7時、起床。ポテトサラダ、トースト、紅茶の朝食。
新年度の秋学期の新設科目である「社会理論と社会システム」はフルオンデマンド科目で、現在、収録中なのだが、私が担当する3回分はすでに収録が終っている。今朝、収録したコンテンツを改めてチェックしたら、口の動きと音声が若干ずれていて、まるでアフレコみたいに見える。収録直後にチェックしたときは気づかなかった。おかしいな。担当のYさんにメールを送り、調整をお願いする。
10時半に母、妻、息子と家を出て、下谷の菩提寺に墓参りに行く。現地で妹夫婦と合流。暮れの墓参りのときと同じく昼食を上野広小路の「人形町今半」の支店(鈴乃家ビル6F)で食べようと思ったが、彼岸の中日だけあって満席だった。それではと上野松坂屋南館地下2Fの「浅草今半」の支店へ行く。こちらは少し待って入ることができた。全員がすき焼重(1500円)を注文。名前はすき焼重だが、「人形町今半」の支店のすき焼弁当(1500円)と基本的に同じ構成。同じ価格であれば、店構えが立派でゆったりした気分で食べられる分、「人形町今半」の支店のすき焼弁当の方がお徳と思う。
「人形町今半」上野広小路店のすき焼弁当(お重の下の段がお櫃になっている)
食後、みんなと別れ、上野広小路から銀座線に乗って、溜池山王へ。サントリーホールで開かれる早稲田交響楽団の定期演奏会を聴きに行くためである。予定されていた曲目は3つで、すべてR.シュトラウスだったが、1つが油谷一機の「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」に変更になっていた。2月中旬から3月中旬まで行っていたヨーロッパ公演のときのAプログラムと同じにしたわけだ。
この変更は私にとっては、おそらくは大部分の聴衆にとっても、よい結果をもたらした。R.シュトラウスが大好きという人もいるとは思うが、私は今日の最初の曲(予定では最後の曲)「アルプス交響曲」だけでもう十分、お腹がいっぱいになった。いわゆる後期ロマン派の交響曲らしい交響曲で、本来のタイトルが「アンチクリストーアルプス交響曲」であったことに示されているように、神を介在しない、人間(自己)と大自然との直接的な対峙という、大仰といっていいくらいのスケールの大きな曲で、50分という演奏時間の終盤近くまでずっと緊張感が持続していて、終ったときは一仕事終えたときのような気分だった。音楽と格闘したような感じがしたのは、その音楽が外来のもの、外部で響いていて、それが私の内部に侵入して来るものであったからである。私はそれに圧倒されながら、同時に拒絶しているようなところがあった。終盤で和解できたのは、人間(自己)と自然との対峙が、自然との穏やかな融和で終ったからだろう。
これに対して、「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」は、音楽が私の内部から湧き上がって来る感覚があった。太鼓だから旋律はなくリズムを奏でるわけだが、大中小三台(三張り)の和太鼓の掛け合いには本当にワクワクした。洒落ではないが太古のリズム。われわれの内部に眠っていた生命のリズムに息を吹きかけらたような気がした。もちろん「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」は雅楽でない。雅楽と洋楽のコラボだ。和的要素がすべて私の内部にあるわけではないし、洋的要素がすべて私の外部にあるわけでもない。戦後生まれの私は、そもそもが和と洋の雑種的な人間である。コラボ的人間なのである。そのことを「和太鼓と管弦楽のための協奏曲」は改めて私に認識させた。
演奏会が終り、再び銀座線で溜池山王から銀座に出る。伊東屋で買物をするためだが、身体の内部にまだ残っている音楽の響きをもう少し感じていたい気分もあった。買物をすませて、9階のティーラウンジで一服する。
「玉屋」で苺大福とみたらし団子を家族への土産に買って帰る。夕食はサーモンとイクラの海鮮丼。ご飯は酢飯でさっぱりと。
眠くなったので、10時前に就寝。「ハングリー!」の最終回は録画して明日観ることにする。