしまい、4時間ほど寝て目が醒め(というか、妻に起こされ)、ブログの更新やあれこれの資料の作成に手をつけ始めたら、結局、朝の6時まで作業を続けてしまい、それからまた3時間ほど寝て、9時起床で、日曜日の一日が始まる。焼肉、キャベツ、トースト、紅茶の朝食。

  雨がまだ残っている。雨でも散歩に出ることはあるが、今日中に片付けなければならない仕事がふたつほどあるので、雨を理由にして自宅に篭ることにした。

  昨日は卒業生の一人からあまりよくない知らせがあり、そのためもあって(ほかにも理由はあるのだが)、気分が塞ぎ気味であった。しかし、今日はそれなりに落ち着きを取戻し、仕事に専念することができた。一日という時間の経過ということもあるが、卒業生本人が、落ち込まず、少なくとも落ち込んだ素振りを見せず、明るく振舞ってくれているので、こっちが落ち込んではいられないという気持ちになったのである。

  昼食は、仕事を中断したくなかったので、ドーナツと紅茶で済ませた。

  夕方近く、雨が上がったので、チュンを手の中に入れて、近所を散歩する。チュンはおとなしく周囲を見ている。公園の芝生の上に置くと、ちょっと寒そうにぴょんぴょんしていた。散歩から戻る途中、前方50メートルを妻が歩いている。外出から戻ったのだ。「おーい、幸子」と呼んでみるが、振り向かない。呼び捨てがいけないのかと、「おーい、幸子さん」と言い直してみるがやはり振り向かない。もしかして後姿の他人の空似かと思っていたら、ちゃんと我家の玄関から中に入った。やっぱり妻だった。玄関先に野良猫のなつがいたので、チュンと対面させる。なつは「雀だ!」という顔をし、チュンは「ニャン子だ!」という顔をした。

  夜も集中力がそれほど途切れることなく仕事を続ける。夕食(餃子)も腹八分目にしておく。これが肝心。

  午前1時を回った。明日は午前中に一本レポートを書き、午後から会議がある。明日に備えて寝るとしよう。


3月17日(土) 雨

2012-03-18 03:27:28 | Weblog

  9時、起床。週末が雨になることは、週間天気予報によりわかっていたが、実際に降られてみると、昨日までずっと晴天が続いていただけに、「せっかくの週末なのに・・・」という気分になる。

  朝食兼昼食で、やきそばにベーコン&エッグを乗せて食べる。

  昨日頂いた『早稲田現代文芸研究』2号をパラパラと読む。文芸ジャーナリズム論系の学会誌で、先生方が寄稿しているが、1年前になくなった江中直紀先生の追悼特集の頁に渡部直己先生が「江中直紀の「本」について」という一文を寄せている。

  「同級生・芳川泰久とともに仏文の大学院に上がったおり、平岡篤頼門下のまばゆい先輩として初めて仰ぎみたその時分から、二〇一一年二月の不慮の死に近ぢかと立ち会うまで。数えれば、三十五年以上の付きあいとなるのだから、江中直紀について、語りたいこと、語るべきことは、公私にわたりむろん山ほどある。」

  その山の中から、渡部先生が選んだものは、「久しく不審を禁じえなかったことがら」である。

  「すなわち、江中直紀はなぜ一冊の「本」も残さなかったのか?」である。

  江中先生の遺稿集『ヌヴォー・ロマンと日本文学』(せりか書房)がこのたび出版されたが、渡部先生はその編者の一人であった。遺稿集を編むにあたって、渡部先生は芳川先生や市川真人先生と伴に2000枚ほどの遺稿に目を通された。

  「もとより、個々に出来不出来はある。しかし、こうして抜粋してみれば、今日なお立派に通用する一本である。江中氏はこれをなぜ、それがもっとも欲せられていた時流にみずから投じ入れようとしなかったのか!?」

  その答えを渡部先生はこう推測する。

  「君や芳川の書物ならいざしらず、この程度のものなら、少なくとも自分の「本」に収めるには足らないというのが、おそらくは、当時の彼の答えであったと思う。さすがに、面と向かってそんな台詞を聞かされたわけではないが、なぜ一本に纏めないのですかと尋ねるたびに、彼はきっぱりと暗にそう答えていた。そして、私もなぜか、そんな答えこそ、江中直紀に相応しいと勝手に納得しつづけてきたのは、狷介であると同時に純粋な彼の矜持を尊重し、かつ、畏敬していたからだ。氏はたぶん、「江中直紀」にしか書けない「本」を求めながら、その折々の文章に、いまだ十分にはその名にあたいしない署名をしぶしぶ記してきたかにみえる。」

  「つまりは、ロマンチックなナルシスト? たぶん、そうだとは思う。が、何冊も本を作りながら、作るほどに手に負えぬあまたのナルシストにくらべれば、その自己理想化は、すがすがしいほどに清潔ではないか!」

  その江中先生が、晩年、本を出そうという気になったらしい。

  「これは、わたしも芳川氏も本人から一、二度聞かされたことであり、現に、千佳夫人の手許に残されたコピー・ファイルには、当人による選別マークが施されていた。「遺稿集」発刊作業は、したがって、江中氏の意志をなかば代行するものなのだが、それにしても、この期に及んで彼がなぜ、自分の「本」を作ろうと欲したのか?」

  「それを考えるとじつは胸が痛むj。ここ十年近くの間、彼の文章には、明らかに疲弊と退潮の気味が伺われるからだ。あえて厳しくいえば、そこには、持ち前の自尊心の高さが逆に、マンネリ気味な文章の低さをかばっているかのような停滞ぶりが顕著なのだ。その暗色はむろん、彼を蝕んだ病魔に由来する。とすれば、彼がみずから作ろうとしたものは、江中直紀に来るべき真の「本」ではなく、すでに過ぎ去った力への「墓標」のようなものとしてある。少なくとも江中直紀当人はそう感じていたのだと思うし、あの江中にそう感じさせてしまった点におき、事態は何とも痛ましいのだ。だが、残されたわたしたちにとって、これはけっして「墓標」ではない。それは、江中直紀のもとから来るべき力を、わたしたちの〈いま・ここ〉へとなお招き寄せる「記念碑」としてあるだろう。」

  35年以上の付き合いのある人だから書ける文章である。


3月16日(金) 晴れ

2012-03-17 11:01:29 | Weblog

  8時、起床。コンビニにパンを買いに出ると、野良猫の「なつ」がいた。この冬は我家の周りで見かけることが多かった。

   ウィンナーとキャベツの炒め、白桃とブルーベリーのジャム、トースト、紅茶の朝食。食事を終えて、録画しておいた『孤独のグルメ』を観る。今日は名のある俳優さんがたくさん出演していた。普通はゲストは1名なのに、今日は小沢真珠、モト冬樹、美保純、3人も出ていた。視聴率がいいから、友情出演が増えたということかもしれない。

  昼前に家を出る。東京都写真美術館に「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」展を観に行く。堀野正雄は1907年の生まれ。清水幾太郎と同年の生まれで、しかも清水が日本橋の出身、堀野は京橋の出身である。2人とも中学4年生で関東大震災に遭っている。亡くなったのは、清水が1988年(81歳)であったのに対して、堀野は1998年(91歳)であった。清水より10年長生きした堀野であったが、清水が戦後日本のオピニオンリーダーとして活躍したのに対して、堀野は写真家としての活動は1930年代がピークで、戦後は写真家であることをやめ(仕事もなかったらしい)、ストロボ関連の商品を扱う株式会社ミニカム研究所の経営者としての人生を送った。これだけでも私にとっては興味深い人物であるが、展示会では、彼の写真家としての軌跡を6部構成で再現している。すわなち、(1)築地小劇場の舞台や新興舞踏を撮った時期、(2)美術評論家の板垣鷹穂と組んで機械的建造物を撮った時期、(3)同じく板垣と組んでグラフ・モンタージュ〈複数の写真や文字の組み合わせ)の技法を駆使して大都市東京の実態を撮った時期、(4)告発的なまなざしで社会性に富んだ報道写真を撮った時期、(5)『婦人画報』や『主婦之友』を舞台として女性モデルを盛んに撮った時期、(6)日本の植民地であった朝鮮や中国の人々を撮った時期、である。短期間にいろいろなテーマに取り組んだわけであるが、それは自身の内なる関心からであると同時に、外からの要請でもあったろう。それまちょうど「売文業者」であった清水が、さまざまな雑誌メディアからの注文に応じていろいろなテーマについての文章を次々に発表したのと似ている。才能のある人は、どのようなテーマでも一定水準の作品を仕上げるけれども、短期集中で、同じテーマに長期に取り組むことはないので、器用だがどこかあっさりした印象を受ける。「幻のモダニスト」はスタイリストでもあったのではなかろうか。

  展示会を観終えて、いつものように1階のショップの奥のカフェ「シャンブル・クレール(明るい部屋)」に行くと、店長のGさんが挨拶に来て、実は3月25日をもって閉店することになりましたと言った。あれ、まあ、それは残念。写真美術館とこの明るいカフェは私にとってワンセットのものであったのに・・・。「緑のコーヒー豆」の閉店に続いての馴染みの店の消失は淋しい限りだ。オレンジジュースとキーマカレーを注文する。3月24日からロベール・ドアノーの生誕100年記念写真展が始まるから、初日に来れば、「シャンブル・クレール」と最後のお別れができるな。

  恵比寿から地下鉄日比谷線に乗って人形町に行く。何かの用向きがあったわけではなく、なんとなく気が向いて、というほかはない。しいていえば、キーマカレーではお腹が膨れなかったので、「人形町今半」で牛丼が食べたくなったのである。牛丼というとチープなイメージがあると思うが、「人形町今半」の牛丼は決して安くはない。もちろんメニューの中では一番安いのだが、1890円(消費税込)する。2階の立派な座敷に案内されたが、昼食の時間を外れている(2時半)こともあって、他に客はいない。カウンターで牛丼を食べる気安さとはほど遠い。所在無いので仲居さんとおしゃべり。「浅草今半」と「人形町今半」の関係について教えもらう。やがて朱塗りの盆に乗って運ばれてきた牛丼は、甘めのたれで味付けされた柔らかな肉がふんだんに使われていた。老舗の料亭で食べる牛丼とはかくのごときものなり。

   食後、人形町界隈を散歩する。


甘酒横丁


いま上映中の東野圭吾原作の映画『麒麟の翼』は人形町が舞台である。


他所では見られない商品を扱っている店が目につく


赤ん坊を抱いた人が目立つのは近所に水天宮があるから


和服姿の女性たち



ついでにお参りする(Sさんの安産を祈る)

  大学に顔を出す。くれば仕事というものはあるものである。6時半までいる。

  半蔵門の駅のそばのビルに北欧の家具を展示しているスペースがあって、そこで平河町ミュージックスというコンサートが定期的に開かれているのだが、今夜はそこで笙(しょう)の演奏を聴く。同僚の小沼先生からのご招待である。奏者は2人。目を瞑って聴いていると、音源が移動している感じして、目を開けたら、実際、フロアーの中を二人の奏者が歩いていた。平面的な移動だけでなく、2回のフロアーにあがったりもしている。これは面白い試みだ。視覚の3Dではなくて、聴覚の3Dだ。深い海の底、あるいは宇宙空間で聴いているようだ。笙は息を吹くときだけでなく、息を吸いながらでも音が出る。つまり音は常に持続的に鳴っている。音階の上下と音の強弱があって、無音の間というものがない。生命の呼吸音を聴くような音楽。世俗を離れた不思議な音色にたっぷりと浸る。

  10時、帰宅。昼食が遅かったので、夕食はとっていなかった。カップ麺を食べる。

  吉本隆明が亡くなった。何か書きたいような気もするが、吉本は私には難しい。